中近東とアフリカ

 

(1) 第二回AA会議

第二回AA会議は、一九六五年六月二九日にアルジエにおいて開催されることになっていたが、会議を目前にひかえた六月一九日、アルジェにおいてク一デターが発生し、ベン・ベラ大統領が罷免されるという事態が発生した。クーデター後設立された革命評議会は、第二回AA会議を予定通り開催することを明らかにし、中共、インドネシア等は、これに同調したが、大勢は、延期に傾き、六月二六日常設準備委員会特別会合が開催された結果、外相会議は一〇月二八日に、本会議は一一月五日に延期されることとなった。

その後アジアにおいては、印パ紛争、インドネシア政情の混乱等があり、また、アフリカにおいては、ガーナが九月五日にアクラで開催を予定されていた第二回OAU(アフリカ統一機構)元首会議を一〇月二一日に延期することを主張して、第二回AA会議の開催との時間的競合の問題を惹起し、OCAM(アフリカ・マダガスカル共同機構)諸国はOAU会議、AA会議双方に対し消極的な態度をとっていた。

一方中共は、九月に入りAA会議で米帝国主義を名指しで非難できないならば条件が整うまで延期した方がよいとして開催延期の態度を打出し注目されたが、かかる中共の態度の変化は、AA地域における情勢が変化し、参加国問題についても中共の意図に反してソ連の参加を支持する国が多い等の情勢にかんがみ、会議の指導権を握ってAA諸国を反帝国主義、反植民地主義のラインに結集するという本来の目的が実現困難と判断したためとみられた。

この間、アラブ諸国は九月中旬にカサブランカで行なわれた第三回アラブ元首会議においてAA会議開催に関してアルジェリアに協力する旨決議したが、これはアルジェリアの面子を立てるという消極的支持の表われとみられた。

かような情勢下において、一〇月一四日からアルジェにおいて常設準備委員会が開催された。席上、アルジェリア、インド、エティオピア、ガーナ、インドネシア等は開催を主張し、中共、パキスタン、カンボディア等は延期を主張して譲らず、アラブ連合、モロッコ等は委員会の多数意思に従らとの態度をとったが、全アジア・アフリカ諸国に対し、会議が予定通り開催される場合の参加、不参加につき、アルジェリアをして打診せしめた結果、一〇月二五日四八カ国中四一カ国が参加の態度を表明した旨報告が行なわれ、同日アルジェリア政府は常設準備委員会の会合が終了し、外相会議は予定通り一〇月二八日から開催される旨発表した。

外相会議は予定より遅れて一〇月三〇日、四五カ国の参加により正式に開会され、ブーテフリカ、アルジェリア外相が議長に選出された。わが国からは、政府代表として宮崎駐トルコ大使、河野駐アルジェリア大使が出席した。

会議においては議題や議事日程をきめる前に参加国問題を討議すべしとするインド提案と、先ず常設準備委員会の作業内容の報告をうけるべしとするウガンダ提案を中心に各国が発言し、翌三一日午前の会議は常設準備委員会の報告を聴取した。同日午後の会議においてインドネシア代表は、首席代表のみの非公式会合を開き、首脳会議の予定どおりの開催の可否につき討議することを提案し、これをうけてブーテフリカ議長が首席代表の非公式会合を開いて参加国問題と首脳会議延期問題のうち、いずれを先議するかを決定すべしと提案し、同日夜、首席代表の非公式会合が開催された。

この間アルジェリア、アラブ連合、インドネシア等は舞台裏で首脳会議延期決議案の起草を行ない、非公式会合において首脳会議延期に関する二三カ国共同決議案が採択された。

本会議は一一月一日夜再開され、非公式会合が採択した要旨次の延期決議案を採択し、二日未明五日間にわたる外相会議を終了した。

(i) 第二回AA首脳会議を延期し、後に決定さるべき時期にアルジェで開催する。

(ii) 常設準備委員会はAA会議開催に必要な準備を行なう任務を引続き委託される。

(iii) アルジェリア官民が会議開催のために払った努力に感謝する。

総じて外相会議においては、各国は実質的問題を殆んど討議せず、参加国問題、首脳会議開催の適否等につき発言して時間を費消し、一方アルジェリアは既に首脳会議延期止むなしとみて出来るだけ外相会議をひきのばし、曲りなりにも外相会議を行なったという形式を整えることに努め、アラブ連合をはじめとするアラブ諸国が、アルジェリアのこの動きに同調した。

参加国問題については、インドをはじめとして出席国の大多数はソ連、マレイシア、シンガポールの参加を支持した。実質問題に触れた各国の発言の中では、AA会議は地道な経済開発問題に重点を置くべしとのセネガル、イラン等の主張が目立ち、またAA会議の将来を展望してAA諸国は、反帝、反植民地主義の夢を追うべきではなく、各国の経済発展、経済協力に重点を置くべきであるとのべたわが宮崎代表の発言が注目された。

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(2) 中近東情勢

一九六四年中には二回のアラブ諸国首脳会議が開催され、相互に対立していたアラブ諸国間に和解の空気が生じていたが、六五年に入りアラブ諸国はイスラエルと外交関係を樹立したドイツとの断交問題をめぐって統一行動をとることが出来ず、これがきっかけとなって再び穏健派諸国と急進派諸国とり対立が表面化して来た。

六月にはアルジェリアにクーデターが勃発してベン・ベラ大統領が失脚し、九月にはイラクにおいてナセル派によるクーデター未遂事件があり、またシリアにおいては、バース党内部の対立から一二月に急進派が閣外に追放され、更に六六年二月、急進派がクーデターに成功する等の事件があり、アラブ連合も国内の経済情勢の悪化とイエメン紛争の長期化に悩み、アラブ世界における急進派勢力は退潮の傾向にある。

イエメン紛争は六五年八月ジェッダ協定が成立し、解決の糸口をつかんだかにみえたが、その後同協定は履行されず、紛争解決の見通しは立っていない。南アラビア連邦においては、民族主義勢力と英国との対立が激化しており、英国政府はアデン基地を撤収する方針を明らかにし波紋を投げた。

六五年五月一三日ドイツとイスラエルとの外交関係樹立が発表されたのに対し、モロッコ、リビア、テュニジアを除くアラブ九カ国は直ちにドイツとの外交関係を断絶した(但し東独の承認は行なっていない)。テュニジアのブルギバ大統領はこれよりさき六五年二月から四月にかけて東アラブ諸国及びイランを歴訪中、国連決議の履行に基づくイスラエルとの平和共存を唱えてアラブ諸国の反撃をうけ、中でもアラブ連合のナセル大統領と鋭く対立したが、この対立はドイツとの外交関係断絶問題をめぐって頂点に達し、相互に大使を引き上げ、テュニジアはアラブ連合の牛耳るアラブ連盟の諸会議には出席しない旨宣言した。

九月一三日から四日間カサブランカにおいて第三回アラブ諸国首脳会議が開催されたが、新たに表面化しつつあったアラブ諸国の内部の分裂を反映し会議は一般に低調であり、僅かにアラブ諸国間の内政不干渉、新聞、ラジオ等による相互攻撃の停止、他国に対する破壊活動に援助を与えることの禁止等を含む「アラブ連帯協定」が成立したに止まった。

他方ファイサル、サウディ・アラビア国王は六五年一二月イラン、本年一月ジョルダン、三月スーダンを公式訪問したが、この訪問の主目的の一つが「イスラム諸国首脳会議」開催の構想を推進することにあるとみられたことから、アラブ連合、シリア、イラク等は、同構想の狙いはイスラム保守勢力を結集し「イスラム同盟」を創設し急進派諸国を牽制せんとするものであるとして激しい攻撃を開始し、アラブ世界における保守、革新両勢力の対立が再び表面化する形勢にある。

イエメン紛争は、アラブ連合がイエメン駐留軍を増派し、一方サウディ・アラビアも王党派に対する援助を増加して共和、王党両派の間に激戦が続き情勢は混沌としていたが、八月二三日ナセル大統領はジェッダに赴き、ファイサル国王と会談し、国民投票による政体の決定、国民投票が行なわれるまでの過渡的期間の間の政治制度を決定し、かつ暫定内閣を組織するためイエメン各派から成る合同会議の開催、両国による合同中立委員会の設置、アラブ連合軍の撤退等を骨子とするジェッダ協定が成立した。同協定に基づいて一一月二三日イエメンのハラド市において共和、王党両派各二五名から成る合同会議が開催されたが、暫定政府の形態をめぐって紛糾し、ラマダン(断食月)明けの六六年一月下旬まで延期されることとなったが、その後会議は再開されず、協定は履行されていない。

南アラビア連邦においては、民族主義勢力と英国との対立が激化した結果、マカーウィ首相の率いるアデン政府と英国の関係は冷却し、英国政府は九月二五日アデン憲法を一時停止し統治権を英高等弁務官に委ねることを発表した。アラブ連合、シリア、イラク等は英国を激しく非難し、一〇月二九日、AAグループ三七カ国は国連第四委員会に、住民の自決権承認、軍事基地の撤去、緊急事態の即時解除、政治犯の釈放等を含むアデン問題に関する決議案を提出し、同決議は第四委員会および本会議において採択された。一方、英国に同調的である連邦内の土候諸国はアラブ諸国に使節団を送って支持を求め、英国も憲法草案を連邦側に提示するとともに、既定方進どおり一九六八年までに連邦を独立させる方策を推進しようとしており、六六年二月二二日に発表された国防白書において連邦の独立後はアデン基地を撤収することを明らかにした。

六五年は、中共が中近東から著しく後退したのが注目されるが、この中にあってシリア・バース党の急進派のみは中共と良好な関係を維持していた。一方ソ連との関係においては、八月にナセル大統領が一二月にはブーメディエンヌ、アルジェリア国家評議会議長がソ連を訪問した他、ソ連は新たに経済援助、要人の往来の強化等によりトルコ、イランとの関係改善にも熱意を示した。

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(3) アフリカ情勢

アフリカにおいては、一九六五年末よりクーデターの続発など政情不安が表面化した。幾つかの英領の独立が内定したが、南ローデシアの一方的独立宣言は国際的な経済制裁の実施に発展し、南部アフリカ問題は複雑な様相を強めている。このような情勢を反映してOAUの前途は必ずしも平安ではないが、他方、共産圏諸国の進出に対するアフリカ諸国の警戒心は強くなっている。

一九六五年一一月二四日のコンゴー(レオ)のクーデターを皮切りとして、ダホメ(一一月二九日と一二月二二日の二回)、中央アフリカ(一二月三一日)、上ヴォルタ(一九六六年一月三日)、ナイジェリア(一月一五日)、ガーナ(二月二四日)において、それぞれ軍部のクーデターにより軍事政権が成立した。またウガンダ、ブルンディ、ルワンダ、モーリタニアなどその他の諸国でも政情不安が起きた。これは独立の完成を目指す国々の、人種及び部族対立や政治の腐敗などの国内の諸矛盾に対する自己反省により生じたものといわれているが、アフリカの諸国指導者層はこれを機会に、一層、現実的な国造りに邁進して、国内政治の安定に努力を払う方向に向っている。

コンゴーにおいては一九六四年夏頃には反乱軍が国土の三分の二を支配していたといわれるが、その後情勢は政府軍に有利に展開し、反乱軍の指導者は国外に逃亡して、一九六五年中に中央政府の権力はコンゴー各地に及んだ。新憲法下初の総選挙も行なわれたが、その後大統領選挙をめぐって政府部内の権力闘争が激化し、カサブブ大統領によるチョンベ首相の解任などが行なわれたところ、一一月にいたってモブツ軍総司令官がクーデターを起してカサブブ大統領を解任し、任期五年の大統領の地位についた。新政府は急激な内政改革を行なっているが、政治家の間の不満や反クーデターの動きも伝えられ、コンゴー情勢は依然流動的な様相を呈している。

アフリカ大陸には総面積の一五%を占める植民地が残存しているが、英領のバストランド、ベチュアナランド、モーリシアスが一九六六年中に独立することとなり、スワジランドも数年中に独立する予定となったので、アフリカにおける植民地解消の過程はかなり前進した。

しかし南ローデシアの一方的独立宣言は国際経済制裁の実施に発展し、南西アフリカ問題に関する国際司法裁判所の判決が、一九六六年中に下ると予想されていることもあってポルトガル領問題を含む南部アフリカの情勢は緊迫化しつつある。

英領南ローデシアでは白人少数政府が、白人の支配体制を維持したまま独立を達成しようとして一九六五年一一月一一日に一方的に独立を宣言した。英国政府はこの宣言を英国主権および憲法に対する反乱行為であるとして、同宣言により生じた事態を終了せしめるため、南ローデシアに対し全般的経済制裁措置をとり、同時にわが国を含む世界主要国に対し制裁に同調を求めた。国連安全保障理事会は一九六五年一一月二〇日、すべての加盟国に対し南ローデシアとのあらゆる経済関係を断つため全力を尽すよう要請する決議を採択し、わが国を含む世界主要国はこの決議に従い南ローデシアに対する経済制裁措置を実施している。一方アフリカ諸国は英国に対し武力の行使を含む強い措置をとって白人少数政府を一日も早く屈服せしめるよう要求し、一九六五年一二月のOAU外相会議では英国の態度を不満として対英断交決議まで行なうに至ったが、この決議を実行したのはタンザニア、ガーナ等九カ国にとどまり、OAU諸国の足並みの不揃いを示す結果に終った。また本年三月のOAU定例外相会議では穏健派諸国が急進派諸国の反対を押し切り、英国に事態解決のため一層の努力を行ならよう要請する趣旨の比較的穏健な決議が採択された。

わが国は、一方的独立宣言の直後スミス政権不承認を発表し、在ソールズベリー総領事の引揚げを行なったが、一二月三日には安全保障理事会決議に従い、南ローデシアに対する武器類および石油、石油製品の輸出停止、ならびに南ローデシアからのタバコおよび砂糖の輸入停止を行ない、さらに六六年一月二七日には銑鉄の輸入を停止したほか、南ローデシアからの全輸入品目をライセンス制の下に置いて、国際経済制裁に積極的に協力している。

OAUにおける穏健派諸国と急進派諸国の対立はOAU結成以前から存在していたが、最近ではコンゴー問題の処理やOCAMの形成をめぐって再び表面化し、一九六五年の後半に入ってからも、一〇月にアクラ(ガーナ)で開催された第二回定例元首会議には、かねてから、ガーナと対立関係にあった穏健派の協商諸国やマダガスカル等が、ガーナのこれら諸国の反政府運動支持を理由として会議をボイコットした。六六年三月の定例外相会議においては前記特別外相会議で採択された対英断交決議の履行や、二月のクーデターで成立したガーナ新政府の代表権問題について両派の意見が対立し一部急進派諸国は会議から代表を引きあげる等の一幕もあった。一方OAU事務局は創設以来予算は前年に比し大幅に削減された模様で、OAU活動は予算面の制約を強く受けることになった。このような事情はあるが、OAUを維持し発展せしめんとするアフリカ諸国の熱意により、OAUは今後とも汎アフリカ協力を増進しつつ、アフリカの直面する諸問題の実際的解決をはかるものと思われる。

アフリカ諸国に続発したクーデターは幾つかの国々において過激派の後退と穏健派の前進をもたらした。とくにガーナにおけるヌクルマ政権の失脚は、積極的非同盟主義をとる国々に衝撃を与えた。アフリカ諸国の東側陣営とくに中共に対する警戒心はアルジェAA会議の前後から昂まっており、近年アフリカに活発な侵透をはかっていた中共の勢力は、中央アフリカ、ダホメの対中共断交や、穏健派諸国、ガーナ、東アフリカ諸国などの中共の反政府活動を警戒しての反中共的動きにより、一九六五年から一九六六年にかけて大きく後退した。

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