西欧の情勢
西欧では、東西関係の分野については緊張緩和と東西両欧間の接近傾向の持続という基調の下にさしたる変化もなく、むしろ各国の国内政治及び西欧諸国相互の関係の調整が主な問題として取り上げられた。
すなわち、ドイツでは一九六五年九月の総選挙で与党のキリスト教民主同盟(CDU/CSU)が勝利を収め同党と自由民主党(FDP)の連立による第二次エァハルト内閣が成立し、また六六年三月にはCDU党大会でエアハルト首相がアデナウアー前党首に代って新党首に選出されて名実共に政界第一人者となり、フランスでは六五年一二月の大統領選挙でドゴール現大統領が第二回の投票でやっと過半数(五五%)の支持を得て再選され、イタリアでは、政府提案の国立幼稚園設置法案が与党であるキリスト教民主党の反主流派の反対により否決されたことを直接の原因として、モロ中道左派連立内閣が総辞職した後一カ月余の紆余曲折を経て、第三次モロ内閣が成立して事態の収拾がはかられ、英国では六六年三月の総選挙で労働党が圧勝してウィルソン現政権の足固めが行なわれるなど、これらの諸国では国内問題に忙殺されるところが多かった。
この間、西欧諸国間相互の関係では、従来よりEEC(欧州経済共同体)とNATO(北大西洋条約機構)のあり方、ひいては欧州問題の解決方法をめぐってフランスと他の西欧諸国の間に潜在していた対立がついに大きく表面化するに至った。
まず、EECとの関係では、フランスは六五年六月末のEEC理事会において農業基金問題を政治問題に絡ませたEEC委員会提案に反対して右討議を一方的に打切り、引続いてEEC閣僚理事会をボイコットする挙に出たため、EECの機能は事実上停止するに至った。フランスの真のねらいは、EEC委員会や欧州議会の如き機関が超国家的性格を強めることに反対するとともに、ローマ条約の規定にしたがい、六六年一月から理事会における採決が多数決制に無条件に移行することに反対すること、すなわち、EEC条約から超国家性を排除することにあった。このいわゆるEECの危機は、六六年一月ルクセンブルグで二回にわたって開かれたEEC特別理事会においてフランスと他の五カ国との間に条約を改訂することなく妥協が成立して一応克服され、フランスは再びEECに復帰することになったが、EECないし欧州統合の究極の目標についてフランスと他のEEC五カ国の間に存在している根木的な立場の相異すなわち、国家連合方式と超国家的統合方式の対立は依然として解消されておらず、今後もこれが表面化する危険が残されている。
なお六五年末以来フランスは英国のEEC加盟問題に対して従来より柔軟な態度を見せるに至っており、これを受けて英国側においてもEEC加入論議が再び活発になってきていることが注目される。
次に、NATOとの関係では、ドゴール仏大統領は、六六年二月二一日の記者会見で、フランスは北大西洋条約には留まるが、NATOにおけるフランスの義務が終了する予定の一九六九年までにNATOのすべての軍事機構から段階的に離脱するとともに、フランス領土内のすべての外国軍隊及びその軍事施設をフランスの指揮下に置く意向を明らかにした。その後、フランスは、ドゴール大統領の三月七日付ジョンソン米大統領あて書簡及び三月一〇、一一日のNATO一四カ国政府あてメモランダムにおいてNATOに関する同国の立場を説明するとともに、三月二九日付のNATO一四カ国政府あて覚書において、(イ)在独仏軍は六六年七月一日以降欧州連合軍司令部の指揮下から離脱する、(ロ)同日までにNATO諸司令部に配属されているフランス軍人を引揚げる、(ハ)フランスにある欧州連合軍司令部と中欧軍司令部は六七年四月一日までにフランス領土外へ移転することとする、(ニ)在仏米軍、同司令部、米軍事施設(カナダについても同様)も六七年四月一日までに移転することとする旨明らかにした。その場合、フランスはこれらの措置から生ずる種々の問題並びに将来のフランスとNATOの関係について二国間ないし多国間べースで話し合う用意があるとしており、これを受けて、現在フランスを除くNATO一四カ国間、とりわけ米英独三国間においてフランスのこれら要求に対処すべき方針について慎重かつ広汎な協議が行なわれている。
いずれにせよ、EEC及びNATOに対するこのようなフランスの態度の底には、西欧において、EECについては六カ国間のみで、またNATOについてはワルソー条約機構国を除く西欧諸国のみの間で、超国家的な政治、軍事、経済統合方式を押し進めることは、むしろ「大西洋からウラルまで」の大欧州の実現を阻害し、欧州問題の解決をむしろ困難にするというドゴール大統領一流の考え方が横たわっており、その意味で、ドゴール外交が今後の欧州の動向にどのような影響を及ぼしていくか大いに注目を要すると思われる。
一方、日本と西欧諸国との関係は時とともに緊密化の度を増してきており、経済面では、オーストリア、スペイン、ポルトガルを除く西欧諸国のガット第三五条対日援用撤回、欧州各国の対日差別の軽減等にともない、日本と西欧諸国との貿易関係は逐次改善されつつあり、また日本のOECD加入(一九六四年四月)後国際経済問題に関する日本と西欧諸国との協調体制も徐々に確立されてきている。
更に、政治面では、一九六三年に始められた日英、日仏、日独間定期協議に加えて、六五年七月の椎名外務大臣のイタリア訪問を機に日伊間においても定期協議が行なわれることとなった。
七月には第三回日仏定期協議(パリ)、一〇月には第四回日英定期協議(東京)、六六年一月には第二回目独定期協議(ボン)がそれぞれ行なわれたが、これらの定期協議は、国際情勢全般及び二国間の関係に係る諸問題について意見の交換を行ない、これら諸国ひいては西欧と日本の関係を充分に緊密なものとすることを目的とするものである。