共産圏の動向

 

中ソの関係は、一層悪化の傾向にある。その背景には、ヴィエトナム及び印パ問題等をめぐる中ソの共産圏及びAA諸国に対する優位争いのほか、ソ連が対外的に平和共存を基調とし、また、内政上その経済に利潤方式の導入をも行なう等、基本的な政策上の修正を行なっているのに対し、中共が毛沢東党主席の革命路線をますます強め、ソ連の「修正主義」と相容れない態度をとっていることがあるといえよう。この間、東欧諸国及び各国共産党の多くは、ソ連の立場を支持しながら、可能な限度で自立化を進めている。

中共は、モスクワにおける一九党協議会議(一九六五年三月)以来、あらゆる機会を捉えて対ソ非難を行なってきた。六五年五月早々、人民日報は、ヴィエトナム問題に関するソ連の態度をとりあげ、「米ソ取引の陰謀」ありと対ソ攻撃を行なった。これに対し、プラウダは、「新しい世界戦争のみが社会主義陣営の統一をもたらす」との考えは正しくないと酬いるに止まったが、既に六五年春以来非同盟諸国首脳のほか、モンゴル首相、北鮮軍事使節団を迎える等対AA外交を積極化したソ連は、五月末、これまでの態度をかえ、六月に予定のAA会議に参加することは「自国の国際的義務とみなす」旨明らかにし、これに対し、中共が「ソ連に参加の資格なし」と反撃するに及び、中ソの対立は尖鋭化の度を深めた。

かくて、紅旗及び人民日報共同論文(六五年六月一四日)は「ソ連のブルジョア特権階層の代表であるフルシチョフの後継者は、フルシチョフより巧妙悪質なやり口を行なっており、徹底的に闘う必要がある」旨述べ、これに対し、プラウダ編集局論文は、「ソ連は過去八カ月間公開論争を停止していたが、中共は公然と非友好的言論を発表している」と久し振りで中共名指しの非難を行なうとともに「共同行動は反帝闘争の至上の要求である」とその立場を明らかにした。この間、アクラにおけるAA人民連帯機構第四回大会(六五年五月)を始め前線組織の諸会議において中ソの対立がみられた。

ソ連は、このころから東欧諸国及び西欧共産党の首脳を相次いで招き、その立場に対する了解を求めたが、九月のソ連党中央委員会総会では中共との関係の調整の失敗を認める反面、北鮮、北越との相互理解増進、東欧諸国との関係の活発化を報告し、共産圏におけるソ連の地位が中共との関係において相対的に有利となりつつあることが示された。また、同月の印パ紛争に対する中ソの態度は真向から対立するものであった(東西関係の項参照)。

他方、同月プラーグにおけるコミンテルン記念三五党会議(東欧、西欧、ラ米共産党を網羅)で、ソ連は、反帝統一戦線結集のための共同行動をよびかけたが、人民日報及び紅旗の共同論文(一一月一一日)は、中ソ両党の対立は「プロレタリアートとブルジョア、社会主義と資本主義、反帝国主義路線と帝国主義への降伏路線の対立である」として、ソ連の提唱する「共同行動」に妥協の意図がないことを宣言し、またヴィエトナム問題に関し、ソ連のとるに足らぬ北越援助は、発言権を得て米国と取引せんためであると、これまでにない激しい対ソ攻撃を展開した。これに対しプラウダ(二八日)は、中共の言動は利敵行為であると応酬し、ついで、一二月、プラウダの編集局論文は、「中共の指導者達が共産主義運動の総路線から離れ、重大な困難が起った」とフルシチョフ氏の解任以後、ソ連で発表された対中共論調として始めて明確な態度を示したが、依然中共を含めた「すべての党」の統一を希望する旨述べ、「共同行動」への姿勢を崩さなかった。

一九六六年に入って一月、ソ連はシェレーピン党幹部会員兼書記をハノイに送り、対北越援助の強化を約するとともに、北越のソ連党大会への参加約束を取付け、また、ブレジネフ第一書記をウランバートルに派し、モンゴルとの間に友好相互援助を含む新条約に調印せしめる等、中共周辺の共産国との団結体勢を固める動きを示した。コスイギン首相がタシケントで印パ首脳会談を成功に導き、国際外交におけるソ連の声望を高め、他方、日本から椎名大臣をモスクワに迎えたのも一月のことであった。

同じく一月の始め、ハバナでひらかれたアジア・アフリカ・ラ米人民連帯機構会議は、従来国際共産主義勢力によって指導されてきたAA人民連帯運動による反帝反植民地闘争を始めてラ米にまで拡大したものとして注目された。会議出席者の圧倒的多数は、いわばソ連派であった(ソ連は、これより先、一〇月チリーにおけるラ米共産党大会にはキリレンコ党幹部会員を派遣した)。この会議でもヴィエトナム問題等をめぐり、中ソ両代表の間に激しい応酬が行なわれたが、同会議の決議はむしろ武装反米闘争を強調するカストロ主義を中心とするものとなった。

いずれにしても、一月のソ連の積極的な対外活動を頂点として、国際共産主義運動における中ソの地位には大きなひらきが目立ってきたが、中共は、二月の紅旗論文で「ソ連党新指導部がソ米協調路線を変更せず、米、ソ、印、日の同盟を解消しない限り、いかなる共同行動もとり得ない」と述べ、次いで、三月末からひらかれるソ連党二三回大会には代表の派遣を拒否するという前例のない強い態度に出た。

しかし、八六の外国の党代表出席の下に三月末開かれたソ連党大会(中共のほか、出席を拒否したのは日本、アルバニア、ニュー・ジーランドの三党のみで、北越、北鮮さえも出席した)において、ブレジネフ第一書記は中共に対する優位を背景として首脳会談を呼びかけるというゆとりのある態度を示したが、中共はこれを無視した。

このように中ソ関係は、この一年間悪化の一途を辿っているが、この間にあって、六五年以来メーデーにおける中ソ代表の相互派遣が復活され、また年度毎の中ソ貿易協定等の実務的取極はつづけられている。

なお中ソの対立激化により、最も影響をうけた北越は、中ソ双方からの援助をうけつつ、対米強硬路線では、北京と軌を一にしたが、中共の対ソ非難には同調しなかった。北鮮も六五年以来ソ連からの軍事援助に従来よりも大きく依存しているといわれており、中共のソ連に対する「修正主義」攻撃には追従しない態度をとっている。この間、中共と緊密な関係にあったインドネシア共産党は、九・三〇事件後壊滅状態に陥ったが、インド、セイロン、豪州等の共産党のなかでは、ソ連派、中共派の対立がみられた。他方、東欧では、ルーマニアが中ソ対立に中立的態度をつづけ、アルバニアは、中共支持に終始した。その他の東欧諸国は概ねソ連を支持する態度であった。

ひるがえって、ソ連の国内動向をみるに、六五年三月のソ連党中央委員会総会においては、農産物買付数量の引下げと同価格の大幅引上げ等による農民のインセンティヴ重視と農業投資増加の方針が打出されたが、九月の中央委員会総会には、工業制度の改革のため、利潤方式と、より完全な独立採算制の導入の提案が行なわれ、また消費財工業の生産財工業に対する立遅れが指摘され、「物的生活」をさらに重視する態度がみられ、ソ連の内政上のいわば進歩的姿勢が一層強く政策面に表現されてきている観がある。

次いで一二月のソ連最高会議は、ミコヤン氏の同会議々長辞任及びポドゴルヌイ氏の同職への任命、シエレーピン氏の党・国家統制委員会議長及び副首相からの解任等を発表したが、これは、フルシチョフ氏退陣後に行なわれた最も注目すべき人事であり、これによりブレジネフ、コスイギン両氏を中心とするソ連の現指導体制が一層強化されたことが示された。最高会議は、また一九六六年度ソ連国民経済計画及び国家予算を発表したが、農業総生産は前年比八-一〇%増と工業総生産の六・七%増より高目に見積られる反面、国防費は前年比五%増と過去二年間にみられなかった増加となっていることが注目をひいた。因みに、ソ連は食糧事情不良のため昨六五年(暦年)、カナダ、アルゼンティン及びフランスから約九五〇万トンの小麦を輸入したと推定されている。

ソ連党二三回大会でも、企業の自主性と利潤への考慮が主張され、また、国民の福祉向上の必要が唱えられた。さらに、同大会は、党幹部会の政治局への改名及び「書記長」の再現等、党の権威強化の措置を講じ、ブレジネフ、コスイギン両氏を中心とする指導体制が六六年から始まった新五カ年計画に対しても、中道的で地味な姿勢で取組まんとしていることが窺われた。

一方中共では、ソ連の利潤方式導入等による経済の改善、消費財工業の立遅れ反省等による「物的生活」重視の傾向に対し、かかる政策を「修正主義」と非難し、政治優先と毛沢東主義の強化方針をとり、そのための社会主義教育が熾烈となった。それはまた、林彪国防相のいう「帝国主義に対する人民戦争」の理論や「米帝国主義の侵攻を待つ」旨の陳毅発言と表裏をなすものであったといえよう。

一九六五年五月一四日には中共の二回目の核爆発実験が行なわれ、中共の核開発が順調に進んでいることを示した。反面同月、羅瑞卿総参謀長は、「積極的防衛」を強調したが、つづいて中共政府は「軍のプロレタリア化と戦闘化」が必要であるとして、六月一日より、人民解放軍の階級制度を廃止した。

さらに一二月末より、北京で開かれた人民解放軍政治工作会議では、蕭華軍総政治部主任がその報告において、対米緊迫感を従来以上の激しい語調で述べるとともに、軍内の修正主義への変質防止のため、軍内の「階級闘争」の必要性を述べ、いかなる場合でも、毛沢東思想を指標とすべき旨強調したが、その後、毛沢東思想の徹底化は、文化、言論界にも推し進められている。このような毛沢東個人崇拝の政治的圧力がどのような直接の契機によるものかは注目されるところである。中共は、今年から第三次五カ年計画に入ると公表しているが、その内容は未発表である。陳毅外相は、ヴィエトナム戦争を契機とする対米対決という非常事態が第三次五カ年計画立案上の一要素となったと述べているが、中共は党による政治的指導を優先させる大原則の下に、あくまでもソ連式の物質的インセンティヴの考え方を排除しつつ、何とか独特の経済建設を進めようとしているものと考えられる。因みに一九六五年中、中共がカナダ、アルゼンティン、豪州より輸入した小麦は五六〇万トンと推定されている。

いずれにせよ、中共政権は、ヴィエトナム戦争の状況下に対米対決の危機感をもち、更に、第三次五カ年計画という内政上の大問題をかかえている。しかも、中共の現在の指導層は非常に老化して交代の時期に遭遇しており、今後の動向が注目される。

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