アジア(西アジアを除く)地域

1 日韓全面会談

(1) 第七次会談の開催まで

一九六二年末に請求権問題について大筋の合意が成立して以来、交渉の焦点は日本側の最も関心を抱いている漁業問題に移った。

漁業問題は、その解決が最も困難な問題であり、そのため、事務レベルで行なわれてきた討議は停滞しがちであったが、これを打開するため、一九六四年三月十日より、東京で、日本側赤城農林大臣と韓国側元容爽農林部長官との間で漁業閣僚会談が開かれた。この会談では、漁業問題の核心に触れた忌憚のない意見の交換が行なわれ、相当の成果を収めたが、主要な問題点について合意に達するまでにいたらず、韓国の国内情勢の流動化のため、四月六日農相会談は中断のやむなきにいたった。(以上の詳細は「わが外交の近況」第八号七六頁以下参照)

その後、日韓会談全体も事実上中断状態に陥り、十二月に第七次会談が開催されるまで、交渉は何の進展もみなかった。

(2) 第七次会談の開催

一九六四年十二月三日、日韓会談は、新たに第七次日韓全面会談の名称の下に再開された。

会談再開とともに、漁業、在日韓国人の待遇及び基本関係の三委員会が開かれ、鋭意討議が続けられた。

(3) 椎名外務大臣訪韓と基本条約案のイニシアル

基本関係条約は、日韓両国間の外交領事関係の設定その他基本的関係を規定することを目的とするものである。

この問題については、一九五二年の第一次会談当時に相当討議が行なわれたことがあったが、他の諸懸案の討議が進展しないため、第二次会談以降は殆んど実質的討議は行なわれなかった。

第七次会談に入ってから、双方とも、この問題について本腰を入れて交渉に臨んだ結果、問題点は非常に煮つめられた。さらに、椎名外務大臣が一九六五年二月十七日から韓国を訪問した際の話合いによって、残された問題点についても合意に到達し、二月二十日にソウルで「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約案」にイニシアルが行なわれるにいたった。

これは十四年に及ぶ日韓交渉においてはじめて合意を見た条約案であり、極めて画期的なことであった。その結果、それまでも熟しつつあった会談妥結への気運は大いに高まった。

イニシアルされた基本条約案の要旨は次のとおりである。

(イ) 外交領事関係の開設、大使の交換と領事館の相互設置

(ロ) 日韓併合以前に締結された旧条約がもはや無効であることの確認

(ハ) 韓国政府は、国連総会決議一九五(III)に示されているような朝鮮における唯一の合法政府であることの確認

(ニ) 国連憲章の原則の尊重とそれに基づく協力

(ホ) 通商航海条約及び航空協定の締結のための交渉の開始

(4) 赤城・車農相会談と漁業問題に関する合意事項のイニシアル

一九六四年十二月三日第七次日韓全面会談が開始されるとともに漁業問題に関する討議も再開された。漁業委員会は、一九六四年中に五回の会合が開かれ、漁業問題全般にわたり主として同年春の赤城・元農相会談において両国間で合意していた事項についての確認が行なわれた。

一九六五年にはいってからは、共同規制水域における暫定的漁業規制措置の内容特に、そのうち最も重要である出漁隻数の問題をはじめ、暫定的漁業規制措置の実施に係わる問題、隻数規制を行なうにあたっての指標となる数量としての漁獲量の問題協定違反の場合の取締り及び裁判管轄権の問題等を中心として、委員会会合漁業専門家会合等を頻繁に開き、精力的に討議が進められたが、双方の代表者の権限にも限度があり、討議のはかばかしい進捗は見られなかった。

二月中旬椎名外務大臣が訪韓した際、第二次日韓農相会談を開催することに合意をみ、その結果会談は赤城農林大臣と車均禧農林部長官との間で東京において三月三日より四月三日まで開催された。

この会談において、両農相は多くの会合を重ね、漁業に関する水域、漁業資源保護のための規制措置及び漁業協力等日韓間の漁業問題全般にわたり相互理解と互譲の精神に基き大局的見地から検討を行なった。この結果漁業問題に関し、大筋の意見一致をみ四月三日両農相立合いの下に、日韓間の漁業問題に関する合意事項にイニシアルが行なわれた。

赤城・車会談においては、漁業協力についても討議が行なわれ、両農相は両国の漁業がともに発展し、繁栄するよう緊密な協力を行なうことが両国の相互の利益であることを確認した。この結果、民間経済協力の一環として漁業協力のために、九、○○○万ドルの金額に上る民間信用供与が日本側から行なわれることが期待され、そのうち一部は零細漁民用として特に有利な条件で行なわれることが期待されることが確認された。

(5) 漁業問題に関する合意事項の概要

イニシアルされた日韓間の漁業問題に関する合意事項の主たる点は次のとおりである。

(イ) 両国は、おのおのが自国の沿岸の基線から測定して十二マイルまでの水域を漁業水域として設定する権利があることを相互に認める。両国はおのおのその漁業水域において、漁業に関し排他的管轄権を行使する。

(ロ) 韓国漁業水域の外側に共同規制水域を設定し、この水域においては、漁業資源の最大の持続的生産性を確保するために必要とされる保存措置が十分な科学的調査に基いて実施される迄の間、暫定的漁業規制措置を実施する。

(ハ) 暫定的漁業規制措置の内容は最高出漁隻数、漁船規模、網目、及び光力とし、いずれの国の政府もその国民及び漁船が、この措置を誠実に遵守することを確保するため適切な国内措置を実施する。

(ニ) 前記最高出漁隻数によって操業を規制するにあたり指標となる数量として、年間総漁獲基準量を十五万トン(上下一〇%の変動があり得る)とする。

(ホ) 両国は公海自由の原則が、日韓漁業協定に特別の規定がある場合を除くほかは、尊重さるべきことを確認する。その具体的事例として、漁業水域の外側における取締り(停船及び臨検を含む。)及び裁判管轄権は漁船の属する国のみが行使する。

わが国はかねてより、日韓漁業協定は国際慣行に従った、公正にして妥当なものでなければならないと主張していたが、漁業水域については、済州島付近の一部の水域を除いて最近の国際的傾向に従ってこれを沿岸の基線から測定して十二マイルまでの範囲にすることに合意をみ、また共同規制水域における出漁隻数及び漁獲量についても、わが国の漁業実績はほぼ確保された。さらに、韓国側が公海自由の原則並びに公海における取締り及び裁判管轄権の旗国主義の原則を認めた結果、わが国が過去十数年にわたって要求し続けてきた李ラインの撤廃と、日本漁船の関係水域における安全操業が確保されることとなった。

(6) 椎名・李外相会談と合意事項のイニシアル

李東元外務部長官は、三月二十三日より日本を公式訪問し、四月三日までの間に数回にわたって椎名外務大臣と会談し、日韓会談の懸案解決のため、精力的な討議が行なわれた。

その結果、請求権及び経済協力の問題と在日韓国人の待遇の二大懸案につき大筋の意見の一致をみ、四月三日、漁業問題のイニシアルと日を同じくして、日韓間の請求権問題解決及び経済協力に関する合意事項並びに在日韓国人の待遇問題に関する合意事項に、両国外相立会いの下にイニシアルが行なわれた。

かくして、日韓会談はその全面的妥結に向かって大きく前進するにいたった。

(7) 請求権及び経済協力問題

請求権問題の解決については、一九六二年末に、いわゆる大平・金了解に基づき、無償三億ドル、長期低利借款二億ドルの供与を骨子とする解決方策につき大筋の合意が成立したが、なおいくつかの点について調整の必要が残っていた。

椎名・李外相会談においては、これら諸点の調整のため、及びその後二年半の間における両国間の経済提携関係の進展状況に照らし、かっての大平・金了解に新らしい角度からの検討を加えた。

イニシアルされた合意事項の概要は次のとおりである。

(イ) 農相会談で九、○○○万ドルの漁業協力のための民間信用供与が期待されるとの話合いができたが、さらに、三、○○○万ドルの船舶輸出のための民間信用供与が期待されることが了解され、従来一億ドル以上の民間信用供与が期待されると説明されていた大平・金了解の金額は、これらを含めて三億ドル以上となることが期待されるということに合意をみた。

この民間信用供与は政府が義務を負うものではなく、民間で行なう延払い輸出を政府が容易にするものである。日韓経済関係の緊密性にかんがみ、この程度の経済協力は十分予想されるところであるのみならず、これは両国間の貿易拡大のためにも韓国の経済発展のためにも有意義なものであると考えられる。

(ロ) 大平・金了解のとおり無償三億ドル、長期低利借款二億ドルの供与によって、日韓間の請求権問題は一切解決されることになった。その結果、終戦時の韓国置籍船等の返還に関する韓国側要求(船舶問題)は、日本側の従来の主張どおり、他の一般請求権とともに最終的に消滅することとなった。他方、日本の拿捕漁船請求権については、日韓会談の全般的進捗状況、特に最重要懸案であった漁業問題が大綱につき妥結をみるにいたった事情にかんがみ、大局的見地からこれを韓国に対して主張しないことになった。なお、関係者の蒙った損害の国内的な取扱いについては、今後政府部内で検討の上、解決がはかられることになる。

(ハ) そのほか、二億ドルの長期低利借款の返済期間は、七年間の据置期間を含めて二十年とすること、約四、五○○万ドルの対韓焦付債権の韓国による償還期間は十年とする(現金で払えない場合は無償供与の毎年支払額より差し引く)ことなどが合意された。

請求権および経済協力の問題は、単に過去の請求権問題を解決するという消極的な面にとどまらず、日韓両国の将来の経済面における緊密な協力関係の基盤を作る積極的な意義を有するものである。

(8) 在日韓国人の待遇問題

この問題については、一九六四年十二月に第七次会談が再開されるとともに、委員会の会合を頻繁に開き、鋭意討議が続けられた。その結果、永住許可された者がいかなる場合には退去強制されるかという問題については合意に達したが、最も重要な問題である永住許可の範囲については話合いがつかず、また永住を許可された者の国内処遇についても多くの対立点を残していた。

椎名・李外相会談においては、これらの問題を解決するため、折衝が重ねられた結果、大綱につき合意に到達した。イニシアルされた合意事項の概要は次のとおりである。

(イ) 永住許可の範囲については、在日韓国人の特殊な歴史的背景にかんがみ、子々孫々にまで永住権が認められるべきであるとの韓国側の強い主張があったため交渉は難航したが、結局、終戦以前から引続き日本に居住する者、その直系卑属で協定発効後五年間の過渡期間が終るまでに日本で出生する者、及びこれらの子で日本で出生する者に永住許可を与え、その後に出生する者のことについては二十五年以内に改めて協議することに合意が成立した。

(ロ) 退去強制については、内乱、外患、国交に関する罪を犯した者、七年を超える懲役禁錮に処せられた者、麻薬の営利犯、常習犯等は退去強制ができることに合意した。

(ハ) 処遇問題については、教育及び生活保護等につき妥当な考慮を払うという原則が確認された。

在日韓国人の取扱いは、わが国の長い将来にわたる社会秩序の問題に関係する重要問題であるが、今回の合意を全体としてみると、善良な在日韓国人が日本において平和で安定した生活を営むことを保障したいという両国関係者の希望は十分達せられるとともに、日本側として子々孫々まで永住を認めることを協定することはできないという点などで筋を通していると考えられる。

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2 大平外務大臣の訪台

(1) 大平大臣は一九六四年七月三日、後宮外務省アジア局長を伴い台北を訪問し、二日滞在の後五日午後帰国した。

三日午前台北入りした大平大臣は同日午後、沈昌煥外交部長を外交部に、厳家淦行政院長を行政院に、陳誠副総統を官邸に訪れそれぞれ懇談した。

四日は蒋介石総統はじめ政府首脳と意見交換を行い、午前九時から約一時間にわたり沈外交部長と意見交換を行った後、張群総統府秘書長、蒋総統を訪問した。午後は沈外交部長と第二回目の会談を行った。

(2) これに先立って、一九六三年八月二十日、倉敷レイヨンによる中共向ビニロン・プラントの延べ払い輸出が決定されるや、中華民国側はこの措置を不満として駐日大使を引揚げ、さらにその後、周鴻慶事件(詳細は「わが外交の近況」昭和39年版・第8号80頁参照)やニチボー・プラントの中共向け輸出問題がからみ日華関係は極めて悪化していた。日本政府はこれを憂慮し、十二月二十五、六日には後宮アジア局長を訪台させ、解決の糸口を探ったが、その後二日には吉田元総理、三月には毛利外務政務次官の訪台があり、日華関係は除々に改善の方向に向いつつあった。かかる事態を背景として中華民国側も六月に魏道明新駐日大使を赴任せしめ(六月二十六日着任)、更にわが方より大臣の訪台が実現した次第である。

(3) なお中華民国側は一九五四年一月以来周鴻慶の中共送還に対する報復措置として日本商品の政府による買付けを禁止していたが、大平大臣の訪台の結果これを解除するに至った。

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3 日本・インドネシア航空協定付表修正交渉

日本・インドネシア両国航空当局は、一九六四年十月二十八日より十一月二日まで日本・インドネシア航空協定附表修正のための交渉を行なった。同交渉の結果、双方はインドネシア側現行路線上の地点(ジャカルタ、マニラ、香港、東京)にシンガポール、クアラ・ルンプール、サイゴンを加えることに合意した。なお、右合意は一九六五年二月二十四日付交換公文により同日から発効した。

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4 ヴィエトナムに対する援助

(1) ヴィエトナム緊急援助

ヴィエトナム共和国では戦火が長年続いており、罹災者も数多く、また、病人、負傷者に対する医師、医療施設の不足が痛感されている状況であるので、わが国は同国に対し民生安定のための緊急援助を行うことを決定し、一九六四年八月一一日および十月二十七日の閣議において、それぞれ約五〇万ドルおよび約一〇〇万ドル、計約一五〇万ドル(約五億四千万円)相当の緊急援助供与とその実施に東南アジア文化友好協会を当らしめること決定した。これにより、医療団の派遣(長崎大学から医師四名、看護婦二名、計六名)ならびに医療器機(鉄製ベット三、○○○台、患者運搬車二〇〇台等)医薬品(ペニシリン等九四品目)救急箱(三、○○○箱)救急車(二五台)トランジスター・ラジオ(二〇、○○○台)簡易診療所用建築資材(一六戸分)の贈与が実施された。

医療団は一九六四年八月末より約四ケ月にわたる現地での研究および治療活動に従事し多大の成果をおさめ、同年末帰国した。

(2) ヴィエトナムの風水害に対する援助

一九六四年十月中旬ヴィエトナムを襲った風水害により死者六、八○○名以上の被害が生じ、このためヴィエトナム政府は十一月十四日わが方に対し援助方を要請してきたので、わが方は右風水害難民救恤のため一万米ドルを十二月十二日ヴィエトナム政府に贈った。

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5 ラオス困窮者救済援助

一九六四年五月中旬のジャール平原におる戦闘の結果生じた避難民救恤のため、わが方は、五千米ドルをもって避難民家屋建築用資材亜鉛鉄板七、○○○枚を講入、同年七月二十二日ラオス政府に寄贈した。

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6 マレイシア紛争を繞る東京会談

(一) マレイシアの成立をめぐる所謂マレイシア紛争については、一九六四年一月の米国ケネディ司法長官の調停工作を足がかりとして関係国の平和的話合いが進められたが二回に渉るバンコック閣僚級会談(一九六四年二月及び三月)にひきつづき、フィリピンの口ペス大使の熱心な努力の結果同年六月東京において閣僚会議及び首脳会談が開催されることとなり、わが国はそのための会議場を提供し出来るだけの便宜を計り、その成功を期待した次第である。

(二) 会談は六月十八日より三日間、閣僚級会議三回首脳会議二回が開かれた。会談は終始非公開で開かれたが、討議の内容はインドネシア・ゲリラの撤退の問題が中心であったと伝えられている。

(三) 六月二十日の首脳会談の後、三国首脳は次の如き共同声明を発表して会談を終了した。東京会談は期待されながらもインドネシア・ゲリラ撤退の問題については合意にいたらず、見るべき成果をあげ得ずに終った。

一、インドネシア共和国大統領、フィリピン大統領およびマレイシア総理大臣は一九六四年六月二十日東京において首脳会談を開催した。この首脳会談に先立ち一九六四年六月十八日および十九日三国それぞれの外務大臣による会議が二回にわたって開かれた。

二、マカパガル大統領は四カ国より成るアジア・アフリカ調停委員会を設置し、そのうち三カ国はインドネシア、マレイシアおよびフィリピンがそれぞれ選び、第四番目の国を、これら三カ国の合意によって選ぶこととする旨提案した。この調停委員会は、三国の間に現存する諸問題を検討し、その解決のため勧告を行なうよう要請される。

三、スカルノ大統領はこの提案に対する同意を表明し、同調停委員会の勧告に従うことを保証した。

四、トウンク・アブドル・ラーマン総理大臣は、マレイシアに対する全ての敵対行為がただちに停止されねばならないとの条件を付して原則的にこの提案に同意した。

五、三国首脳は、三国それぞれの外務大臣にそれぞれの首脳が表明した見解に留意し、適当な時期に三国首脳が再会できるようにこの提案の検討を続けるよう訓令することに合意した。

六、三国首脳は本会談のため必要な便宜を供与された池田総理大臣閣下、日本政府および日本国民の厚遇と寛容と懇篤な配慮に対し感謝の意を表明する。

七、三国首脳は撤兵の検証に関するタイ政府の協力と援助に対し深甚の謝意を記録に留めたい。

八、インドネシア共和国大統領とマレイシア総理大臣は、三国首脳がこの首脳会談に参集するについてフィリピンのディオスダード・マカパガル大統領の演じた重要な役割を多とするものである。

(四) なお、東京会談終了後わが国は次のような政府見解を発表した。

「日本政府は東京において三国の閣僚会議ならびに首脳会議が開かれマレイシア問題解決に向っての建設的な前進が見られたことを歓迎する。

今後問題は更に三国外相会議の討議にゆだねられることとなったが、今回の話合いの結果を基礎として一日も早く本間題の平和的解決がもたらされることを衷心から希望する。

日本政府としてはこの目的達成のため将来とも与うる限りの協力を惜しむものでないことも勿論である。」

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7 マレイシアの対日補償要求問題

(1) 一九六二年二月、シンガポールで、一建築現場より多数の遺骨が発掘されたのを契機として、戦時中の中国人集団殺害事件について、シンガポール中華総商会(中国系住民の商工会議所)を中心にわが国に補償を要求する動きが起り、同総商会はシンガポール政府に対いし、わが国に補償を要求するよう働きかけた。

わが方は、マレイシアについての賠償問題は桑港平和条約により既に解決済みと考えており、本問題についても賠償的性格を帯びた要求には応ぜられないが、シンガポールとの友好関係の維持発展を願う立場から、戦争中の日本軍の行為に対する償いのジェスチャーとして適当な措置をとる用意はある旨を明らかにした。

(2) かかる立場より、シンガポール政府との間で公園建設案、病院建設案等の話合いが行なわれたが、結論を見るにいたらなかった。

この間一九六三年八月シンガポール中華総商会は民衆大会を開き、五、○○○万マラヤドルの要求貫徹、対日非協力等の方針を打出し、同年九月にはシンガポールにおいて対日ボイコットが展開されるにいたった。

さらに、シンガポールの動きに刺激されてマラヤ各地の中華総商会はシンガポールの動きに呼応して八月下旬、対日補償要求に関する大会を開催し、戦時中の殺害に対する補償として一億一千万マラヤドル(約一三二億円)を要求するにいたった。

(3) しかるところ、九月十六日マレイシア成立を契機にマレイシア中央政府がこの問題をとりあげ、日本政府と話合いを行なうこととなったので(この間ラーマン首相の要請で対日ボイコットは終熄した)、早急にこの問題の妥結を計るため、わが方は現地の大隈大使を補佐するため、十月二十三日後宮アジア局長を現地に派遣し、二十四日より十一月一日までマレイシア政府との間に話し合いを行なった。

(4) この話し合いでは、日本のとるべき措置の方法および規模についての合意に達することはできなかったが、それぞれの立場についての理解が深められたので、今後もさらに誠意をもって同政府との間に話し合いを続けることとされた。

しかしながら、その後マレイシア側においてマラヤ十一州における総選挙、マレイシア紛争問題、ラーマン首相の外遊等があったために本件に関する具体的話し合いを進める時間的余裕がなく、交渉は止むを得ずしばらく停止せざるを得なかった。

(5) この間わが方としては、マレイシア側の交渉再開の呼びかけを待っていたものであるが、昨年十一月頃より、マレイシア側においてペナンに総合大学を建設するという計画に日本の協力を求めるという話し合いが進捗しつつあり、本件は間もなく解決されることが期待される。

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8 日本・マレイシア航空協定署名について

日本航空は、一九五八年にシンガポール線の運航を開始し、一九六二年にこれをジャカルタまで延長して現在に及んでいる。このシンガポールヘの乗り入れは、日英航空協定に基づいて行なわれていたものであるが、一九六三年九月にシンガポールがマレイシアの一部となったために、日英協定ではもはやシンガポールヘの乗り入れを行なうことができなくなり、新たにマレイシア政府の許可を必要とすることとなった。よって、一九六四年二月及び同年八月-十一月の二回にわたり両国代表者間でクァラ・ランプールにおいて交渉が行なわれた結果合意をみ、一九六五年二月十一日クァラ・ランプールにおいて日本側在マレィシア甲斐大使とマレィシア側サルドン運輸大臣との間で航空協定が署名された。

この協定は批准書の交換により発効することとなるが、これにより、わが国は、シンガポールのほかクアラ・ランプールヘも乗り入れることができることとなるほか、マレイシア経由豪州へ乗り入れる権利を獲得した。

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9 サラワクにおける海運所得に対する課税の問題について

(1) 旧英領植民地サラワクにおいて、わが国船舶の取得する海運所得に対する課税は、サラワク所得税法に基づき免除されていた。しかるといろ、昨年十月にいたり、マレイシア所得税法の改正により課税されることとなった旨サラワク税務当局より関係船会社に対し通報があった。

(2) よって政府としては、本件解決のためマレシア政府と目下折衝中である。

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10 フィリピンの台風被害に対する見舞金

一九六四年六月、マニラおよび中部ルソンを襲った台風ダディングは、同国では、八十年振りといわれる程激しいもので、人命、財産に多大の損害が発生した。

よって、わが国は、池田総理よりマカパガル大統領およびフィリピン国民に対して見舞電を発するとともに、米貨一万ドルの見舞金を在フィリピン板垣大使を通じて比政府に贈った。

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11 タイの水害に対する見舞金

昨年十二月二日政府は、十月上旬より十一月にかけて中部タイを襲った水害に対する見舞金として一万米弗(三百六十万円)をタイ政府に贈った。

なお、昨年八月四日タイ政府は、新潟地震に対する見舞として在京タイ大使を通じ、タイ米三〇〇袋三〇トンを日赤に寄贈した経緯がある。

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12 セイロンの台風災害に対する見舞金

一九六五年一月二十八日政府は、昨年十二月末、セイロンの北部および東部を襲った台風による災害に対する見舞金として、四万ルピー(約三百万円)をセイロン政府に贈った。

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13 要 人 の 来 日

(1) 張群中華民国総統府秘書長

イ 張群中華民国総統府秘書長は、吉田元総理の二月の訪台への答礼として八月十二日非公式にわが国を訪れた。本邦訪問中同秘書長は池田総理、椎名大臣、吉田元総理らと会談し、更に政財界の要路とも話し合い八月二十一日、次の訪問国韓国へ向つた。同氏の訪日により大平大臣の訪台により正常化の方向に向った日華関係は、更に改善されたものと考えられる。

ロ 張群秘書長と池田総理との会談においては、日韓国交の早期正常化の促進、日華関係の一層の緊密化について隔意のない意見交換が行われ、更に椎名大臣との会談では、両国の大目標は反共という点では同じであるが、それぞれの置かれている立場が異るために、たどる道が異なる場合もあるが、更に緊密な連絡をとり相互理解を深めること及び両国友好関係につき一層の促進をはかることについて意見の一致をみた。

(2) フィリピン共和国のマカパガル大統領

フィリピン共和国のマカパガル大統領は、マレーシア紛争について、ラーマン首相、スカルノ大統領との会談のため、メンデス外相、ロペス特使ら随員約三十数名を伴って、一九六四年六月十三日来日、六月二十二日まで滞在した。

同大統領は、滞在中、天皇陛下より宮中午餐会に招待されたほか、池田総理大臣と会見し、マレイシア問題につき会談した。

また同大統領は、同年六月十七日の新潟事件の際、池田総理を通じ被害者に対して見舞電を寄せられた。

(3) インドネシア共和国のスカルノ大統領

インドネシア共和国スカルノ大統領は、マレィシア紛争についてラーマン首相、マカパガル大統領と会談のため、スバンドリオ第一副首相兼外相ら随員三十数名を帯同して一九六四年六月七日来日、同二十一日まで滞在した。

同大統領は、滞在中天皇陛下より宮中午餐会に招待されたほか、池田総理大臣と会見し、マレィシア問題につき会談した。

また、スカルノ大統領は一九六四年十月五日カイロで開催の第二回非同盟諸国首脳会議に出席後、スハルト国家開発企画調整大臣ら随員四十四名を伴って十月二十六日非公式に来日し、十一月一日まで滞在した。同大統領は滞在中椎名外相と会見し懇談した。

スバンドリオ・インドネシア第一副首相兼外相

スバンドリオ・インドネシア第一副首相兼外相は一九六四年十一月二十五日非公式に来日し、同月二十九日まで滞在した。同第一副首相は滞在中佐藤総理及び椎名外相と会談した。

その後更にスバンドリオ第一副首相はヤニ陸軍大臣ら随員一七名を帯同して一九六五年二月十一日非公式に来日し、同月十四日まで滞在したが、その間佐藤総理、椎名外相と会談したほか川島自民党副総裁とも懇談した。

(4) ヴィエトナム共和国のドウオン・ヴァン・ミン特使

ドウオン・ヴァン・ミン将軍は、ヴィエトナム共和国ファン・カク・スー国家元首の特使として、夫人および随員二名を伴って、一九六四年十一月二十八日視察旅行のため来日、十二月十五日まで滞在した。

同特使は十二月三日天皇階下に拝謁を賜わり、同日佐藤総理を表敬訪問したほか、国内視察旅行を行なった。

(5) ラオス王国のプーミ・ノサヴァン副首相

プーミ・ノサヴァン副首相兼大蔵大臣は、欧米訪問の帰途、夫人およびブァバン・ノラシン法務大臣夫妻、ノランドル国会議員ならびに随員二名を伴って、一九六四年十月十日非公式に来日、同月十三日まで滞在した。

同副首相は、十月十二日椎名外務大臣を表敬訪問したほか、折から開催中のオリンピック競技を観覧した。

(6) ラーマン・マレイシア首相

ラーマン・マレイシア首相はマレイシア紛争についてスカルノ大統領、マカパガル大統領と会談するためラザック副首相ら随員約三十数名を帯同し、六月十四日来日同二十二日まで滞在した。

同首相はこの間池田総理大臣と会見し、日・「マ」両国間の親善友好関係の増進及びマレイシア問題につき話し合った。

(7) ムルシェド東パキスタン高等裁判所長官

ムルシェド東パキスタン高等裁判所長官(東パキスタン日パ協会会長)は、夫人同伴一九六四年九月二十三日から十月四日まで、外務省の招客として日本を訪問した。同長官は、滞日中、日本パキスタン協会会員と交歓したほか、関東および関西において新聞社、放送局、電器工場、史蹟名勝等を見学した。

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