世界経済の流れ
第二次大戦終了後二〇年余りを経た今日の世界経済はいろいろな意味において大きく変貌しつつあり、米国の経済的優位の時代から今や多角的な国際協調の時代に入るとともに、地域的統合の進展、低開発国問題のクローズアップ、東西貿易の伸張等が新たな問題をなげかけている。
過去一カ年の先進工業国の景況は、成長鈍化の程度が予想されたよりはるかに小幅にとどまり、全般的にはまず好調裡に推移しつつあるといえる。また世界貿易についても、一九六五年上期には若干の伸び率鈍化をみせたものの、下期には再び上昇基調に転じたため、年間の伸び率は、八・五%(IMF統計)を記録し、一九六一~六三年の年平均伸び率六%を上回った。しかし、全般的に先進国相互間の貿易の伸びが順調であったのに対して、先進国、低開発国聞及び低開発国相互間ののびは低水準にとどまった。
関税の一括引下げ及び関税以外の貿易障壁の軽減を目途に六四年来交渉が続けられて来たケネディ・ラウンド交渉は、六五年六月末の農業基金問題に端を発したEECの内部対立のため、工鉱業品に関しては一応各国間の交渉が進められてはいたが、農産物に関する交渉はほとんど進展せず、交渉は事実上足踏み状態を続けていた。しかし、六六年一月に開かれたEEC特別理事会によってEECの危機は一応収拾を見、交渉の見通しは全般的に明るくなっており、六六年秋より来春にかけケネディ・ラウンド交渉はいよいよ本格化するものと予想される。
低開発諸国の過去一カ年間の景況は、地域によりまた国により大きな差が見られ、一部の国では政情の不安がその経済にも影響を及ぼしているが、ラ米、中近東地域は概して堅調裡に推移した。しかし、アジア、アフリカ地域では、かなりの停滞が目立っている。また、低開発国の対外債務の累積は依然増加し、一次産品市況は低迷を続けた。とくに、アジア、アフリカ諸国の外貨事情は悪化の一途をたどり、輸入制限をとる国が続出した。
UNCTAD、ガットなどの国際会議の場においては、過去一年間は専ら機構作りに追われたため、実質問題については問題点の指摘にとどまり、六四年のような南北間の劇的な対立の場面はみられなかった。しかし六七年開かれる第二回UNCTAD等では、低開発国側が再び攻勢に転じ、実質問題での進展を迫って来ることが予想される。
東西貿易は最近著るしい伸長を示した。これには米ソ関係を軸とする東西間の雪どけムードや中ソ対立等の政治的背景のほかに、経済的には、共産圏諸国がその長期経済計画の目標を達成するため、西側先進諸国より最新の機械設備および技術を輸入しなければならなかったこと、また、農業不振のため小麦などの食糧を緊急に輸入する必要などがあり、他方、西側においても、その重化学工業製品、食糧などの恰好な輸出市場として共産圏諸国を高く評価してきたこと等の要因が考えられる。
従来最も消極的な態度をとっていた米国においても、六五年一月ジョンソン大統領の年頭教書で、ソ連圏、特に東欧諸国との貿易拡大の必要性が説かれ、五月にはこの問題を検討するため設立された大統領諮問委員会(ミラー委員会)が、ソ連、東欧との貿易は外交手段に利用しうること及び国益に合致する場合、共産圏諸国に対し最恵国待遇を与える権限を大統領に付与すべきことを内容とする答申を行なった。
以上に略述した最近の国際経済の動きにみられる第一の特徴は、経済問題と政治問題とがますます密接に絡み合っていることである。
例えば、前述のケネディ・ラウンドが足踏み状態になった根本原因は、フランスと他のEEC諸国との内部対立のためであり、その直接的な原因は農業基金問題であるが、その背後には、EECの決定が全会一致制から多数決によって行なわれる第三段階への無条件の移行により、EECが超国家的性格を強めることに反対しようとするフランスの意図があり、これが欧州政治統合問題とも密接に絡んでいるとみられている。
従来から問題となっていた南アフリカ共和国に対する経済制裁問題も、国連などの場において六五年は益々激しく議論され、また、南ローデシアに対しては六五年一一月経済制裁に関する安全保障理事会決議が採択され、現実に経済制裁が行なわれている。
また、UNCTADなどを中心に討議されている低開発国問題自体、南北問題と称される政治的、経済的問題である。
第二の特徴は地域経済統合の進展である。既存の英連邦特恵関係の紐帯が弱化傾向を示しているのに反し、中南米におけるLAFTA、CAFTAをはじめアフリカやアラブ諸国間等においても種々の経済統合の動きがあるが、最も注目すべきはEECの動きである。即ち、EECはその内部対立を一応解決し、予定より早く一九六八年七月に共同市場を完成すべく統合の方向へ進みつつあり、アフリカにおける旧仏領諸国とEECの連合に加え、ナイジェリア、ガーナ、東アフリカ三国も連合関係設定の方向に進みつつある。また豪州とニュー・ジーランド間の自由貿易地域協定は六六年一月より発効し、英国とアイルランド間の自由貿易地域協定は七月に発効することになっている。かかる地域統合とは性質を異にするが、六五年には米加間の自動車特恵協定も実施に移された。
このような地域経済統合の進展に対し、自由無差別な原則にもとずき貿易障壁を軽減、撤廃することにより地域経済統合が閉鎖的とならないようにする努力が進められている。ケネディ・ラウンド交渉はその代表的なものである。
第三の特徴は国際通貨制度改善をめぐる動きが具体化のきざしを見せてきたことである。即ち、六五年二月に行なわれた金本位制復帰に関するドゴール仏大統領の声明をはじめとし、ファウラー米財務長官の国際通貨会議開催提案、オツソラ報告の公表、ローザ構想の発表およびパリ・クラブ参加一〇カ国(一〇カ国蔵相会議)による国際通貨問題の検討継続に関する決定等がそれである。
これら一連の動きを通じ、キー・カレンシー国である米英が、現行IMF体制を維持しつつも、将来両国の国際収支が均衡した場合に起りうる国際流動性の不足に対処するため、予め現行国際通貨制度の改善を検討しておこうとするのに対し、仏等の一部欧州大陸諸国は米英に対し金融節度を要求し、その上で、現行制度に大幅な改革を加えんとしているが、大陸諸国の内部においても、現行制度の根本的改革を主張するフランスとその他諸国との間では必ずしも歩調が整っていないようである。
以上のように、世界経済は政治との不可分性を強めて来ているが、わが国はその国際的地位の向上とともに、主要先進国の一つとして国際政治、経済上の責務は強まりつつあり、従来の如く、一国のみの経済的利益の追求に重点をおく政策は次第に困難になって来ている。かかる観点からわが国はOECDにも加盟し、加盟後一年有余を経た今日、主要先進国としてのわが国の地位は確立し、六五年一二月には執行委員会のメンバーに選出された。また、ケネディ・ラウンド交渉をはじめガットの各種会合において、わが国は米、EEC、英と並び四大主要貿易国としてガット全体の運用についても重要な役割を果している。UNCTADにおいては、わが国の短期的経済的利益の擁護の面のみに終始することなく、低開発国の貿易及び開発の促進のために、わが国としてできるだけ積極的な姿勢でのぞもうとしている。また、小麦協定、コーヒー協定等の各種商品協定の会合に積極的に参加し、一次産品の分野においても、わが国応分の協力を行なった。
次に各地域でみられる地域統合の動きについては、わが国は少なくとも先進国との関係においては、自由無差別の原則にもとづく貿易の発展を図ることを中心に対処して来た。かかる意味からわが国はケネディ・ラウンド交渉にも積極的に参加し、また、欧州諸国と対日差別撤廃交渉を行なって来た。
国際通貨制度の問題については、わが国はIMF、一〇カ国蔵相会議、OECD第三作業部会等の討議に積極的に参加し、主要国と充分な協調の下に、さし当り現行IMF体制の改善、強化に努めており、現にわが国の出資割当額の二五パーセントの増加及び特別割当に合意した。
次に、地域別に問題点を概観するに、日米間の貿易関係は順調に推移した。特にわが国の対米輸出は鉄鋼などを中心に好調を示し、前述のとおり一億一千万ドルの出超を記録した。対米貿易が通関統計で出超となったのは戦後初めてであり、注目に値するものといえよう。しかし、その反面、鉄鋼などの対米輸出の著増が米国内の業界を刺激し、輸入の制限を求める動きが後を絶たない。このような動きは、引続く米国内の好況のために最近においてはやや活発さを欠いているとはいえ、その推移は必ずしも楽観を許さない。また米国の国際収支対策の今後の動向にも注目の要がある。さらに、わが国における海外からの直接投資に対する制限の緩和問題が米側から強く提起されている。
欧州諸国との関係では、近年対日差別撤廃交渉が相当の成果をおさめたが、なお引続き努力を行なう必要がある。
豪州、ニュー・ジーランドとわが国との経済関係が益々緊密になったことも注目に値する。
アジア諸国との関係ではまず日韓経済関係の緊密化が注目される。過去一〇数年間にわたる日韓国交正常化のための努力が、六五年結実し、一二月に批准書交換の運びとなったが、この日韓国交正常化のための交渉と平行して、日韓両国の貿易問題を検討するため、六五年三月には第一回日韓貿易会議、一二月には第二回日韓貿易会議がそれぞれ東京およびソウルで開催された。第二回会議では日韓貿易取極がイニシャルされ、また、日韓金融協定(清算勘定)廃止のための書簡が交換され、さらに、新海運協定についても今後討議を続けることに合意をみた。
次に、かねてエカフェが中心となり専門家レベルで検討が続けられていたアジア開発銀行の設立については、六五年三月アジア開銀諮問委員会が設置され、同委員会はエカフェ域内各国の意向を打診するとともに、銀行設立協定原案の起草を行なった。その後、一〇月には同委員会の報告書を検討し銀行設立協定の最終案作成のため、政府代表会議が開催され、一二月にはマニラにおける域内国閣僚会議で銀行設立協定が正式に採択され、アジア開銀の本店の所在地がマニラに決まり、さらに引続き開かれた全権会議で協定の承認及び署名が行なわれた。かくして永年の懸案であったアジアにおける重要な地域経済協力機構が実現されることとなった。
他方、前述のごとき低開発国の外貨事情の悪化などを背景に、過去一カ年、わが国との片貿易を理由に対日輸入制限をとる国が続出した。四月にはケニア、タンザニアおよびウガンダの東アフリカ三国並びにジャマイカ、五月にはアフガニスタン、さらに八月にはナイジェリア、九月にはトーゴーが相次いで対日輸入制限を行なった。このため六五年後半におけるこれら諸国に対するわが国の輸出は軒並み減少傾向をたどった。さらに六六年二月にはアルジェリアが対日輸入制限措置をとった。このような動きに対しては、わが国はこれら諸国からの一次産品の輸入増大を図りつつ輸入制限措置の撤廃方説得に努め、また円借款供与や開発輸入によって問題を解決しようとする努力も続けられた。
六五年の共産圏諸国との関係で注目されることは、日ソ貿易関係は貿易量こそ伸び悩みをみせたものの特に問題はなく、むしろ今後の発展に対する期待がたかまったが、これに反し、日中貿易関係については貿易量は著増を示し、共産圏諸国中、ソ連を抜いて第一位を占めるに至ったものの、周知のとおり種々問題があったことである。
日ソ関係では、六五年八月戦後初めて政府派遣の経済使節団がソ連を訪問し、日ソ貿易拡大および経済交流の促進について率直かつ有益な意見交換を行なった。さらに六六年一月には日ソ長期貿易協定が締結され、今後五年間にわたる貿易関係が定められた。また六五年一二月には、日ソ航空協定交渉も妥結した。このような政府べースの交渉とは別にわが国業界もソ連との貿易拡大に熱意を示し、六五年六月、日ソ経済委員会の設立が合意され、六六年三月東京で両国委員会の第一回合同会議が行なわれた。
これに対し、日中貿易は、前年に引続き一九六五年も大幅の伸びを示したが、輸銀融資問題をめぐって中共側が貨物船とビニロン・プラントの延払輸入契約を破棄するという事態を生じ、中共側はわが国政府の対中共政策が変更されない限り、LT貿易の拡大は望めないと言明するに至った。