一 世界の動きとわが国
東西関係
まず米ソ関係についてみるに、ブレジネフ、コスイギン政権は、いわゆる「平和共存」の基調を変えておらず、米国としても対ソ関係改善の希望を捨てていないが、ソ連は、「平和共存」の枠内において、「民族解放闘争」支持の姿勢を正さんとしており、米国のヴィエトナム戦争遂行の強化をめぐり、両者の関係はフルシチョフ時代よりやや後退の様相を呈している。他方、ヴィエトナム問題は、米中間の緊張の度を高め、東西関係の重点は、かつての米ソ冷戦から米中冷戦に置き換えられた感がある。
ジョンソン大統領は、ボルチモア演説(六五年四月)において、ヴィエトナム問題解決のため、無条件交渉に応ずる用意がある旨明らかにし、また、東南アジア開発のための一〇億ドル構想を発表し、これに対するソ連を含む各国の協力を希望する旨述べたが、ソ連の反応は冷く、五月、米国のドミニカ出兵後、ソ連は、ジョンソン大統領をはじめて名指しで非難した。八月、米国が一九六四年締結された米ソ領事条約の批准を一年間棚上げとすることをきめ、他方、九月、ソ連党中央委員会総会において米ソ関係は「凍結状態」にある旨報告され、ついで、一九六六年三月末開かれたソ連党二三回大会において、「現状の悪化」の表現が用いられたこと等は、米ソ関係の後退度を示すものといえよう。
しかしこの間、ソ連は、ハリマン米大統領特使(六五年七月)、マンスフィールド米上院議員(一一月)の訪問を受け、また、米ソ宇宙科学協定(一〇月)、米ソ文化交流協定(六六年三月)に署名する一方、国連及びジュネーヴにおける軍縮討議に参加する等、限られた面ではあるが、対米話合の道を閉さなかった。
また、この一年間、米国を除く西側及びアジア、アフリカ諸国へのソ連の外交は活発で、とくにアジア、アフリカ諸国に対する「平和共存」外交の働きかけが注目された。
西欧では、グロムイコ外相の英仏訪問に対し、仏英外相及び英首相等の訪ソが相次いだが、なかでも、ソ仏の接近が目立ち、ソ連が対米自主態度をとるドゴール大統領のNATO軍事機構離脱(六六年三月)を歓迎したことが注目された。しかし、ソ連は、ドイツの「核への接近」に執ように反対する一方、東独の国連加盟申請を支持する等、ドイツ問題に対する態度にはいささかの変化もみられなかった。
ソ連は、アジア、アフリカ諸国からは六五年の春より秋にかけ、インド、パキスタン、イラン、トルコ、アラブ連合、アフガニスタン、ギニア、ウガンダ、コンゴー(ブラザ)各首脳を次々に招待し、活発なAA外交を展開した。とくに、九月の印パ紛争に際し、ソ連は米国と同様中立的態度をとった上、ソ連政権はじまって以来始めての居中調停を試み、一九六六年一月タシケント宣言を成立させるに成功し、アジア、アフリカ諸国に対する信望を高めた。またソ連はアジア開発銀行設置に関するバンコック会議(六五年一〇月)にも参加した。しかし、ヴィエトナム和平斡旋に関する西側要路者からの打診に対しては、終始イニシアティヴをとる意思のないことを明らかにした。
西側と東欧諸国の関係では、この一年間、英外相のユーゴ、チエコ訪問、ポーランド大統領の訪仏、イタリア大統領のポーランド訪問等、東西両欧首脳の交流が盛んであったが、米国も本年の大統領年頭教書で、東欧への接近に前向きの態度を示した。なおフランスはモンゴルを承認するとともに外交関係設定を決定した(六五年四月)。
一方、中共は、前記ジョンソン大統領のボルチモァ演説に対し、米国が「一切の武装勢力を撤退させて始めて政治的解決に必要な条件がつくられる」として、米国の「平和的話合の陰謀に断乎反対」するとともに「全世界人民に、ヴィエトナムから米国追い出しのため緊急行動を起す」ことを提唱し、六五年五月、米国の北爆停止(五日間)による平和交渉への呼びかけに対しても、中共は「脅喝」にすぎないとして北越とともに拒否し、また、六月英連邦四カ国首脳の北京、ハノイ等訪問の申入れも峻拒した。
つづいて九月には、林彪論文が発表され、「革命の中心任務は武力によって権力を奪取することであり、戦争によつて問題を解決することである」との毛沢東党主席の言葉を引用し、「米帝国主義」に対抗するため、アジア、アフリカ、ラ米地域の革命と人民戦争の理論を説いた。また、同月の印パ紛争に際し、中共はパキスタンを被侵略者として支持し、インドヘの圧力をかけ、米ソと真向から対立する態度をとった。しかし、印パ両国が国連の停戦案を受け入れると、中共は対印圧迫の手を弛めたが、同月末の陳毅演説では、「もし、米帝国主義がわれわれに侵略戦争をおしつけてくるつもりなら、早くやってくることを歓迎する。インドの反動派、英帝国主義、日本軍国主義もともに来ればよい。現代修正主義者も北方でかれらに呼応すればよいだろう。」と危機意識のみなぎる発言を行ない、また、「米国が支配し、米ソ取引の場である国連には加入しなくても差支えない」と反米、反ソ、反国連の態度を明らかにした。
六五年末から六六年一月末にかけての米国の北爆停止(三七日間)と和平攻勢についても、中共は、これを「内外世論をなだめるため」の「ぎまん的平和キャンペーン」として拒否し、その後米国にあらわれた米中民間交流の議論をも「ペテン」として却けた。
中共が「反米戦線」結成のため、最も力を入れてきたアジア、アフリカ諸国との関係では、六五年三月から四月にかけ、周恩来首相のアルジェリア、アラブ連合訪問が行なわれる一方、パキスタン大統領、アフガニスタン首相、シリア外相を北京に迎える等、活発な動きがみられたが、中共が支持していたセイロンのバンダラナイケ政府は、三月の総選挙で敗れ、親西欧的セナナヤケ内閣が出現した。六月、周恩来首相がパキスタン、タンザニアを訪問した目的は、同月末にアルジェリアで予定されていたAA首脳会議への働きかけの最後的仕上げにあったともみられたが、同首相がアフリカまで歩を延しながら公式訪問先がタンザニア一国に終ったことは、その工作の成果が少なかったことを物語るものであった。
また、AA会議に関して中共はこれを「米帝国主義反対」の場に盛り上げんとし、同会議開催の目前に突発したアルジェリアのクーデター直後、陳毅外相を同国に派遣、周恩来首相はカイロに待機して会議の強行開催に努めたが、結局中共も会議の延期を認めることを余儀なくされるに至った。
中共は、これにより「反米帝国主義」結成のための一つの機会を逸したが、七月には、ソマリア大統領、ウガンダ首相を北京に迎え、また、モーリタニアとの外交関係を樹立する等、依然としてAA外交に積極的態度を保持した。
このようななかで、九月、ナセル大統領が中共の反対して巳まぬソ連のAA会議への参加支持を表明したことは、中共の同会議への意欲に冷水を浴びせるものであった。ついで、インドネシアの九・三〇事件が起り、八月スカルノ大統領が宣言した北京とジャカルタとの「枢軸」にも重大な変化を生じ、かくて中共は一一月始めに予定されていたAA会議の延期を提案する破目となった。しかし、この提案は容れられず、一〇月末、中共不参加のまま開催されたAA外相会議は、結局首脳会議の無期延期を決定した。しかも、同会議がソ連のAA会議参加をコンセンサスとして認めたことは、中共の意思を無視した形となった。
さらに一二月末ダホメ及び中央アフリカのクーデターにより成立した軍事政権は、対中共断交を行ない、またこれと前後してキューバと中共との関係も悪化した。その上、二月には、ヌクルマ大統領の北京訪問中、ガーナの親西欧クーデターが成功し、他方対インドネシア関係は一層険悪化する等、中共の立場は益々不利となった。
かかる情勢に対応して中共が六五年一二月以後、外交陣容の大幅異動を行ない、また三月に入って人民日報が当面の国際情勢に関し、「一部の地域の革命闘争が一時的な挫折をなめていること」を認めたのは、外交陣容の立直しをねらい、かつまた、一般国民に対する説明を行なおうとしたものとみられる。六六年三月下旬より、劉少奇国家主席及び陳毅外相がパキスタン、アフガニスタン、ビルマ三国を訪問したことは、中共首脳の久しぶりの外遊として注目された。