アジアの情勢

 

(1) 韓国の情勢

一九六五年四月三日、日韓間の漁業、請求権問題、経済協力および在日韓国人の法的地位に関する合意事項が日韓両国政府の間でイニシアルされたが(「わが外交の近況」第九号二〇頁参照)、これに基づいて条文化作業が急速に進められ、六月二二日、日韓諸条約の署名が行なわれた。この前後から、韓国においては、野党をはじめ学生、一部のキリスト教徒らによる日韓諸条約批准反対運動が開始され、さらに、諸条約批准同意のために召集された国会(七月二九日~八月一四日)では、野党は議事妨害に訴え実力をもって批准同意案を葬り去らんと試みた。これに対し、政府与党は、批准同意案を通過させる強い決意の下に八月一四日、批准同意案を野党欠席のうちに一一〇対○、棄権一で可決した。八月二〇日前後には、学生が批准同意の無効を叫んで連日街頭デモを繰り拡げ、緊迫した様相を示したが、デモはその規模において一九六四年当時を相当下まわり、また、政府側も学園周辺以内にデモ隊を封鎖するなど効果的な対策をとり、さらに八月二六日にはソウル一円に衛戌令を発動する措置をとったため、反対運動は急速に勢力を失った。このように批准後の韓国の国内情勢は、野党民衆党が強硬派と穏健派に分裂したことと相まって、急速に落着きをとりもどした。一二月一八日には、ソウルで日韓諸条約の批准書が交換されたが、これを迎える韓国民の空気は、一般に平静であった。

かくして、懸案の日韓国交正常化に成功し、また、野党の力が弱まったことと、学生の反政府運動が事実上消滅したことと相まって政治的な力を強めた政府は、精力的に経済建設、なかんずく輸出増強にのり出している。

朴大統領は、一九六六年二月七日から一八日まで、マレイシア、タイおよび中華民国を歴訪し、各国政府首脳と意見の交換を行なった。これら訪問国のそれぞれとの間の共同コミュニケにおいては、関係国相互間の緊密な友好関係を増進することがアジアの平和と安定に資することが強調され、また経済の開発および発展のため相互間のトップレベルの経済会談を続けることが望ましい旨が述べられており、韓国の積極的外交姿勢を示すものとして注目された。

一方、韓国政府は、ヴィエトナム政府の要請に応え、一九六五年三月までに派遣した約二、○○○名の非戦闘支援部隊に引続いて、同年九月から一〇月にかけて一個戦闘師団(陸軍二個連隊、海兵隊一個連隊および後方支援部隊)約一万五、○○○名を派遣した。その後、昨年末頃から、ヴィエトナム駐屯韓国軍部隊補充のため、さらに一個連隊および一個師団の増派が期待されるに至り、六六年二月、ヴィエトナム政府から正式派兵要請が提出された。三月、韓国軍増派同意案は国会の承認をえ、翌四月、一個連隊が派遣された。これに先立ち、増派に伴い生ずることあるべき韓国国内の兵備上の空白に対し、韓国と米国との間に種々折衝が行なわれた末、三月初めに発表された韓米合意事項において、韓国軍装備近代化および兵力補充のための援助を米国が供与すること等が明らかにされた。

韓国政府は、また、その対アジア外交を積極化するとの見地に立って、一九六四年七月頃から、東南アジア外相会議の開催を提唱してきたが、その準備のための非公式準備会議(一九六五年三月バンコック)につづき本年四月、バンコックにおいて日本、韓国、タイ、台湾、フィリピン、ヴィエトナム、豪州、ニュー・ジーランド、マレイシアの外ラオス(オヴザーバー)が参加して準備会議が開催された。この第二回準備会議では、外相会議において、反共組織や軍事問題は取扱わず、主として、経済、文化、社会の諸分野における地域的協力の推進の方途を検討する了解が成立したので、わが国もこの会議に参加するとの立場をとるに至った。

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(2) 中国問題

(イ) 一般的関係

政府は、主として国会における質疑に対する総理、外務大臣の答弁を通じ、わが国の中国問題に対する基本的な考え方を、次のとおり明らかにしてきた。すなわち、わが国の中国政策は、一方において中華民国との間に平和条約を締結し、これと外交関係を維持しているという事実と、他方において約七億の人口を有する中国大陸との間についても事実上各種の関係をもたざるを得ないという事実を前提としている。そして中華民国政府、中華人民共和国政府の双方が、いずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している状況にあっては、わが国としては、中華民国との間に外交関係を維持しつつ、中国大陸との間に政経分離の原則の下に貿易を始めとする事実上の関係を維持して行くことが、最もわが国の利益を維持し得る政策であると考えられる。いずれにせよ、中国をめぐる問題は、国連を中心として充分に審議され、世界世論の背景の下に、公正な解決をはかるべきものと考えている、というものである。

(ロ) 中華民国との関係

一九六五年度の日華関係は、極めて友好的な関係が順調に発展した。すなわち、四月一六日わが国からの一億五、○○○万ドルにのぼる借款の供与が約束され、一二月一〇日第一年度実施取極めが結ばれた。また、八月には、沈昌煥外交部長夫妻一行が、政府の公賓として来日し、佐藤総理大臣、椎名外務大臣等関係閣僚及び吉田元総理らと会談し、更にその他の政財界の要路者とも話し合ったが、同部長の訪日により、日華関係は相互理解をより一層深めたものと考えられる。

また政府は一九六〇年以来、中華民国との間に高雄総領事館設置問題を交渉中であったが、中国側は、一九六六年一月同総領事館開設に同意する旨正式に回答した。政府としては、一九六六年一〇月に同総領事館を開設する予定である。

日華貿易は、一九六五年(歴年)において往復約三億六、五〇〇万ドル(通関ベース)に増大した。

(ハ) 中共との関係

一九六五年四月一七日より一九日までジャカルタにおいて、第一回AA会議一〇周年記念式典が開催された際、同式典に出席したわが国代表団団長川島特派大使(自民党副総裁)は、スカルノ大統領の仲介により、同大統領同席の下に、同じく同式典に出席した中共代表団団長周恩来総理と、四月一九日ムルデカ宮段において会談を行なった。同会談は、わが国と中共との間の何らかの具体的な問題解決を目的としたものではなく、双方が、直接一般的な話合いをすることを目的として行なわれたものである。

日中貿易は、一九六五年において引続き大幅に伸長して、往復約四億七千万ドル(通関ベース)に達し、郵便については、従来から取扱われていた通常郵便物に加えて四月から小包郵便物の取扱いが開始され、また漁業問題では、期限二カ年の日中民間第五次協定が一二月に締結された。これらと並行して中共を訪問する日木人の数は著しく増加するなど、日中間の交流関係は事実上進展した。

しかしながら中共は、ヴィエトナム問題、日韓関係におけるわが国の立場などをとらえて激しい対日非難を行ない、日中貿易では輸銀融資を要求してビニロン・プラント及び貨物船の対日輸入契約を破棄した。政府としては中共側が非難する如き「敵視政策」をとっている事実は全くなく、相互の立場尊重及び内政不干渉を建前として、従来どおり政経分離の原則に基づき、中共との間の交流を進めて行きたい旨明らかにしている。

中共は一九六五年五月一四日、西部地区(新彊自治区といわれる)の上空で第二回の核実験に成功した旨を発表した。政府は同日外務省情報文化局長談を発表し、一九六四年一〇月中共が最初の核実験を行なった際官房長官談話をもって厳重な抗議の意を表明し、今後核実験を繰り返さないよう切望したことを指摘し、今回中共が核実験を再び行なったことはわが国民の希望を無視し、人類の悲願に反するものであり、先般の核実験によってわが国の大気に汚染が認められたことにも鑑み、改めて強く抗議するとともに中共要路の反省を求めたい旨表明した。

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(3) 東南アジアの情勢

(イ) インドシナ

ヴィエトナム軍事情勢は、一九六五年二月の北越爆撃開始と翌三月以降の米軍地上戦闘部隊の投入によって新たな局面を迎え、このような米国の軍事的努力強化の結果、戦況は政府側にとって一時小康を得た。しかしその後五、六月において中部高原の雨季入りとともにヴィエトコンは激しい雨季攻勢を展開し、南越政府軍に少からぬ損害を与えた。これに対し越米軍側は引続き米軍の大幅増強と、B-52 の投入を含む南越爆撃の熾烈化等により、ヴィエトコンに対抗し、八月後半のチュウライのヴィエトコン基地攻撃の前後から漸次積極的攻勢に転じた。他方ヴィエトコン側も新たに北越兵力の浸透を得てこれを正面より迎撃し、一〇月下旬から一一月にかけて両者の間にヴィエトナムの戦闘始まって以来最大の激戦が行なわれた。

その後クリスマス休戦、ヴィエトナム正月の休戦および北爆停止があり、一時的に戦闘規模の縮小が見られたが、六六年一月三一日北爆は再開され、ほぼ時を同じうして越米軍側は積極的なヴィエトコン掃討作戦を開始し、潜伏期に入ったヴィエトコンに対して米軍増派を重ねつつ掃討攻撃を続行することとなった。

他方、南越政治情勢については、一九六五年二月に成立したクワット内閣は内閣改造問題をめぐる内紛が原因となって退陣を余儀なくされ、六月一一日政権は再び軍部に還った。軍部は同月一九日臨時憲章を発表し、グエン・ヴァン・ティュウ中将を元首、グエン・カオ・キイ少将を首相とする集団指導体制の下において新政権を発足させ、その後南越の内政は比較的安定を保ちつつ推移した。その間、キイ首相は六五年六月二四日ヴィエトナム中立化構想の提唱者であるフランスと外交関係を断絶し、他方八月に台湾、タイ、九月にマレイシア、一一月に韓国を自ら訪問して反共のための相互提携の動きを示した。キイ首相は更に六六年二月八日にはティユウ元首、ドー外相とともにホノルルに赴き、ジョンソン米大統領、ハンフリー副大統領、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官等米国要路者と会談して広範な民生改善計画を含む強力なベトコン対策の推進を討議した。

しかるに、その後三月一〇日キイ首相が第一軍団長ティ中将を解任したことに端を発し、ティ中将の出身地たる中部地方において仏教徒や学生達が同中将の復職を要求する反政府デモを行ない、その後これが次第に民政復帰の要求と合して、反政府デモはサイゴンにも波及し、南越の国内情勢は再び不穏な様相を呈するに至った。

ヴィエトナムにおける戦闘の激化に伴い国際間における平和解決のための動きも活発化し、諸国間に様々な提案や打診工作が行なわれたが、いずれも実を結ぶことなく終った。六五年四月一日には交渉による平和解決を促した非同盟一七カ国のアピールが発出され、これに対しジョンソン米大統領は四月七日紛争解決のため無条件討議に応ずる用意がある旨言明した。しかし北越側は四月八日ファン・ヴァン・ドン首相の演説において、米軍の撤退などいわゆる四条件を提示してこれ以外にヴィエトナム問題の解決はありえぬとなし、五月、北爆の一時停止期間中も話し合い開始につき何ら積極的反応を示すことなく終った。その後、英国、カナダ等による北越に対する和平打診、英連邦使節団派遣の試み等も北越側の拒否にあい、地方ソ連は対米非難を繰返しつつ北越への援助を続け、何ら和平への積極的動きを示すことなく終った。

一二月、米国はクリスマス休戦を契機としてハリマン大使以下の特使を世界名地に派遣して米国の和平への意図の説明にあたらしめるなど広汎な和平工作を行なったが、中共、北越、ヴィエトコンはこれを拒否した。米国もかかる共産側の態度にあって北爆を再開したが,他方、そのイニシアティヴにより和平問題は国連安全保障理事会における討議に付された。わが国は議長国として米ソをはじめ立場を異にする関係国間の調整に努めたところ、結局わが国の努力によって一般的に問題の平和的解決に対する強い希望が存在する旨を指摘した議長書簡の発出は行なわれたが、実質的な審議は行われなかった。

カンボディアと米国の関係は、一九六三年一一月のカンボディアによる米国援助の拒否以来、疎遠な状態にあったところ、米国ニューズ・ウィーク誌のカンボディア王后誹謗記事および米越空軍機のカンボディア領コンポン・チャム州の爆撃事件を直接の契機として、一九六五年五月三日、カンボディアは、対米断交に踏みきった。その際カンボディアは領事関係の維持を希望したが、米国の拒否するところとなった。

九月、シハヌーク国家首席は、中共、北鮮、ソ連および東欧諸国訪問のためプノンペンを出発し、中共訪問を終え北鮮に滞在中、ソ連より政府首脳の多忙の理由をもって、ソ連訪問を延期するよう要請をうけ、ソ連のみならず他の東欧諸国の訪問をも中止して、憤然帰国した。かくてカンボディアの対ソ態度は一時急激に硬化したが、その後両国の歩みよりにより、一一月中旬には両国の関係はほぼ旧態に復した。

カンボディアはかねてよりその中立と領土保全のための国際会議の開催を要求していたが、一九六五年三月のインドシナ人民会議の決議の線に沿って、ジュネーヴ会議共同議長国たる英ソに対し、改めて国際会議の開催を要請した。従来この種提案に対し英国は消極的であったが、今回は、ソ連は言うまでもなく、英国もこれに賛成し、米国も会議参加の意向を表明したが、この国際会議に際し、ヴィエトナム問題も討議されるであろうとの報道も流れ、カンボディアは五月初旬、サイゴン政府の参加を認めず、カンボディア問題のみを討議し、ヴィエトナム、ラオス問題は討議しないとする会議開催の条件を提示し、中共はこれを支持するとともに南越代表は民族解放戦線(ヴィエトコン)たるべしとの声明を発した。

五月中旬、カンボディアは、南越代表については、関係諸大国が同意するならば、サイゴン政府と解放戦線のいずれか、または双方の出席に異存はないとの態度を示したが、六月中旬に至り、国際会議開催をとりやめ、中立と領土保全の保障を関係各国に対し文書で個別的に申入れることとしたとの声明を発した。

一一月から一二月にかけて、米国政府筋において、「北越軍あるいはヴィエトコンのカンボディア領使用」の問題がしきりにとりあげられヴィエトコン捕捉のための「追跡」ないし「自衛のための発砲」がカンボディア領にまで及び得ることを示唆する言明が行なわれたため、ヴィエトナムにおける戦闘の自国への拡大をおそれるカンボディアは、これを強く非難するキャンペーンを行なった。他方、タイとの国境では一二月頃から両国の武力衝突事件が繰返し発生しており、カンボディアと東西の両隣国たる南越およびタィとの関係は、依然悪化したままの状態にあり、改善の兆は見られない。

ラオスにおいては連合政府からのパテト・ラオ(左派)の脱落と左派と中立・右派との間の武力対立という事態を打開するための三派首脳会談の場所選定問題について事務レベルでの予備的折衝が一九六五年四月より累次にわたって行なわれたが、実質的には何らの進展もみられなかった。七月に実施された総選挙は、パテト・ラオ側がこれをボイコットしたため選挙の結果前回(六〇年四月)同様パテト・ラオの加わらない国会が形成された。米国による北越爆撃およびラオス政府空軍によるパテト・ラオ地区の爆撃継続はパテト・ラオ側の軍事活動の大幅縮小を招いていたところ、一〇月の雨季明けとともに各地でパテト・ラオ軍の散発的な攻撃が見られ、一一月にはパテト・ラオ、北越軍による中部ラオスのタケク攻撃があったが、これも政府軍によって撃退された。

パテト・ラオの首脳は依然としてその本拠地であるカンカイに留まり続け、事実上プーマ連合政府から脱落しており、国内勢力は実質的に右派、中立派対パテト・ラオの二派に分れて対立のまま膠着状態を続けている。

(ロ) マレイシア紛争

マレイシア紛争については、一九六五年四月ジャカルタで開かれたバンドン会議一〇周年記念式典の機をとらえ、わが国の川島特使は、インドネシア、マレイシア両国を訪問し、両国首脳による再度の東京会談の開催を慫慂し、両国関係の改善の試みをなしたが、機熟さず、実現を見るに至らなかった。

この間インドネシア、マレイシア両国の対決状態は長期化の様相をますます強めるに至った。

しかるに、八月九日シンガポールがマレイシアより突如分離独立したが、この分離独立がインドネシア、マレイシア関係に大きな影響を及ぼすものと一時は深刻に懸念された。しかし、その後九月三〇日以降インドネシアの内外情勢は大きく変動し、マレイシア、インドネシア間の緊張も漸く解消への曙光を見せ始めた。すなわち、インドネシアは対決政策の原則を依然として保持する構えを示してはいたが、マレイシアとしてはインドネシアの新政治体制を歓迎するとの態度をとり、他方、インドネシアとしても、国内における意見の調整等多々困難な問題を抱えつつも、国内経済危機克服の見地からも、多額の軍事費を支出して続行して来たマレイシアとの軍事対決の早期解決を望む声が聞かれるに至り、六六年三月以来、インドネシア、マレイシア間の和平気運は次第に高まった。この間、フィリピンのマレイシアとの外交関係回復の兆候もみられ、この地域の緊張は大きく改善されるものと期待されたが、マレイシア紛争をめぐる関係諸国の動きが進展する間に、わが国としては関係国からの要望あれば仲介の労をとる用意ありとの従来の立場を堅持しつつ、インドネシア、マレイシア両国間に話し合いの気運が熟するのを見守った。

(ハ) インドネシア及びフィリピン

一九六五年のインドネシアの情勢についてみると、前年にひきつづきマレイシアとの紛争がますます深刻の度を加える状況下において、国内的には共産党(PKI)をはじめ親共勢力が著しい伸長を遂げ、また対外的にも一月の国連脱退につづき、北京・ジャカルタ枢軸を謳うまでの中共への接近、八月のIMF、世銀よりの脱退にみられる如くインドネシアの動向は一層急進化の道をたどった。この間六五年三月末から四月にかけて米国政府は西イリァン問題解決に功績のあったバンカー大使を大統領特使としてインドネシアに派遣した。これは六三年九月以来のマレイシア対決政策の進展に伴いインドネシアと米国との関係に次第に困難が増しつつあったのを憂慮した米国が事態改善の手がかりを求めてとった措置であったが、同特使の派遣はなんらみるべき成果を収めることなくして終った。他方同国の対英関係もマレイシア紛争発生以来極度に悪化したままの状態を続けていた。

かかる事態の下にあってインドネシア側の対英米非難はますます激しさの度を加え、四月一七日よりジャカルタにおいて開かれた第一回AA会議の一〇周年記念式典においてスカルノ大統領は、米軍の南越からの撤退、国連との対決などを強調し、さらに八月のインドネシア独立二〇周年記念演説でも同大統領はシンガポールのマレィシァ離脱をマレイシアにおける英植民地政策の挫折として英国の植民地政策を攻撃するとともに、米国についてもそのヴィエトナム政策を激しく非難し、米国が東南アジア全域より引き揚げることを要求した。

他方、かかる反英、反米傾向の尖鋭化と裏腹にインドネシアは中共への傾斜をますます深めてゆき、中共からは周恩来首相(四月)、陳毅副首相(四月及び八月)、彭真北京市市長(五月)等の要人をインドネシアに迎え、インドネシアからはスバンドリオ副首相(一月および五月)、アルジ国会議長(五月)等要人のほか経済、文化、軍事の各種代表団が中共を訪問し、人的交流を密にするとともに、前記八月の独立二〇周年記念式典においてスカルノ大統領は北京・ジャカルタ枢軸は歴史的歩みによって自然に形成された枢軸であると宣明するに至った。

しかるに、九月三〇日夜半に端を発した国内一部親共勢力のクーデター失敗事件はインドネシアの政治勢力図を一変させる重大な結果を招来し、その後陸軍を中心とした反共勢力による共産党追放運動が全国において推進され、共産党勢力は事実上潰滅状態に追いやられ、同時に陸軍が最大の実力者の地位を占めるに至った。

かかるインドネシア国内の勢力関係の大変化は同国の対外動向にも著しい方向転換をもたらすこととなった。すなわち在ジャカルタ中共大使館商務参事官事務所侵入捜索事件(一〇月一六日)、在メダン中共領事館襲撃事件(一一月二日)等にみられるようなインドネシア国内に於ける反中共運動の激化により、イ・中関係は急速に冷却化し、中共との経済貿易関係、その他の交流もほとんど停止するに至った。

この間にあってスカルノ大統領はいわゆるナサコム(民族主義勢力、宗教勢力、共産主義勢力の挙国一致)体制維持を訴え、九・三〇事件前の政治体制への復帰を試みたが大勢をくつがえすに至らず、六六年三月一一日遂に政治的実権をスハルト陸相へ大幅に委譲するに至り、さらに三月二七日にはスバンドリオ副首相をはじめとする従来の共産、親共系閣僚を除外し、新たにスハルト、マリク、ブォノの三実力者を中核とする新内閣が発足した。新内閣はその成立後逸早く国連復帰の可能性を示唆するとともにマレイシア紛争の平和的解決、対米関係の改善を希望する旨表明し、インドネシアの外交が同国の伝統的外交基本政策である東西不偏の「積極的自主独立」政策に依ることを明らかにした。かくしてインドネシアは国内的には新たな指導体制の下において国内建設を最重点目標とする現実的政策の実施に踏出し、また対外的には本来の非同盟路線へ復帰し、欧米諸国との関係改善をはかるとともに、マレイシア紛争の平和的解決を新たに探求する方向に進みつつある。

フィリピンでは昨年一一月の大統領選挙において、リベラル党候補のマカパガル大統領とナショナリスタ党候補のマルコス上院議長の間に激烈な選挙戦が行なわれたが、結局マルコス氏が大差をもってマカパガル氏を破った。

一二月末大統領に就任したマルコス新大統領は、外交面においては自由陣営特に米国との協調及び反共の基本的ラインを堅持するほか、マレイシアとの国交正常化及びインドネシアとの関係改善、南越への部隊派遣法案の推進、中華民国との友好強化などアジア外交における積極的建設的な役割を担おうとする意欲を示している。またわが国との間では、新政権は、かねてより懸案であった通商航海条約の批准問題解決の促進に熱意を示しているほか、賠償、経済、技術協力分野における日比関係の緊密化に積極的になっている。

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(4) 印パ関係

インド、パキスタン両国は一九四七年八月英国から分離独立して以来カシミールの帰属問題をめぐって政治的にも軍事的にも激しく対立してきた。即ち、カシミール全体が法的にインド領の一部であるとするインド側の主張と、カシミールの帰属はあくまでも住民投票によって決定されるべきであるとするパ側の主張が対立し、数次に亘る国連の調停努力および印パ両国の直接交渉によっても同問題は解決されず今日に至っている。その間、一九四九年一月国連インド、パキスタン委員会のあっせんによって停戦ラインが設置され、爾来カシミールにおいてはこの停戦ラインに沿って、印パ両国間に小競合いがくり返されてきた。

一九六五年八月上旬カシミールにおいて発生した印パの武力衝突は、その後更に両国国境の他の地域にまでおよび、遂には印パ両国正規軍による大規模な戦闘にまで発展した。この間ウ・タン国連事務総長が印パ両国を訪問し、紛争の平和的解決実現のための努力が続けられたが、結局九月二〇日に国連安全保障理事会が採択した印パ両軍の停戦撤退に関する決議を印パ双方が受諾したので、同月二三日を期して漸く停戦が実現するにいたった。

国連の努力により一応停戦は実現したものの、印パ両軍は全戦線において依然対持し、その成行きが憂慮されたが、両国関係の調整に意欲を燃やすソ連の提案に基づき、一九六六年一月四日より一週間ソ連邦内ウズベク共和国の首都タシケントにて印パ首脳会談が開催され、会談最終日の一〇日には両国首脳は、武力の不行使、軍隊の期限付撤退、外交関係の正常化、印パ両国政府による話合いの継続等の九つの合意事項を盛りこんだタシケント宣言に署名した。その直後、シャストリー、インド首相は会談地で急死したが、この宣言の成立により、両国軍隊の撤退、両国高等弁務官の任地復帰、両国閣僚会議が実現する運びとなり、印パ両国関係は新らたに関係改善の方向に一歩を踏み出すこととなった。

なお、わが国は従来、印パ両国紛争につき、印パいずれの主張にも片寄ることなく、紛争は国連憲章の精神に従って平和的に解決されるべきであるとの態度を表明してきたが、一九六五年九月印パ武力衝突が激化した際にも、佐藤総理より印パ両国首脳に対し、話合いによる紛争の解決を要望するメッセージを発出した。

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