中南米の情勢

 

一九六五年初頭以降の中南米の政治情勢を概観すると、先ず中道的民主主義勢力が必ずしも伸長しなかったことが認められる。一九六四年クーデターで出現したボリヴィアの軍事政権は依然存続しており、ハイティ、パラグァイでも強固な独裁体制が堅持されているほか、一九六五年四月下旬にはドミニカ共和国で一部軍人が主導しこれに左翼分子が加担した革命が勃発した。この革命は首都サントドミンゴに局限されたが、米国政府が米軍を大量上陸せしめたため、米国政府と米州機構および国連との複雑な関係を生じ、結局米州軍が駐留するという形となった。かくて革命動乱は意外な国際問題を惹起し、四カ月後の九月初旬漸くガルシア・ゴドイ氏を首班とする臨時政権の樹立を見て形式的には一応終結した。しかし、動乱の終結方法が米州機構の調停による和解話合いの形式をとったため交戦した左右両派の対立は解決するに至らず、米州軍の駐留が続いた。さらにエクアドルでは、一九六三年七月クーデターによって出現した軍政委員会が国民の間に高まってきた立憲制復帰の要求に抗しえず、六六年三月末実業家イエロヴィ・インダブロ氏を首班とする民間人および政党人をもって構成される臨時政府に政権を引渡した。

他方、左翼勢力については、一九六四年以降ブラジル、チリ、英領ギアナ(一九六六年五月独立しガイアナとなった)等で共産勢力の後退が認められたにも拘らず、一九六五年には中南米諸国の殆んど全般に亘って共産活動が旺盛となり、メキシコですら共産ゲリラの存在が明らかにされた。

一九六四年一一月ハバナで中南米諸国の共産党大会が開催され、ソ連路線の支持が打出されるとともに米州での共産活動の推進が決議され、破壊活動の主目標国としてヴェネズエラ、コロンビア、グァテマラ、ホンデュラス、パナマ、パラグァイおよびハイティの諸国の名が挙げられたが、さらに一九六六年一月に同じくハバナで三大陸人民連帯会議が開催された際、破壊活動とゲリラ活動との統合および組織化を図り、グァテマラ、エル・サルヴァドル、コロンビア、ヴェネズェラ等の中南米諸国におけるそれぞれの人民戦線の暴力革命による政権獲得を目指すことが決議された。

キューバの情勢については、一九六四年一〇月ソ連のフルシチョフ首相失脚後同国との関係が冷却の方向を辿るかに見えたが、カストロ首相は所謂独立自主路線を守りつつ再びソ連との国交を緊密化する政策を打出した。この政策は中ソ対立について屡々反ソ親中共の態度を公然表明していたエルネスト・ゲバラ工業大臣が、一九六五年三月AA諸国歴訪より帰国後消息を絶ったこと(四月辞任しキューバを去った旨一〇月にカストロ首相発表)、一九六五年三月のモスクワにおける中共不参加の一九党協議会議へのキューバの参加、同年六月のアルジェリアのクーデターによる新政権を中共が承認したことに対するキューバの非難、一九六六年一月中共米の対キューバ供給量の削減に対するカストロ首相の非難等の諸事実に裏書され、キューバの対中共関係の冷却化がうかがわれた。カストロ首相は、このような対ソ連友好関係の再確認に伴い革命軍の内部に動揺が見られたので、その部分的粛清を行なうとともに一九六二年三月に発足した同国の社会主義革命統一党の組織化を着々進め、一九六五年一〇月カストロ首相の腹心が絶対多数を占めるように党中央委員会およびその他党付属機関を改組するとともに、党を共産党と改称した。

この結果カストロ首相は軍部の強力な支持を受け、新党を牛耳る完全な独裁体制を築き上げたが、一九六六年二月末に至ってカストロ首相暗殺計画の容疑者四名の逮捕(陸軍軍人一名を含む)を契機として、国防省高官の罷免、党中央委員会からの除名および軍事裁判が発表されると同時に広範囲にわたる粛清が革命政府によって開始された。このことは前記中共米の供給削減による食糧米の減配に基づく国民の不満の増大及び一九六六年度の砂糖生産の不振(目標六五〇万トンに対して四〇〇万トン)による国家経済の悪化に起因する国内的不安の存在をも示すものとみられた。

他面、米国とキューバとの関係では、米国は引続き対キューバ封鎖政策を推進したが、一九六五年九月末カストロ首相は米国亡命を希望するキューバ人の出国を許可するとの声明を行ない、米国がこの呼びかけに応じて亡命者を受入れることになった。しかし、これは両国関係の雪融け開始を意味するものでなく、米国としてはキューバが共産主義工作の基地であることを止めないかぎり対キューバ政策の基本方針を変更しないとの立場を堅持した。

ブラジルの情勢については、一九六四年四月の革命の後就任したカステロ・ブランコ大統領は一九六六年一〇月に予定通り大統領選挙を実施することによって政治の正常化を主張していたが、一九六五年一〇月の州知事選挙で政府派が手痛い敗北を喫し、インフレ政策をとっていたクビチェック元大統領につながるグループが伸びた結果、軍部強硬派からの圧力により大統領は第二軍政令を公布し、一九六六年の大統領選挙を国会による間接選挙に改め、連邦最高裁判所および司法制度の改組、政党の解散および再編を行ない、公民権停止、公職追放、戒厳令発令、州干渉等の広範、かつ、強力な権限を大統領に与えた。この結果現政権は軍事政権的色彩を一層強めるに至った。

アルゼンティンの情勢については、一九六三年一〇月に発足したイリヤ文民政府は発足前二年間近く放任された諸問題が山積していたことのほか、政府与党が国会で三分の一程度の勢力しか占めていないため、強力な政策遂行上種々の困難に当面した。他方、軍部は穏健派によって統率され、直接政治に介入することを慎んでいたが、ペロン派二政党が一九六五年以降の諸選挙で躍進し、労組中にても主動権を握るようになったものに対し、イリヤ政権がこれを充分抑えず、むしろ妥協的な態度を見せたので、軍部の不満は高まっていった。(一九六六年六月軍部はイリヤ大統領を解任し、オンガニア将軍を大統領とする軍事政権を樹立した。)

このように政治的影響力の大きいブラジル、アルゼンティンを含む中南米諸国の大部分で政治の民主化が遅々として進まない中で、チリにおいては、一九六四年九月の大統領選挙で大勝した中道革新派のフレイ大統領の与党キリスト教民主党は引続いて一九六五年三月の国会選挙でも圧勝を収めた。同大統領は、国家経済の建直しと国際収支の均衡化を図ることを主目的とする産銅倍増政策を一九六六年三月までに確立し、これに引続いて、農地改革をはじめ全般的な経済社会両面の構造改革の達成のため努力しており、その成果は米州諸国より注目された。

米州機構(OAS)の活動としては、前記ドミニカ共和国問題に関連して左右交戦団体間の和解あっせん工作を行ない一九六五年五月外相諮問会議を招集後五カ国委員団を現地に派遣して停戦協定を成立せしめ、次いでOAS平和軍の現地駐留を決議し、米国軍をこれに吸収するとともに、ブラジル、ホンデュラス、ニカラグァ、コスタ・リカおよびパラグァイの軍隊または警察軍を加えてOAS史上初の米州平和軍を組織し、サントドミンゴ市の平和維持に当って事態収拾に努めた結果、漸く九月初めガルシア・ゴドイ暫定政権の成立まで漕ぎつけた。しかし、ドミニカ共和国事変のため一九六五年五月に予定されていた第二回米州特別会議は再度の延期をみた後漸く一一月リオ・デ・ジャネイロで開催された。同会議では、OAS強化策をはじめ米州組織の政治経済両面に亘る再編成についての各種案件が、リオ・デ・ジャネイロ議定書およびリオ・デ・ジャネイロ経済社会議定書の形で決議されるとともに、加盟国外務大臣会議を毎年開催する決議その他が採択された。六六年三月末米州機構憲章改正準備会議がパナマで開催され、OAS総会の毎年開催、常任理事会、経済社会理事会、教育、科学理事会等につき格上げないしは強化が計られたほか、事務局の機構改正等が討議された。また、一九六六年の加盟国外務大臣会議は八月ブェノスアイレスで開催されることが予定され、その際OAS憲章が改正されることになった。

進歩同盟については、その中枢的機関たるCIAP(進歩同盟米州委員会)が着実に業績を挙げた。一九六五年からCIAPの招請に応じてわが国も、英、独、西、伊、オランダ、イスラエルとともに、CIAPの開発計画国別年次審査にオヴザーバーを派遣することとなった。他方、CIAPは事実上全米開発銀行(IDB)、IMF、世銀等の国際金融機開および米国のAID、ワシントン輸出入銀行の中南米諸国に対する開発融資上の協調、調整の役割を果すに至っている。

なお、IDBも着実に実績を挙げており、一九六四年から六五年にかけて多額の開発融資を行ならとともに域外の諸外国より資金の導入に努め、従来からの同行債の起債、参加証券の売却のほかにカナダ、スペインおよびオランダとの間に、信託基金、直接借款または協調融資の諸協定を締結して資金源の多角化を実現した。

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