北米地域 |
わが国は、沖繩住民の経済的社会的水準の向上に資するため、昭和三十五年以後種々の形で、沖繩に対し経済技術援助を供与して来たが、昭和三十六年六月の池田、ケネディー会談の結果に基いて翌三十七年三月発せられたケネディー声明の中で、米国政府は、沖繩に対する援助供与について、日本と米国との協力に関する明確な取極めを行う用意がある旨を表明した。これに引続いて行なわれた日米両国間の交渉の結果、昭和三十九年四月二十五日付で、交換公文が成立し、沖繩援助に関する両国政府の政策を調整するための日米協議委員会が東京に設置され、また、援助の運営および実施に伴なって生ずる問題を検討するための日米琉技術委員会が那覇に設置されることとなった。
協議委員会は、日本側から外務大臣および総理府総務長官、米国側から駐日大使によって構成されることとなっている。また、技術委員会は、日本政府南方連絡事務所長琉球列島米国民政府副民政官および琉球政府副主席によって構成されている。協議委員会および技術委員会は、発足以来、本年三月までにそれぞれ四回の会合を開き、日本の対沖繩援助計画の円滑な実施に寄与する等多大の成果を収めた。
この協議、技術両委員会の成果にもかんがみ、日本政府としては、援助に限らず沖繩住民の福祉と安寧に関係する諸問題について、広く米国側と協議し協力し得るよう日米協力体制を拡充することを希望していた。
本年一月佐藤総理訪米の際にも、わが方より、その希望を表明したが、その結果、一月十三日発表された日米共同声明の中で沖縄住民の安寧の向上を図るために両国が協力できる援助以外の問題をも取り上げうるよう協議委員会の機能を拡大することに意見の一致を見た旨が謳われるに至った。
このようにして、協議委員会の機能が拡大されることとなった結果、同委員会は、住民の福祉と安寧の向上を通じ沖縄の事態の着実な改善に今まで以上に寄与することが期待されることとなった。
小笠原諸島の住民約六、八○○名は、戦時中内地疎開を命ぜられ、軍属として島に残留した八二五名中の生存者六八三名も終戦後米軍によって引揚げさせられた。其の後昭和二十一年に欧米系人を祖先とする一三五名は帰島を許されたが、それ以外の旧島民は同諸島が米国海軍の管轄下にある関係もあり、安全保障上の必要を理由としていまだに帰島を許されていない。
その後、日米間の外交折衝の結果昭和三十六年に至り内地に在往する旧島民に対しては、帰島し得ないことに対する補償として、米国側より六〇〇万ドルの見舞金の支払いを得た。しかしながら、旧島民の間には依然帰島の希望が強く永往のための帰島が不可能であれば、墓参のため一時的にでも帰島したいとの希望の表明があった。政府としても昭和三十七年以来、しばしば米国政府に対しこの希望を伝達し米国側の好意的考慮方を要請してきた。この結果本年一月佐藤総理訪米の際、総理の要請に応じ米国政府は小笠原墓参を原則的に承認するとの方針を明らかにし、ついで三月四日在京米国大使館より外務省あての公文をもつて、旧島民の父島、母島および硫黄島への墓参を許可するから、至急日本側において具体案を策定ありたい旨通報があった。これにより、これら三島への墓参は近く実現する見込みである。
一九五二年八月、日米両国間に締結された民間航空協定の附表で、両国政府がそれぞれ指定する航空企業が定期航空業務を行なうための路線が定められた。
当時、わが国は国際線営業を行なう航空企業をもっていなかったのに対し、米国のパン・アメリカン及びノースウエスト両社は、占領期間中から引続き日本に乗入れてきており、上記の協定附表に定められた米側路線は、この二社の既得権を固定化した形となった。
このような経緯によって定められた航空路線により、現在米国政府の指定する前記二社は、米国から東京に乗入れた上、更にアジアの主要地点にまで運航を行なっているのに対し、日本政府の指定する日本航空は、日本から米国西海岸までの乗入れしか認められていない。
最近、わが国の経済的発展に伴い、わが国と米国東部との間の航空貨客が急増しつつあること、及びジェット機の就航により長距離を短時間で旅行することが可能となってきたこと、等の事情を背景として、現行の日本側路線を米国西海岸からニューヨークまで延長した上、更に以遠欧州まで延長することを要求する声が高まり、政府も一九六一年、米国政府に対し、これを交渉することに決した。
一九六一年の交渉は、五月末から約一カ月にわたりワシントンで行なわれたが、米側が、日本にニューヨーク以遠を運航する権利を与えることを、あくまで拒否したため、何等結論を得ないままに休会となった。
その後、政府は種々の機会に米側の再考を促してきたが、一九六四年春、正式に交渉再開を申入れた。
交渉は、ワシントンにおいて、六月二十二日から八月五日まで行なわれたが、再び、両国間に合意を見ないままに休会となった。
この交渉において、日本側は、現行の路線(東京~ホノルル~サンフランシスコ及びロスアンゼルス)を更にニューヨーク及び以遠にまで延長することを、主として次の理由にもとづいて要求した。
(イ) 現在、米側は、日本の政経の中心である東京に乗入れ、さらに、東京以遠の権利を十分活用しているのに対し、日本側は、米国の中心である東部(ニューヨークを中心とする)への乗入れすら認められていない。これは、当事国相互の政経の中心に乗入れるといろ現在の国際民間航空に関する原則にてらして不平等である。
(ロ) 米国は、主要西欧諸国にニューヨーク乗入れを認めており、さらに、英・濠・印の三国には、米国太平洋岸中部から米国大陸を横断してニューヨーク経由欧州への路線を認めているので、これらの国々に比べ、日本は差別待遇を受けている。
(ハ) 日本経済の成長、日米、日欧経済関係の緊密化、等にもとづき、日本と米国東部との間、更に米国東部を経由して欧州との間の貨客は急増しつつあり、将来も増加していくと予想される。
(ニ) 米国の航空企業は、近年非常な好況を続けており、日本側の要求が認められても、それが米国の航空企業に与える影響は問題とするに足りない。
このような日本側の要求に対し、米側は、
(イ) 現行協定は、日米間の合意によって締結されたものであり、経済的にも、現行路線によって両国航空企業は妥当な利益を得ているのであるから、現行協定は不平等とはいい得ない。
(ロ) ニューヨークは、他に類を見ない程の経済的価値をもっている。
(ハ) 従って、日本側にニューヨーク乗入れを認めるためには、相当大きな代償を必要とする。
と反論し、この立場にもとづく対案として、日本側の要求のうち、東京~ホノルル~ロスアンゼルス~ニューヨーク止まり、は認めるが、その代償として、日本側が現在もっている権利のうち、サンフランシスコ乗入れ権、及びシアトル乗入権、並びに、サンフランシスコ、ロスアンゼルスそれぞれからの以遠権を削除するとともに、米側に新たな権利として、大阪及び九州内の一地点への乗入れ権等を与えることを提案してきた。
日本側は、このような提案は、現在の不平等を拡大するのみであり、到底受入れられないとして、休会を提案し、近い将来適当な時期に改めて交渉を行なう趣旨の共同声明を発表して、交渉は休会となった。
その後、一九六五年一月、佐藤総理訪米の際の共同声明(資料二二参照)において、この問題を含む日米両国間の懸案事項について、双方が受け入れうる公正な解決が得られるよう、両国政府間で緊密な協議協力をはかることが重要であるとの合意がなされた。
米国は宇宙開発の一環として通信衛星を利用することにより、世界の全地域をカバーする通信網を設立する計画を進めていたが、昭和三十七年八月米国議会は通信衛星会社法を成立せしめ、これに基づき昭和三十八年二月一日米国通信衛星会社(株)が設立された。しかし通信衛星の利用により国際電信電話網を運営するためにすは、世界における主要通信国の協力が必要であることはいうまでもない。このため米国政府及び米国通信衛星会社は、欧州諸国、日本、オーストラリヤ等の参加を得て、商業用通信衛星世界組織を設立することを計画し、これ等諸国と交渉を行なってきたが、昭和三十九年八月協定が成立した。
協定は、本組織に参加する国の政府が署名する政府間協定と通信事業体(国により、政府機関の場合と、政府が指定する事業体の場合がある)が署名する特別協定の二本立てとなっている。
本協定は、衛星による通信が世界的かつ無差別の基礎の上にできる限りすみやかに世界の諸国民に利用されうるものとなるべきという昭和三十六年十二月二十日付国連総会決議第一、七二一号に掲げる原則に基づくものであり、したがってこれにより設立された組識は、すべての国がそれを利用することができ、又希望する国は、組織に投資することにより、組織の企画、開発、建設、設立、維持、運営及び所有に参加しうるようになっている。
この世界的共同事業が将来予想される国際的特に大陸間の通信量の増大に対処するのに有効な手段としてもつ重要性にかんがみ我国は、当初より本組織に参加することとし、昭和三十九年八月二十日ワシントンにおいて、政府間協定には、在米武内大使が、特別協定には日本の通信事業体として政府により指定された国際電信電話株式会社の大野社長がそれぞれ署名した。
なお、昭和四十年三月四日現在、本協定に署名した国は、四十五カ国である。
「科学協力に関する日米委員会」の第四回会合は、一九六四年六月二十三日より二十六日まで、ワシントンにおいて開催された。日本側からは兼重寛九郎委員代表以下十名が、米側からはH・C・ケリー委員代表以下八名が出席した。
本会合においては、従来実施されている七つの協力分野に設けられた専門分科会、すなわち、(1)人物交流、(2)科学技術情報及び資料の交換、(3)太平洋地域の地球科学、(4)化物科学、(従来の名称、「太平洋地域の動植物地理学及び生態学」が「生物科学」に改められた)(5)医学、個科学教育、(7)ハリケーンと台風に関する専門分科会よりそれぞれ提出された報告と勧告を検討するとともに、両国政府に対し各種の具体的共同研究計画の実施を勧告した。特に、本会合は、従来の研究計画に加え、「薬物乱用」を医学分野における共同研究に適当な研究領域としてあらたにとりあげるべきことを両国政府に勧告するに同意した。これは、日米両国において薬物乱用が漸次問題化しつつあること、およびこの問題が、日米両国においては、他国と異った共通の性格を有していることを考慮したためである。
また、本会合には、日米両国が共同して作成した各専門分科会の活動状況に関する報告が提出された。
同報告によると、本委員会発足以来、立案され実施された日米共同研究計画は五十七にのぼり、参加した科学者数は、日本側百五十八名、米側六十四名、また専門部会の開催したシンポジウム等日米科学者間の会議は、日本で十三回米国で七回計二十回、研究計画又は会合のため交換された学者数(主に短期間)は二百二十四名にのぼっている。
会合の終了に際し、委員会は、共同コミュニケにおいて、過去三年間にわたり日米両国の科学者により実施された種々の共同事業が、両国の科学協力の拡大のために確固たる基盤を確立したことを確信する旨を表明するとともに、本委員会の従来の活動は、科学における国際協力が、学術の進歩のみならず諸国間の理解を深めるのに寄与したと述べている。
なお、本委員会の第五回会合は、一九六五年六月二十三日より二十六日までの四日間東京において開催されることとなっている。
一九六三年一月ライシャワー大使より大平外務大臣(当時)に対して原子力潜水艦のわが国寄港について、政府の意向を打診してきた。政府は慎重な検討を行った結果、その安全性に確信を得るに至ったので、一九六四年八月二十八日寄港に異議ない旨米側に通報した。これは政府としてその安全性につき確信を得るに至った以上、極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する米国艦隊の一部を構成する原子力潜水艦が、わが国に寄港しうることは、それが核兵器を装備していない限り安全保障条約上当然であるとの考えに基くものである。
一九六四年十一月十二日シードラゴン号が本邦寄港第一艦として佐世保に入港した。同艦は十四日出航したが、政府は予定通り同艦周辺のモニタリングを行ない出航時の一次冷却水をも採取して放射能の調査を行なったが何の異常も認められなかった。また、一九六五年二月二日同じくシードラゴン号が再度佐世保に寄港したが、放射能調査の結果前回の入港の際と同様の結論を得ている。
日米安全保障条約に基づいて日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられた安全保障協議委員会は、これまで四回会合を行なってきたが、その第五回会合が一九六四年八月三十一日外務省で開かれた。日本側からは椎名外務大臣及び小泉防衛庁長官、米側からはライシャワー大使及びシャープ太平洋軍司令官が出席し、椎名大臣が議長となった。
この会合では、日本及び極東における安全に関連のある国際情勢及びわが国防衛上の諸問題について活発な意見の交換が行なわれた。
わが国防空能力強化の一環として現存の防空警戒管制組織の自動化を図るため、ききに政府は米国ヒューズ社が開発した自動防空警戒管制組織の採用を決定した。この組織の設置に要する装備品等については、日米相互防衛援助協定に基づき、経費分担方式によって米国政府から供与を受けるため交渉を行なっていたが、一九六四年十二月四日、佐藤外務大臣臨時代理とライシャワー駐日米国大使との間で書簡の交換を行ない、さらに、この交換書簡に基づく技術的細目取極を三輪防衛事務次官とルーカ在日米軍事援助顧問団長との間で締結した。
これら取決めに基づいて、政府は、米国政府からこの組織の設置に要する経費の二十五%、約九〇〇万ドルに相当する装備品等の提供を受けることになった。
椎名外務大臣は、一九六四年十二月一日より開かれた第十九回国連総会出席のため十一月二十八日より十二月六日まで渡米したが、十二月三日午後及び五日午前の二回にわたり、ニューヨークにおいてラスク国務長官と会談し、国際情勢一般及び日米関係につき意見の交換を行なった。なお、この会談において、佐藤総理が一月中旬訪米し、一月十二および十三の両日ジョンソン大統領と会談することが合意された。
佐藤総理大臣は、椎名外務大臣、三木自民党幹事長らとともに、一九六五年一月十日より十七日までの間米国に赴き、サンフランシスコ、ワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルス及びホノルルの各地を訪問した。各地での行事は次のとおりである。
サンフランシスコ(一月十日)
日米協会主催晩餐会において演説
ワシントン(一月十一日~十三日)
ジョンソン大統領と会談(二回)
ラスク国務長官と会談
マクナマラ国防長官と会談
ディロン財務長官と会談
シュヴァイツァーIMF専務理事と会談
ナショナル・プレス・クラブにおいて演説及び質疑応答
アーリントン墓地参詣
ジョンソン大統領夫妻主催晩餐会およびラスク長官主催午餐会に出席
ニューヨーク(一月十四日)
ニューヨーク市庁における歓迎式に出席
ウ・タン国連事務総長と会談および午餐
日米協会他主催晩餐会において演説
ロサンゼルス(一月十五日)
日米協会他主催午餐会において演説
ホノルル(一月十五日~十六日)
日系人諸団体主催晩餐会において演説
パンチボール国立墓地参詣
ハワイ知事主催レセプションに出席
ジョンソン大統領をはじめとする米国政府首脳との会談においては、単に日米間の問題に止らず、広く世界一般、特に中国及びヴェトナムを中心とする問題について率直な討議が行なわれた。その結果、日米両国は、今後真の意味でのパートナーとして、世界、特にアジアの平和と繁栄のため、協調して努力するという新しい関係に入ることとなった。
また、この会談の結果、沖縄に関する日米協議委員会の権限拡大が合意され、長年の懸案であった小笠原諸島の旧島民の墓参が実現するに至った。その他の両国間の懸案事項についても、総理よりわが方の主張を率直に表明したが、これらの問題につき米側首脳がわが方の立場に対する理解を深めたことは、これらの問題の解決に寄与するものとして期待される。(一月十三日発表された日米共同声明の全文は資料篇に掲載)