日米関係
現在の日米関係は、国際正義と自由の尊重に立脚する世界平和の確立という共通の目標と安全保障、経済、文化等多くの分野における共通の利害によって結ばれた両国が、それぞれの立場でその国際的責任を果しつつ、世界の安定と福祉の増大のために、ともに積極的な貢献を行なっていくという新しい時代に入ったといわれている。
かかる関係を背景としてヴィエトナム情勢を中心とするアジア情勢については、日米間で通常の外交ルートを通じての連絡、協議が常時密接に行なわれてきたほか、一九六五年四月には、ロッジ大統領特使が来日し、また、同年末から六六年初頭にかけて、ハンフリー副大統領、ハリマン大統領特使が相次いで来日し、いずれも、佐藤総理、椎名外務大臣等と、率直な意見の交換を行なった。更に、ザブロッキー下院外交委員一行及びモース上院外交委員一行が六五年一一月に、また、マンスフィールド上院民主党院内総務一行が一二月に、それぞれ日本を訪れ、政府、国会首脳部と、それぞれの立場から意見の交換を行なった。
日米間の多方面にわたる相互協力関係の重要な一部をなす防衛協力体制は、一九六五年においても、、ますます緊密の度を加えた。
日米安全保障条約に基づく日米安全保障協議委員会が六五年九月に開催され、日本および極東の安全に関連のある国際情勢ならびにわが国の防衛上の諸問題に関して意見が交換された。
安全保障以外の分野における日米間の常設協議機関も、日米貿易経済合同委員会の第四回会合が六五年七月に、科学協力に関する日米委員会の第五回会合が六月に、日米医学協力委員会の第一回会合が一〇月にそれぞれ開催され、日米教育文化会議も、その第三回会合を六六年三月開催した。
一九六五年一二月末、過去四カ年にわたり日米間の懸案となっていた日米航空協定交渉が妥結し、国民待望の世界一周路線が実現することとなった。このことは、単に国際航空路線の問題としてのみでなく、戦後日米間最大の懸案事項の一つが解決されたという意味で、外交的にも大きな意義を有するものである。他方、いまひとつの重要な懸案である北太平洋漁業条約改訂問題については、両国間の外交チャネルを通じ非公式な意見の交換は続けられているが、六四年秋の第三回交渉のあと、正式の改訂交渉は開催されるに至っていない。
沖繩、小笠原問題については、六五年一月、佐藤総理訪米の際、沖繩に関する協議委員会の機能拡大が原則的に合意され、同じく五月には、小笠原旧島民による第一回墓参が実現し、八月には、佐藤総理が、戦後現職の総理としてはじめて沖繩を訪問し、また、一二月には沖繩施政の基本法である大統領行政命令が改正されて、立法院による主席選挙が実現する等の進展が見られた。政府は、沖繩の施政権返還は全国民の願望として、今後ともあらゆる機会をとらえてその実現に努力を続けるが、当面は沖繩住民の民生福祉の向上と本土との一体化の促進のため、あらゆる措置をとることを基本方針としている。とくに施政権の返還問題については、沖繩が、わが国を含む極東の平和と安全のために果している役割りにも留意しつつ、日米間の相互信頼に基づき、あくまで、日米友好関係の枠の中でその解決を図るとの立場である。
経済貿易面における日米関係も、一層緊密の度を強めている。特に、一九六五度には、わが国からの輸出が大幅な伸びを示し、対米貿易収支が通関ベースで一・七億ドルの黒字に転じたことが特筆される。このことは、日米貿易関係が永年にわたる日本の入超というパターンを脱し、拡大均衡に向う足掛りをなすものとして期待される。その反面、資本取引の分野では、一方において日本における景気の停滞、他方において米国の好況に伴う金融の逼迫、さらに米国の国際収支対策による資本流出の抑制等の原因により、長期資本収支で約一億ドルの赤字を生じ、従来のわが国の受取超過というパターンとは様相を変えたことが注目される。