一 世界の動きとわが国
東 西 関 係
東西関係は、米ソ関係を中心としてみる限り、平和共存の基調が続いている。一九六四年十月のフルシチョフ首相の失脚後も、これには変化がない。しかしアジアにおいては、ヴィエトナム問題をめぐり、ソ・米・中関係はいささか緊張度を加えてきた。他方東欧諸国では、西欧への接近の動きと自主性増大の傾向が顕著にみられた。
米ソ間では、かねてケネディ末期より交渉されてきた領事条約が一九六四年六月に調印された。同条約は、米ソ両国間で最初に結ばれた二国間条約で、両国関係の改善を一段と進めるものとして注目された。
この間にあって、ソ連は、フルシチョフ首相を中心に、アジア、アラブ、西ヨーロッパなどに対して活発な外交を展開した。
フルシチョフ首相は五月にアラブ連合を訪問し、二億五千二百万ルーブルの経済援助を約した。ミコヤン第一副首相も、時を同じくして、日本を初め、インドネシア、インド、ビルマ、アフガニスタンなどを訪問した。
また六月に入ると、フ首相が北欧三国を訪問するなど、ソ連はこれら各国との関係改善に努めた。つづいて、七月には、フ首相の女婿アジュベイが西独を訪問、九月には同首相の西独訪問計画も発表されるに至った。おりからNATOの多角的核戦力構想(MLF)をめぐって論議が高まっていた時でもあり、フルシチョフ首相が対西独積極策に乗り出したことは、今後の出方とともに広く注目されていたが、その矢先、当のフ首相の辞任が突如発表され、世界を驚かせた。
すなわち、ソ連は十月十六日に、フ首相が「老令と健康悪化」を理由として、首相、党中央委員会第一書記、同幹部会員の地位から「願いにより」解任されたことと、直ちにブレジネフ氏が第一書記に選出され、コスイギン氏が首相に任命されたことを発表した。しかし一般には、フルシチョフ氏辞任の「健康」上の理由は表面上のもので、実際には、彼の内外政策の行き詰まり、もしくは指導の失敗の責を問われ、失脚したものとみられていた。新たに成立したブレジネフ・コスイギン政権は、まずこれまでの「平和共存」路線には変りがないことを内外に印象づけるよう努め、注目をひいた。
これに対し、米政府も、フルシチョフ氏の「良識と健全な判断」を高く評価するとともに、新政権についても「核戦争防止と平和共存政策を踏襲することが期待できる」として歓迎の意を表した。
つづいて十一月には、米国大統領選挙においてジョンソン大統領が、共和党のゴールドウォーター候補を圧倒的に抑えて再選された。かねてソ連は、保守的色彩の濃いゴ候補の登場に対し懸念の意を表明してきただけに、ジョンソン大統領の圧勝を「米国民の平和に対する強き意志の表明である」と歓迎した。
その後、ソ連新政権は、国内及び圏内の諸問題に忙殺され、西側に対しとくに積極的な動きをみせなかったが、西側との「実務関係」増進のための努力を怠らず、九二名の米実業家団のソ連訪問(十一月)、米ソ間の気象情報交換に関する協定および海水淡水化のための協力に関する協定(十一月)、さらには仏ソ間長期貿易協定の締結などがそれぞれ注目された。もっとも、ソ連はNATOのMLF構想を非難する言論は、過去一年間を通じ終始これを緩めなかった。
一九六五年になって、ジョンソン米大統領は、恒例の一般教書(一月)において「偉大な社会」のスローガンのもとに国内施策重点の姿勢を打ち出したが、東西関係についても、米ソ首脳によるテレビ放送交換の提案、ソ連指導者の訪米歓迎、対ソ・東欧貿易促進への熱意の表明など積極的な意欲を示した。この教書における米ソ首脳接触の提案に対し、ソ連は一月末、プラウダ論評において好意的反応を示した。
上述のように、米ソ関係がとにかく平穏であったのとは対照的に、アジアにおいては、ヴィエトナム情勢をめぐり米中の対立が激化し、その結果一九六五年に入って、米ソ関係も微妙な影響を受けるに至っている。
一九六四年八月フルシチョフ首相の在任中、トンキン湾(北ヴィエトナム)における米艦艇と北ヴィエトナム魚雷艇との衝突を契機とし、米国は「限定報復」のため北ヴィエトナムの基地を初めて爆撃したが、その際ソ連は、いずれかといえば形式的な対米非難を行なうにとどめ、中共の激しい対米非難の調子と著しい対照をみせた。
しかしその後ソ連新政権は、従来のフルシチョフ的な対米協調を多少とも修正し、"平和共存"路線の枠内で民族解放闘争支援の姿勢を正そうとする動きをみせ、一九六五年二月に、コスイギン首相はヴィエトナム情勢緊迫下の北ヴィエトナムを訪問した。しかしコ首相の北ヴィエトナム訪問中、米国は南ヴィエトナムにおけるヴィェトコンの攻勢に対抗して北ヴィエトナム爆撃を行ない、その後もこれを続行するにおよび、ソ連は北ヴィエトナムを防衛する構えを示すとともに、米軍の行動を「米ソ関係の基礎たる平和共存の原則を切り崩している」として、かなり激しい対米警告を行なった。しかしソ連は、ジョンソン大統領を名指しで非難することを避け、またモスクワにおけるアジア人学生による対米抗議デモから米大使館を保護するなど、いぜんとして慎重な対米考慮を示した。
この間にあって、東欧諸国の自主的な動きは、一九六四年もルーマニアを中心に一段と進み、また西側の東欧に対する働きかけも強まった。
五月には、ルーマニア代表団が初めて訪米し、米側と経済問題を中心に会談したが、六月には、ケネディ米司法長官がポーランドを訪問し歓迎を受けた。とくにドゴール仏大統領は、「大西洋からウラルまで」という大欧州構想のもとに、東欧諸国への働きかけを積極化したが、東欧諸国中にもこれに反応を示す国が現われ、ルーマニア首相一行が七月に訪仏したのを初めとして、十一月以降は、チェコ外相、ルーマニア副首相、ハンガリー外相、ブルガリア副首相などのフランス訪問が相次いで行なわれた。
一方中共は、インドシナ情勢をめぐる米国との激しい対決にもかかわらず、他の西側諸国との経済関係改善に努め、イタリアおよびオーストリアとの間に民間通商代表部設置に関する協定の締結等が行なわれた。中共の対非共産圏貿易量は、その対共産圏貿易量をすでに超えるに至っている。
最後に、軍縮交渉の経過に目を転じると、ジュネーヴ軍縮委員会は、一九六四年六月に再開され、最初米ソともに柔軟な態度で臨み、同委員会は今後の議題として、(1)軍事予算の削減、(2)軍事目的のための核分裂物質生産停止、(3)核兵器拡散禁止などの諸点を取り上げることについて合意をみたが、東西双方の主張が平行線をたどったまま、加えてMLF構想をめぐる見解の対立もからみ、なんらの具体的成果もなく九月に至り休会した。しかし、この間にあっても、部分的核停条約一周年記念(八月)に際し、米・英・ソ三国がそれぞれ声明を発し、同条約の意義を讃え、今後の核軍縮の努力を説いた。
しかるに、十月十六日フルシチョフ氏の辞任が発表された十時間後に、中共はその最初の原爆実験を行ない、その後直ちに周恩来書簡を日本を含む世界首脳に送り、部分的核停条約を激しく非難しつつ、核兵器全廃をめざし世界各国首脳会議を招集することを提唱した。この中共の提案に対し、米・英・ユーゴ・インドなどはこれを拒否し、他方ソ連初め共産圏諸国は支持したが、AA諸国の多くが同情的態度を示したことは注目された。中共による原爆実験は、今後核拡散傾向に影響を与える点で注視される。なお、一九六三年にひきつづき、六四年にも、米ソともに新年予算における軍事費削減を発表した(米三億ドル、ソ連五億ルーブル)。
中ソ関係は、いぜんとしてけわしい雰囲気に包まれ、圏内の動揺と各国共産党の自立化傾向はますます高まりつつある。
ソ連は、昨年四月三日いわゆるスースロフ報告を公表し、直接毛沢東を非難するとともに、中共に対し集団的措置をとる必要を強調した。また、プラウダ、コミュニストなどの言論機関を動員して中共攻撃をつづけ、中共の党生活の非合理性、三面紅旗政策の失敗をつき(四月二十八~九日プラウダ)、香港、マカオの例をあげて中共を麻薬商人と罵った(九月十三日プラウダ)。
中共はまた、アジア・アフリカ会議参加問題で、ソ連はアジアの国にあらずとしてその参加に反対し(四~五月)、ソ連党綱領の「全人民の党」問題をむし返し(七月十四日第九評)、毛沢東は佐々木社会党使節団長との会談の際、「ソ連は領土を取りすぎている。千島の日本への返還に賛成する」とのべ(七月十日)、ソ連はこの発言を「日本の右派の要望にそうもの」と反論した(九月二日プラウダ)。
四月十七日フルシチョフ誕生日に中共首脳が送った祝電のなかで、「一旦世界に重大事件が起これば、中ソはともに闘う」とうたったのに対し、ソ連は「悪質な反ソ運動をしながら、条約が有効だとみるのか」と反論した(六月二十一日プラウダ)。
さらにソ連は、五月一日メーデーに際し、中共代表団の訪ソを受諾しておきながら、直前にいたりその受入れを取り消し、中間地帯論(六三年一月中共が打ち出した、反米統一戦線のため、英、仏、日、独等の国も第二の中間地帯として共同戦列に加えよとの理論)に対し、「ソ連と闘うためには、どんなものとも手をつなぐ考えだ」と批評した(九月二日プラウダ)。
十月一日中共政権成立十五周年にあたり、ソ連はグリシン全ソ労組議長らを送り、圏内各党代表も北京に参集し、とくにルーマニアのマウレル首相は中共首脳と数次にわたり会談し、その活躍が目立った。
十月十六日ソ連は、フルシチョフ首相の失脚を発表し、ブレジネフ・コスイギン新指導部が成立したが、中共は新指導部の成立に際し、「前進の途上でのすべての進展を喜ぶ」との祝電を発し、十月革命記念日には周恩来を特派して、ソ連側と接触せしめたが、新指導部が対米、対ユーゴ政策などについて転換の意図なきことを知り、「フルシチョフなきフルシチョフ路線には反対」との見解を打ち出し(紅旗十一月論文)、アルバニアもこれに同調した。
ソ連新政権は、各指導者間の一種の相互牽制のもとに集団指導体制をとり、フルシチョフ施政のゆがみを手直しするため、内政面では、党機構の建て直しを行ない、とくに経済活動などの諸分野において、より一層の"科学的"合理性を導入することに積極的な態度を示した。一九六五年三月に行なわれた農業振興策も、とくに価格政策とコルホーズなどの経営の向上という角度から、その施策を展開しようとした点が特徴的であった。
対外政策においては、フルシチョフ時代に比べて、"民族解放闘争支援"を強調し、AA地域への影響力回復に努めると同時に、対米関係にも慎重な態度で臨み、党綱領路線と"平和共存"政策の堅持を強調している。
東欧各国は、ソ連の政変によって、その政治的圧力が一時後退した機会に一段と自立的傾向を強め、ソ連との間に実務的な関係を強化する一方、西側との政治的、経済的接触の拡大にも努めるに至った。ソ連新政権も、東欧各国それぞれの事情に即応したきめの細かい施策をすすめ、一九六五年一月には、ワルソー条約機構政治諮問委員会、コメコン総会を相次いで開催し、圏内の結束強化をはかった。もっとも、ルーマニアの強い反対によってコメコンの超国家的統合計画が挫折していらい、各国の長期経済計画を調整して、加盟各国間の協力を推進しようとしたコメコンの作業は必ずしも順調に進んでいない。
十二月九~十一日にソ連最高会議、十二月二十日~一月四日に中共の全国人民代表大会がそれぞれ開かれたが、国際関係における中ソの政策路線には別段の変化はみられなかった。
コスイギン首相一行は、一九六五年二月初旬北ヴィエトナムと北鮮を訪問し、途中北京で中共首脳との接触を行なった。一行のハノイ訪問中、在南ヴィエトナム米軍宿舎が爆破され、これに伴い米軍の十七度線越境爆撃が開始され、ヴィエトナム問題をめぐる国際情勢は緊張を示し、中ソを初め、各党の北ヴィエトナムおよびヴィエトコン支援、米国非難の風潮が高まった。ソ連は中共に対し、団結と反帝統一行動の必要を説き、ついには、「大げさな言葉でなく実際行動が必要」(一二月三十一日モスクワ放送)とのべ、中共も「ソ連の態度は、口先ばかりの見せかけで、米国との間に政治取引の陰謀をめぐらしている」(一二月二十三日人民日報)と攻撃した。
ソ連は、一九六四年初めいらい世界共産党会議開催の方針を積極的に推進し、各党への事前工作に努力していたが、七月三十日付書簡で、中共などを含む二十五党に対し、十二月十五日に「起草委員会」を開催したい旨の招請を行なった。これに対し、中共は八月三十日に拒絶の返簡を送り、会議開催の日は、"国際共産主義運動大分裂の日"となろうと警告した。
フルシチョフ失脚後新指導部内には、会議を開くべきや否やで論議があった模様であるが、予定日の三日前に至り「起草委員会の第一回会議を六五年三月一日に開く」と発表(十二月十二日)。次元の低い会議に性格を変えたが、開会直前(一九六五年二月二十八日)になり、さらに「協議会議」と名称を変更した。
会議は、中共派六党のほか、六四年四月いわゆる「権利宣言」を発表し、独自の道を歩みつつあったルーマニアの不参のもとに十九党の代表(多くは二~三流の党幹部)が参集して開かれた(三月一日~五日)。
三月十日共同コミュニケが発表され、将来適当な時期に世界党会議を開くこと、その準備のため八十一党の予備会議を開くこと、および公開論争の停止がうたわれたが、中共は同会議を全面的に否定する熊度をとり、一万年でも論争は続けるといい、ソ連が党綱領の誤りを公然認めよなどと全面降伏を求めるごとき論説を発表した(三月二十二日人民日報、紅旗共同論文)。
概して欧米諸党の多くはソ連を支持し、中共はアジア・アフリカ諸党にその影響力を強めつつあるが、中ソの多数派工作により各党内の分裂化傾向と"前線組織"における混乱は顕著となり、他方ルーマニア、イタリア、インドネシア各党の自主的動きも目立ってきている。
国連第一九回総会は、一九六四年十二月一日開会されたが、国連憲章第十九条適用問題が未解決のため投票を行ないえないという変則状態に終始し、一九六五年二月十八日の本会議終了をもって一応審議を打ち切り、九月一日まで長期休会に入ることとなった。
すなわち、憲章第十九条適用問題について、総会開会前および開会中、国連軍経費の分担方式および滞納問題を検討するための二一カ国委員会が審議を行なったが、米ソ間の根本的対立を解消する見通しが立たず、総会は一再ならず、表決による米ソの対決によってこの問題を解決すべきか否かの選択を迫られた。
しかしながら、総会においては、かかる対決から生じうべき結果を慮って、対決を回避し、話合いによって解決を計るべきであるとの考えが支配的であったため、緊急に必要な事項(国連貿易開発会議及び平和維持活動特別委員会の設置、安保理事会及び経済社会理事会の理事国選挙、予算措置等)を、通常の表決方式でなく、全会一致採択という方法で決定したのみで、その他の議題については審議は行なわれなかった。
今次総会においては、国連の平和維持機能に関する問題、中国代表権問題、軍縮問題、南アの人種差別問題、国連貿易開発会議等についての審議が期待されていたが、前記の如き事情により、これらの問題に関する実質的審議は行なわれず、総会が事実上流会となったことは、国連史上前例を見ない不幸な出来事であったといわねばならない。
しかしながら、憲章第十九条適用問題は、単なる財政的もしくは技術的問題、あるいは今次総会において突如として生じた一時的な問題ではなく、国連の平和維持活動に関する安保理事会と総会との権限争いの問題、ひいては、国連の平和維持活動について安保理事会において行使されるべき拒否権の効力を、総会の多数決による勧告決議によってある程度制限できるかどうかの問題と不可分の関係にある。このような、国連機構の根本的あり方そのものに関する問題は、国連成立いらい今日まで終始国連の直面してきた最重要問題であったが、第一九回総会においては、憲章第十九条適用問題の発生によって、この問題に対する大国間の意見の相違が単なる相違にとどまらず、この問題をいずれかに決着せざるをえない客観状態に立ち至ったわけである。
この問題は、総会における投票によっていずれかに決定することが最も簡明であるが、対立する意見の各々を代表する米ソ両国とも、表決に敗れて相手側の立場が採択されるならば、その国連に対する基本的態度を再検討せざるを、えないとの態度を示していたため、結局総会の大勢は、総会の変則状態は遺憾ではあるが、表決による米ソの対決を差し控え、話合いによってこの問題の解決をはかるべきであるとの考えに従った。この結果、平和維持活動に関する三三カ国(わが国を含む)特別委員会が設けられ、同委員会は、六月十五日を一応の目標として本問題の審議を行なうことになっている。
国連総会が第十九条適用問題をめぐって紛糾している最中に、インドネシアは、マレイシアの安保理事会理事国への選出反対を理由に、突如として国連よりの脱退を通告した。同国の脱退は、国連成立後の二十年間における最初の脱退の事例であり、また、総会が前記の如き変則状態にあったことと相まって、国連の一つの危機として世界的関心を集めた。中共はいち早くインドネシアの脱退を支持するとともに、国連の徹底的改善を主張するとの見解を発表したが、さらに二月四日ドゴール仏大統領は、国連創設時の諸原則から逸脱した国連をその出発点に戻す必要があり、このため中共を含めた五大国会議を開くよう提案するなど、にわかに国連のあり方に関する関心が随所において表明されるに至った。
しかしながら、これらの提案においては、国連の改善ないし改組に関する具体的提案はなされてはおらず、むしろ、国連の現状もしくは国連における現在の勢力関係に対する不満が表明されているものと見られ、したがって当面、国連の基本的あり方や機構の再検討の問題が具体的に取り上げられる可能性は余り大ではなく、むしろ、具体的解決を迫られている国連の平和維持活動問題の再検討を前記の特別委員会を中心として行なうことが、今年度の国連に課せられた最大の課題であるとみられる。
経済問題審議の基調は従来同様、低開発国の経済開発、対低開発国援助拡充など、低開発国問題であった。すなわち、第三四回経済社会理事会の決定により(前号参照)、国連および専門機関等の加盟国一二一カ国が参加して六四年三月より三カ月にわたり国連貿易開発会議が開催されたことは、南北問題の解決への国際社会の真摯な努力のあらわれとして高く評価されるべきである。
この国連貿易開発会議においては、一次産品、製品、半製品、援助、機構および貿易原則などの問題が審議され、これら諸問題について約六〇の決議が採択された。これら決議の実施に関する諸問題は、後述の国連貿易開発会議および貿易開発理事会ならびに国際社会に課された大きな課題の一つである。
一九六四年末の国連総会において決議一九九五が採択された結果、国連貿易開発会議の定期的開催および貿易開発理事会ならびにその下部委員会の設置などが決定された。今後はこれら機構を通じて低開発国の経済(貿易及び開発)問題が審議、検討されてゆく予定である。
インドシナ関係
米国は一九六四年六月、国防、国務両長官および統合参謀本部議長など米国首脳を網羅する大規模なホノルル会議を開いて東南アジア情勢を検討し、同月下旬には統合参謀本部議長テーラー大将をヴィエトナム駐在大使に任命した。既に同年三月頃よりしきりにヴィエトナム北進論が叫ばれ出したところ、八月に至り、北越沖合を航行中の米駆逐艦に対し北越魚雷艇が攻撃をしかけ、米国は第七艦隊艦載機をもって北越魚雷艇基地などを報復爆撃した。この危機感に乗じてカーン首相は大統領に就任したが、仏教徒、学生の反ぱつにあい、旬日にして大統領を辞任し、革命軍事評議会はニカ月以内の民政復帰を約して解散し、暫定最高機関として軍首脳からなる三人委員会が設けられた。
その後九月にゴー・ディン・ジエム派分子によるクーデターが試みられたが失敗し、十月に至り一年ぶりで民政が復活し、十一月フォン内閣が成立した。このフォン民政内閣も仏教徒、学生の反対にあい、情勢が混乱したため、軍部は十二月、再び実力行使を行なって民政移管の直前に設置された立法機関である国家評議会を解散した。しかし、仏教徒、学生はフォン内閣は仏教徒弾圧政策をとっているとして、なおもフォン内閣打倒を叫びつづけたため、翌一九六五年一月軍部はフォン首相を退陣せしめ、再び国政の実権を掌握した。
二月コスイギン・ソ連首相のハノイ訪問中、ヴィエトコンはプレイクの米軍基地およびキニョンの米軍宿舎を攻撃し大きな損害を与えた。この事件を契機として、米国と南ヴィエトナムは北越爆撃を開始し、以後ニカ月足らずの間に、北越をしてヴィエトコン支援を停止せしめる圧力手段として、ほぼ北緯一九度線以南の北越の軍事施設、軍港、レーダー基地などを十数回にわたって爆撃した。このため戦争拡大の危惧がもたれ、紛争を交渉によって平和解決すべしとするフランス、ウ・タン国連事務総長、インド、ユーゴースラヴィアなどの動きが活発となったが、未だに紛争当事国を説得する力をもつに至っておらず、米国は北越のヴィエトコン援助停止、他方、北越、ヴィエトコン、中共は米軍の撤退と南越民族自決を主張して対峙しており、三月下旬ヴィエトコンはサイゴンの米大使館を爆破する挙に出た。
この間二月、クワット内閣、国家立法評議会が成立したが、去る九月の失敗クーデターの蒸し返しといわれるタオ大佐のグエン・カーン反対クーデターが発生した。このクーデターも失敗に終ったが、結局カーン将軍も失脚し、国外に去った。
米国は、北越爆撃開始と同時に、婦女子を本国に引揚げさせる一方、初めての米軍地上部隊としてミサイル部隊一個大隊、次いで三月に海兵隊二個大隊を南ヴィエトナムに派兵した。これによって、米軍の数は二七、○○○人となった。一方、韓国も三月、二、○○○人の部隊を派遣した。
ラオスにおいては、右派のヴィエンチャン地区司令官アバイ将軍と国警長官シーホー将軍の率いる国軍革命委員会は、一九六四年四月、クーデターを起こし、一時はプーマ政権打倒に成功したかにみえた。しかしプーマの中立・連合政府の消滅(すなわち一九六二年のジュネーヴ協定の崩壊)を危惧する内外の圧力に押され、右派は結局内閣改造に干渉する権利を認められた程度で、プーマ政府は維持された。パテト・ラオはこのクーデターを否認したが、プーマ首相は閣僚の入替え、右派・中立派軍の統合を強行したため、パテト・ラオ軍は五月中旬ジャール平原で急激な軍事行動を起こし、旬日にして中立派軍を同方面から一掃した。プーマ首相は米国に対し、パテト・ラオ地区の偵察飛行を要請する一方、一九六二年ラオス中立宣言第四条に基づいて、関係各国がヴィエンチャンで事態収捨のため協議することを要請した。このほか、ポーランドは、英、ソ連、カナダ、ポーランド、インドおよびラオス三派代表による協議を、中共、ソ連、およびフランスは、一四国がジュネーヴで、またカンボディアは一四国がプノンペンで会議することをそれぞれ提案したが、いずれも実現しなかった。結局米、英、タイ、南ヴィエトナム、インド、カナダ六国が参加して、六月にヴィエンチャンで協議が行なわれた。この結果、即時停戦とパテト・ラオが二月の地点まで撤退するよう呼びかけるプーマ政府支持のアピールが採決された。それ以後大規模な内戦は発生しなかったが、パテト・ラオ首脳はいぜんとして奥地に留まって、事実上プーマ連合政府から脱落しており、またプーマ首相は独自に米国に対しパテト・ラオ地区の偵察飛行を要請、また内閣改造を強行するなど右傾化の方向をたどってパテト・ラオとの距離を広げ、連合政府という名分は益々有名無実化した。この連合政府の建て直しのため、八月から九月にかけて、パリで三派首脳会談が開かれたが、会談の議題を停戦、ラオス一四国会議の再開、連合政府の内部調整問題とすることを決めたのみで、会談は十月に再開されるはずであったが、実現しなかった。
一九六五年一月末、ノサヴアン副首相、シーホー国警長官一派は、軍規粛正、前線将兵留守家族の生活保証要求を名分とするクーデターを起こしたが失敗し、両名はタイに亡命した。これはいわば右派内部の勢力争いであったが、右派の巨頭ノサヴァン将軍が脱落したので、かえってプーマ首相の地位は相対的に安定したといわれる。
カンボディアはかねてより、カンボディアの中立、領土保全のためのジュネーヴ一四国会議開催を要求していたが、一九六四年二月に至り、右一四国会議を分割し、三月にプノンペンで米、タイ、ヴィエトナム(南)、カンボディアの四国会談を開催することを提案した。これに対し、ヴィエトナムは賛成したが、米国は関係国による国境画定委員会の設置を反対提案したため、カンボディアは、これではカンボディアに国境がないというにひとしいとして憤激し、三月、米大使館、USIS図書館、ジュネーヴ会議共同議長国として国際会議開催に消極的であった英国の大使館およびブリティシュ・カウンシル図書館に対してデモ隊が襲撃した。同じく三月、カンボディアは右四国会談に先立って、国境問題討議のためのヴィエトナムとの二国会談開催を提案し、ヴィエトナムはこれを受諾、代表団をプノンペンに派遣したが、たまたまこの時、ヴィエトナム空軍によるカンボディア領チャントレア村誤爆事件が発生したので、会談は流れた。その後一九六四年五月にも同様の国境事件が発生し、カンボディアは国連安保理事会に問題を提訴した。安保理事会は六月に、モロッコ、象牙海岸、ブラジルからなる現地調査団を派遣した。同調査団は七月帰国し、カンボディア、ヴィエトナム両国の政治関係の再開のため国連から調停者を派遣することなどを内容とする勧告案を提出したが、カンボディアは、調査団はヴィエトナムの主張をより多くとり入れたとして、右勧告案をボイコットした。六四年十月再び国境事件が頻発したところ、カンボディアは、米軍顧問の従軍しているヴィエトナム軍を米・ヴィエトナム連合軍と考えているため、カンボディアと米国の関係は悪化し、同十月下旬シハヌーク元首は、再度侵略をうければ米国と断交し、北越および南越解放戦線(ヴィエトコン)を承認する旨発言するに至った。米国は両国関係改善のための会談を提案し、カンボディアはこれを受諾、六四年十二月ニュ-デリーで両国会談が行なわれたが、話し合いは物別れに終った。これに先立つ十月、シハヌーク元首が中共を訪問した際、ヴィエトナムとの国境問題について、南越民族解放戦線(ヴィエトコン)および北越と話し合い原則的了解に達していたところ、カンボディアは、米国の右会談申し入れと同時に、ヴィエトナム・カンボディア国境問題に関する北越、カンボディア、ヴィエトコンの三者大使級会談を北京で開催することを提案した。この会談は右ニューデリー会談と同時に北京で行なわれたが、結果については報道されていない。
一九六四年十一月カンボディアは、インドシナ各国民の声を世界にきかせ、インドシナ紛争の平和的解決をはかるためとして、カンボディアの民社同盟の主催で、南北両ヴィエトナム、ラオスの全政党すべての愛国運動団体が参加するインドシナ人民会議の開催を提案した。二月、プノンペンでこの人民会議の準備会議が開かれ、次いで三月、南越民族解放戦線、パテト・ラオ、ヴィエトナム祖国戦線、在仏ヴィエトナム人団体など南ヴィエトナムおよびラオス政府に反対している計三八の団体の参加のもとに、本会議が開かれた。カンボディアとしては、会議の結果中立路線が打出されることを期待していたが、中共からの強い働きかけもあり、ヴィエトナムについては米軍の撤退、北越に対する挑発侵略行為の停止、南越民族の自決を決議するなど、会議は結局中共路線をたどった。
一九六四年十二月、崔庸健朝鮮人民共和国元首の来訪を機会に、カンボディアは、中共の場合を除き、分裂国家についてはそのいずれをも承認しないとの従来の方針から踏み出し、同国との外交関係の樹立、大使交換を決定した。
なお、カンボディアは、既定方針通り、一九六四年七月から貿易の国営化を実施した。
マレイシア紛争
一九六三年九月十六日、マラヤ連邦にシンガポール、英領北ボルネオおよびサラワクを加えてマレイシアが成立したが、このマレイシアの成立をめぐって同年九月十七日インドネシアおよびフィリピンとマレイシアとの外交関係が断絶され、なかんずくインドネシアとマレイシアの対立は決定的なものとなった。とくに、一九六三年十月末から翌一九六四年初頭にかけて、サバ・サラワクの両州国境におけるインドネシアのゲリラ活動が頻発するにおよんで、事態は軍事的対決の様相を帯びるに至った。
わが国はじめ米国、タイなどの諸国は、三国間の関係の悪化、なかんずくインドネシアとマレイシアの対立が東南アジアの平和と安定に与える影響を深く憂慮し、この問題を話し合いによって早期に解決するための努力をつづけた。
一九六四年に入り、池田総理の努力あるいは米国のケネディ司法長官の調停工作により、一月二十三日にインドネシア・ゲリラの停戦が実施されるに至った。これを足がかりとして、同年二月初旬と三月初旬二回にわたり関係三国閣僚会議がバンコックにおいて開催され、さらにフィリピンの努力によって、同年六月東京で三国閣僚および首脳会談が実現した。
これら関係諸国間の会談では、インドネシア・ゲリラの撤収時期の問題を含む諸問題が論ぜられたが、ゲリラ撤退の時期については、インドネシア、マレイシア間の意見の対立は根深く一致を見るに至らず、わずかに三国間に在する問題点を研究し、その解決のための勧告を行なうアジア・アフリカ四国調停委員会を設置することに三国が原則的に同意するにとどまった。
かくて東京会談は、期待されながらも見るべき成果もあげ得ずに終ったが、同年八月下旬頃からインドネシア・ゲリラはマラヤ半島東南部にまで浸透し始めるに至った。マレイシアはこれを国連安全保障理事会に提訴したが、ソ連の拒否権により具体的成果は得られなかった。さらに一九六五年一月に至り、マレイシアが安全保障理事会の非常任理事国に就任するや、インドネシアが国連から脱退するに至り、ここにインドネシア、マレイシア両国間の緊張は一層高まった。なお、東京会談でその設置につき原則的に合意をみた調停委員会も未だ設置されていない。
その後、六五年二月下旬タイのタナット外相のあっせんによりインドネシア、マレイシア間の話し合いの気運がととのえられるやにみえたが、これも実現をみなかった。
マレイシアは英国はじめ英連邦諸国の固い支持を受けているが、マレイシアを英国の"新植民地主義"の象徴とみるインドネシアの英国に対する反感は極めて根強いものがあるので、問題の全面的解決までには、今後なを曲折を重ねるものと思われる。
東南アジアの平和をねがうわが国としては、本件紛争が発生していらい、池田総理のインドネシア、フィリピン、大洋州諸国訪問(一九六三年九月)をはじめ、しばしば本件紛争は三国間の話し合いによって解決されるべき旨を勧奨し、平和的解決のため側面的に協力をしてきたが、今後もさらに本件紛争の早期解決に努力する所存である。
インドネシア関係
一九六四年十二月マレイシアの安保理事国選出の動きが明らかとなるや、スカルノ大統領はマレイシアが安保理事国になれば国連を脱退する旨宣言して世界を驚かせた。国連事務総長やわが国をはじめとする諸国は慰留に努めたが、六五年一月七日スカルノ大統領はインドネシアが国連およびユネスコ、ユニセフ、FAOなどから脱退したことを宣言した。インドネシアは一月二十一日付国連事務総長あて書簡で、一月一日をもって国連から脱退した旨正式に通告した。
インドネシアの国連脱退は、インドネシアが粉砕を呼号しているマレイシアが安保理事国に選出されたことを直接の契機としているが、インドネシア政府は国連を国際社会の現状に適応せしめるためその改組が必要となっており、これを全加盟国に知らせるため脱退を行なったと説明した。脱退後のインドネシアの動向が注目されていたところ、一九六五年一月末にインドネシアはスバンドリオ外相を中共に派遣、帝国主義、植民地主義反対の共同闘争を語うとともに、中共の経済援助をとりつけ、中共への一層の接近を示すに至った。
マレイシア紛争発生いらい、インドネシアでは英国大使館の焼打ち、労組による英国企業の接収、政府による英国企業の管理措置が行なわれたが、スカルノ大統領は六四年十一月英国企業の接収に関する大統領令を発出して、同年一月二十一日に遡って右接収を法制化する措置をとった。また、インドネシアの反米運動は六四年七月のジョンソン・ラーマン共同声明、同年八月のトンキン湾事件等に反発して次第に激化し、各地の米国情報文化センター、米領事館襲撃があい次ぎ、六五年三月四日ついに米国情報文化センターは全面的に閉鎖された。また、六五年三月二十六日インドネシア政府は同国にある米国の農園全部と外国石油会社を暫定的に政府の管理監督下に置くことを決定した。インドネシアは一九六一年いらい第二回AA会議開催を提唱して諸国に働きかけを行ない、一九六四年四月十日から十五日までジャカルタで第二回AA準備会議開催に成功した。この結果一九六五年に第二回AA会議を開催することが決められたが、インドネシアはさらに一九六五年四月ジャカルタでAA諸国の参加を得て第一回AA会議十周年記念式典を開催し、第二回AA会議の事前の布石を行なった。
一九六四年三月二十四日にソウルで、日韓会談即時中止などをスローガンとした学生デモが発生した。その後それは各地方にも波及し、四年前の四月革命いらい初めての大規模な学生デモが繰り広げられた。このため、三月十日から東京で開かれていた日韓農相会談は、四月六日休会に入り、日韓会談全体も事実上中断状態に陥った。
学生デモは、韓国政府当局がデモに対して穏和な態度で臨んだこともあって、一時は平静に復したかにみえたが、「学生革命」の記念日である四月十九日前後から数日間にわたって、再びソウル市内各大学生により連日デモが行なわれた。これに対し政府は方針を改めてデモに対し強硬な態度で臨むとともに、学生に日韓会談について積極的なPRを行なってその収拾に努めた。
五月九日に崔斗善内閣にかわって、丁一権内閣が成立した。丁総理、張基栄副総理とも、日韓国交正常化を積極的に推進するとの方針を明らかにした。
五月二十日にソウルでまたまた学生デモが発生し、次第に朴政権の打倒を標榜するものに変ぼうしていった。ことに、六月三日のソウルのデモは、参加学生一万をこえ、これに市民の一部も参加してソウルの中心部をうずめ、警察側のバリケ-ドを次々に突破して中央庁に乱入した。市内の警察派出所は学生や市民に占拠され、大統領官邸に向う学生は、軍隊により辛ろじて阻止されるという状態であった。その夜八時非常戒厳令がソウルに公布された。政府与党と野党の間には、戒厳令解除をめぐって種々意見の対立はあったが、結局七月二十九日に非常戒厳令解除案が与野党共同で国会に提出されて可決をみ、五十六日ぶりに戒厳令が解除された。
つづいて民主共和党は、野党の反対をおしきり、言論および学生の政治運動の規制を内容とする「言論倫理委員会法」と「学園保護法」を国会に提出し、その強行通過を計り、「言論倫理委員会法」のみ八月二日可決をみた。その結果、政府与党と野党、言論界の間に激しい対立が生じたが、九月十日政府が「言論倫理委員会法」の施行を無期延期したことによって、事態は収拾され、韓国の政情はようやく安定を取り戻した。
戒厳令公布、言論倫理委員会法成立を契機として、野党の統合が推進され、九月十七日民主党と国民の党が合党して党名を民主党とし、十一月二十五日には民政党と自由民主党が合党して党名を民政党とした。これにより野党は四党から二党に統合された。
朴大統領は、十二月七日から十四日までドイツを訪問し、ドイツ政府首脳部と数次にわたり、国際情勢、経済協力問題、統一問題について意見を交換した。発表された共同コミュニケにおいて、ドイツは韓国の経済協力三カ年計画を援助し、資源調査のためドイツ技術者を派遣することに同意し、両国の関心事を討議する共同委員会を設置することに合意した旨述べられている。このほか、経済援助協定(一、三五〇万ドルの財政援助。なお、別途二、六二五万ドルの民間信用供与も約束されている)、韓独通商協定がそれぞれ調印され、韓独海運協定の仮調印が行なわれた。
韓国政府は一九六四年九月末に、南ヴィエトナムに移動軍事医療団を派遣したが、さらに一九六五年一月二十六日国会の承認を得て、南ヴィエトナム政府の要請による韓国軍非戦闘支援部隊約二、○○○名の派遣を決定し、二月下旬に第一陣として五〇〇名、三月中旬に第二陣として一、四〇〇名からなる部隊をヴィエトナムに派遣した。
この間、韓国政情が安定を取り戻したことを背景にして、一九六四年十二月三日から東京において第七次日韓全面会談が開かれた。十二月十一日には、日本より韓国の経済困難克復のため二、○○○万ドルの対韓民間信用供与を行なうことが日韓間で交換公文により取極められた。
一九六五年二月十七日から二十日まで椎名外務大臣は李東元外務部長官の招請を受けて韓国を公式訪問し、この間三回にわたり外相会談が開かれた。その際の話合いの結果、日韓基本関係条約案にイニシャルが行なわれた。椎名外務大臣の着韓声明と共同コミュニケのなかで、「両国間の長い歴史の中に不幸な期間のあったことは遺憾であり深く反省する」と表明したことは、韓国の各新聞に大きくとりあげられ一般に好感をもたれた。
三月二日車均稽農林部長官が訪日し、赤城農林大臣との間に数多くの会談が開かれた。さらに三月二十三日李東元外務部長官は訪米の帰途、日本を公式に訪問し、数次にわたり外相会談が開かれた。その結果、三月二十七日に貿易会談に関する共同コミュニケが発表され、また四月三日には、在日韓国人の待遇、請求権および経済協力ならびに漁業に関する合意事項にイニシャルが行なわれた。このようにして、過去十数年来の懸案であった日韓交渉も、ここにその全面的妥結に向って大きく前進するに至った。
一方、野党側は、現政権による日韓会談の早期妥結に強い反対の態度をとり、椎名大臣訪韓中の二月十九日、日韓会談早期妥結反対講演会を強行しようとし、約二〇〇名の党員によりデモを行ない、また野党が主体となっている対日屈辱外交反対汎国民闘争委員会の名で、日韓基本条約案のイニシャルを非難する声明を出した。他方国会に対しては、日韓会談中止に関する決議案、訪日中の李外務部長官の召還決議案を提出し、また尹ボ善民政党総裁は、「日韓会談批准同意案が国会に提出されれば、民政党議員は総辞職する」と言明した。日韓会談に反対する学生も各地でデモを行なった。
(一) 中仏外交関係の樹立とその影響
一九六四年初頃よりフランスの対中共政策の変化について多くの報道、推測が行なわれてきたが、一月二十七日に至り、フランス、中共双方が外交関係の樹立についての発表を行なうや、これを契機として国際的にも、またわが国内においても、中国問題は従来に増して活発な論議の対象となるに至った。
政府は主として国会における質疑に対する総理、外務大臣の答弁を通じ、わが国の中国問題に対する基本的な考え方を、次のとおり明らかにしてきた。すなわちわが国の中国政策は、一方において中華民国との間に平和条約を締結し、これと外交関係を維持しているという事実と、他方において六億余の人口を有する中国大陸との間とも事実上各種の関係をもたざるを得ないという事実を前提としているものである。そして中華民国政府、中華人民共和国政府の双方が、いずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している状況にあっては、わが国としては中華民国との間に外交関係を維持しつつ、中国大陸との間に政経分離の原則の下に貿易を初めとする事実上の関係を維持して行くことが、最もわが国の利益を維持し得る政策であると考えられる。いずれにせよ中国をめぐる問題は、国連を中心として十分に審議され、世界世論の背景の下に公正な解決をはかるべきものと考えている、というものである。
(二) 日華関係の推移
他方わが国と中華民国との関係は、一九六三年末に発生したいわゆる周鴻慶事件をめぐって悪化していたが、六四年二月二十三日行なわれた吉田元総理の訪台、三月の毛利外務政務次官の訪台をへて、六月には新たに任命された魏道明大使が着任し、ついで七月初め大平外務大臣が訪台し、同国政府要人との間に会談を行なうなど両国関係は好転し、八月には張羣総統府秘書長の来日をみるに至った。その後十月オリンピック東京大会のため来日した中華民国選手等の中共への帰国希望表明などのこともあったが、その実施は平穏に行なわれ、年末からは両国間に中華民国の経済開発計画の促進を目的とする経済協力問題が話し合われ、六五年四月一億五千万ドルにのぼる借款協定が成立した。
(三) 日中共核実験に対するわが国の態度
中共の核開発については、従来より推測、報道が行なわれてきたが、一九六四年九月二十九日ラスク米国務長官は中共の核実験がきわめて近い将来行なわれる証左があるとの発表を行ない、その後十日余りをへた十月十六日、中共は新疆省の砂漠地帯において同日第一回の実験に成功した旨を発表した。
政府は翌十月十七日官房長官談話を発表し、世界に緊張緩和と核拡散防止の機運が高まり、とくに部分的核実験禁止条約がまだ完全に満足すべきものではないとしても、とにかく世界平和への大きな前進であると認められている現在、かかる実験の行なわれたことを遺憾とし、とくに隣接するわが国として大気の汚染による被害の可能性を指摘しつつ、いずれの国によるとを問わずすべての核実験に反対してきた従来よりのわが国の方針に従い、厳重な抗議の意を表明した。また同談話においては、単なる核実験の実施と核兵器の保有とは全く別個の問題であり、今回の中共の実験に過大な軍事的意義を付することは誤りである旨指摘されているが、この点は中共の核実験に対する国際的な反響においてもひとしく認識されている如くである。
(四) 日中間交流の進展と中共の対日非難の激化
一九六四年を通じて日中貿易は増加を続け、年間往復三億一千万ドル余と大幅に伸長したが、これと並行して八月には、中共側の貿易連絡員が来日し、さらに九月末双方の新聞記者交換が実現するなど日中間の交流は大幅に進展した。
しかしながら、その後上記の如き中共の核実験に対する抗議の表明に引きつづき、十一月には日本共産党大会出席のため本邦入国を申請した彭真北京市長一行に対し、従来の例どおり入国を拒否するや、中共側は上記二件その他国連におけるわが国の立場などをとらえて強い対日非難を行なうに至った。しかしながら、政府としては中共側の非難する如き「敵視政策」をとっている事実は全くなく、従来どおり政経分離の原則の下に、中共との間の交流を進めて行きたい旨明らかにしている。
米国においては、一九六四年十一月に大統領選挙が行なわれ、民主党のジョンソン候補が、空前の圧倒的多数をもって勝利をおさめた。これは、ジョンソン大統領が六三年十一月故ケネディ大統領のあとを襲って大統領に就任していらい、外交内政両面においていわゆるケネディ路線を踏襲しつつ、「偉大な社会」建設というヴィジョンを掲げ、たくみな議会工作をもって公民権法案の成立その他多くの実質的成果をあげていたこと、および対立候補の共和党ゴールド・ウォーター上院議員が、その超保守主義的主張によって、国民に警戒心を生ぜしめたことなどによるものと思われる。
わが国においても、六四年十月に佐藤内閣が成立した。佐藤総理は、なるべく早い時期に新任期を迎えるジョンソン大統領と会談し、日米間の意見調整を行なうことを希望していたが、六五年一月訪米の運びとなり、ジョンソン大統領との二度の会談のほか、米国政府首脳と会談した。会談後発表された共同コミュニケにもみられるとおり、この会談ではアジア情勢を中心とする世界情勢一般、両国間の懸案事項などについて率直な見解の交換が行なわれ、相互理解の促進に資するところ大であった。
日本と米国は、自由と正義に基づく世界平和を建設するという目的を一にしている。両国間の関係は、戦後日本の復興および国際社会への復帰に対する米国の援助の時代から、新しい国際秩序の確立と世界の福祉の増大のために、両国が責任を分ち合いつつ、ともに積極的な貢献を行なうという新しい時代に入っている。このことは、前記の佐藤総理と米国首脳との会談において、協議の重点が世界情勢一般についての意見の交換に置かれたことからもうかがわれよう。
日米間の多方面にわたる相互協力関係の基幹をなす防衛協力体制は、一九六四年においても、ますます緊密の度を加えた。
一九六三年初めに米側より申し入れのあった原子力潜水艦の寄港問題について、政府はその安全性に確信を得るに至ったので、六四年八月寄港を承認した。これに基づき、同年十一月その第一艦が、また六五年二月第二艦が、いずれも佐世保に入港した。
日米安全保障条約に基づく日米安全保障協議委員会が六四年八月に開催され、日本および極東の安全に関連のある国際情勢ならびにわが国防衛上の諸問題に関して意見が交換された。
また、六四年十二月には、いわゆるバッジ組織の設置に関する公文が交換され、わが国の防空能力を向上するため、自動防空警戒管制組織の設置に当り、米側の協力が得られることとなった。
安全保障以外の分野における日米間の常設協議機関としては、日米貿易経済合同委員会、科学協力に関する日米委員会および日米教育文化会議が存在している。これらはいずれも一九六一年の池田・ケネディ会談の結果設置されたものであるが、日米貿易経済合同委員会はその第三回会合を六四年一月に、科学協力に関する日米委員会はその第四回会合を同じく六月に、それぞれ開催した。
なお、佐藤総理訪米の際の総理とジョンソン大統領との会談の結果、アジアに蔓延している疾病について日米の指導的医学者が共同して研究計画を実施することが合意され、このための常設協議機関として日米医学協力委員会を設置することが予定されている。
このように、両国間の関係はきわめて密接なものがあるが、もちろん両国間に解決を要する懸案が存在しないわけではない。たとえば、現行の日米航空協定および北太平洋漁業条約の改訂交渉が、目下継続中である。これらは、それぞれの国内事情もあり、困難な問題ではあるが、先般の訪米の際、佐藤総理よりわが方の立場を率直に表明し、米国首脳部の理解を深めることができたと考えられるので、今後双方が満足しうる解決に至ることが期待される。なお、佐藤総理訪米の結果、沖繩に関する日米協議委員会の機能拡大、小笠原旧島民の墓参の実現等の成果も見られた。
経済貿易面における日米両国の相互依存関係はきわめて深く、日本にとって対米貿易は全貿易額の三〇パーセントを占め、また、米国にとって日本はカナダに次ぐ第二の顧客であり、とくに農産物については最大の買手である。このような密接な経済貿易関係が、一面において、両国間の利害の不一致をしばしば生ぜしめることは、むしろ当然であり、両国政府間の問題として取り上げられる経済関係案件は、少なくないが、政府は、両国間の緊密な協力関係を傷つけることなく、両国の経済的利害の調整を計るべく努力をつづけている。その結果、今日まで両国間の経済貿易関係は、ほぼ順調に拡大、強化の道をたどっており、わが国経済発展の健全な要素の一つとしての役割を果しつつある。
西欧では、東西関係の分野ではさしたる変化もなく、むしろ各国の国内政治および西欧諸国相互の関係の調整が主な問題として取り上げられた。
すなわち、英国では一九六四年十月に十三年ぶりに労働党政権が樹立され、ドイツでは六五年秋に総選挙を控えて与党・キリスト教民主同盟と野党・社会民主党との間に激しい勢力争いが展開され、イタリアではセニ大統領が病のため辞職した後、二一回にもおよぶ投票でついにサラガット外相が新大統領に選出されるなど、これら諸国では国内問題に忙殺されるところが多かった。この間、米国と欧州諸国との関係を特にNATO(北大西洋条約機構)の枠内において調整する努力がつづけられるとともに、EEC(欧州経済共同体)の結束強化についても地道な努力がつづけられた。
まず、米国と欧州のNATO諸国との関係については、一九六二年十二月のナッソーにおける米英首脳会談いらい米国が推進してきたNATO多角的核戦力(MLF)建設案は、米国、ドイツが中心となってパリおよびワシントンにおける入国委員会で実施計画がねられ、六四年秋頃には年内にも実現可能かと取沙汰されていた。しかるに、十一月に入ると、フランスがMLF反対の強い態度を明らかにした。他方英国はMLFにおけるドイツの発言権が余りに大きなものとなることを嫌って、独自の大西洋核戦力(ANF)構想をあきらかにした。このような動きもあって、現在のところ、NATO諸国内の意見調整は、一応将来に持越された形になっている。
一方、欧州統合の面では、六四年に入ってからドイツが熱心に欧州政治統合問題をとりあげ、九月にはベルギーのスパーク案、十一月にはドイツの経済統合計画をも含めた包括的な欧州統合案、十二月にはイタリアのいわゆるサラガット案など、種々の統合案が発表された。また、このような各種案の発表とともに、英国を参加せしめることを強く主張していたオランダも、これは必ずしも絶対的条件ではないとの態度をみせるに至るなど、久しく停滞していた欧州政治統合への歩みを再び軌道に乗せようとする動きがみられた。
また、経済統合の面では、十二月十五日のEEC閣僚理事会において、ドイツの譲歩によりEEC最大の難問であった共通穀物価格についての合意が達成され、さらに六五年三月二日のEEC閣僚理事会では、二年越の懸案であった、EEC、ECSC(欧州石炭、鉄鋼共同体)、EURATOM(欧州原子力共同体)の三共同体執行機関の合併についての合意が成り、六六年一月一日から実施されることになった。これら二つの難問が克服されたことは、今後欧州政治統合を促進する上にもプラスとなろう。
英国とEEC諸国との間においては、西欧連合の閣僚理事会の枠内で接触が続けられており(最近では、本年三月九、十日ローマにおいて開かれた)、欧州問題をも含めて、国際政治上の諸問題について意見の交換が行なわれているが、一九六五年に入ってから英国労働党政府が欧州統合への参加に、従来よりも稍々積極的な姿勢をとっていることが注目される。
なお、独仏間においては、一九六二年一月十二日に署名された独仏協力条約に基づいて頻繁に接触が行なわれてきたが、六四年夏頃からMLF、EEC穀物価格等の問題をめぐって、独仏関係は、冷却化するに至った。しかし、十二月のEEC閣僚理事会において、ドイツの譲歩により共通穀物価格に関する合意が達成されたため、上述のMLF構想の行詰りとも相まって、独仏関係は、再び緊密化の方向に向いつつある。
一方、日本と西欧諸国との関係は、一九六二年に大平外務大臣と池田総理が相ついで西欧諸国を訪問したのをきっかけとして、時とともに緊密なものとなってきている。すなわち、通商面では英国(一九六三年四月)、フランス(六四年一月)、ベネルックス諸国(ともに六四年十月)が次々と対日ガット三十五条の援用を撤回し、今後の対西欧貿易拡大の道が開かれることになった。
また、一九六三年にはOECD(経済協力開発機構)加盟のための話し合いがまとまり、六四年四月二十八日にわが国は、この機構に加盟した。
さらに一九六三年より、日英、日仏、日独間に定期的な協議が始められた。六四年四月には、ポンピドウ首相、クーブ・ド・ミュルヴィル外相が来日して第二回日仏定期協議が行なわれ、同五月にはバトラー外相が来日して第二回日英定期協議が行なわれた。また、六五年一月には、椎名外務大臣が国連からの帰途ロンドンに赴き、第三回日英定期協議が行なわれた。これらの定期協議は、国際情勢全般および二国間の関係に関する重要な問題について、相互の理解を深め、これらの諸国ひいては西欧とわが国との関係を十分に緊密なものとすることを目的とするものである。
中近東においては、一九六四年中に二回のアラブ諸国首脳会議が開催され、相互に対立していたアラブ諸国間に和解の空気が生じ、他方、過去数年来一応落ついていたアラブ・イスラエル関係は、ウルブリヒト東独国会議長のアラブ連合訪問を契機とするドイツのイスラエル承認の問題もあり、再び緊張してきている。また、六四年は共産圏諸国の中近東諸国に対する働きかけが活発化した年であり、第二回非同盟諸国首脳会議には、全アラブ諸国が参加し、非同盟主義の立場に立つ旨を確認した。
さらに、六四年十月のスーダンにおける軍事政権の顛覆とその後の国内情勢の動揺は中近東における少数民族問題の一つとしてその帰趨が注目きれている。
一、一九六四年一月及び九月の二回にわたり、カイロにおいて、アラブ諸国首脳会議が開催されたが、アラブ諸国は相互の間の確執をやめ、これらの諸国が共通の敵としているイスラエルとの問題、とくにジョルダン河水利問題について協力して当るとの合意が成立した。この結果、アラブ諸国間に一般的和解の空気が生じ、とくにイエメン紛争を契機として激しく対立してきたアラブ連合とサウディ・アラビアとの間にも妥協が行なわれ、一九六四年十一月、過去二年間内戦をつづけてきたイエメン共和、王党両派間に停戦協定が成立することとなった。
これと相前後して、アラブ連合においては、一九六四年秋頃より、ドイツのイスラエルに対する武器援助が問題とされていたが、一九六五年一月、突然、ナセル大統領がウルブリヒト東独国会議長をアラブ連合に招待したと発表されたため、この訪問が東独承認の前提となるのではないかと警戒したドイツとの関係が緊張した。ドイツは、直ちに、対イスラエル武器輸出禁止を声明するとともに「ウ」議長招待の中止を要請したが、結局同議長は、同年二月二十四日より三月二日までアラブ連合を訪問し、ほぼ元首並の接遇を受けた。アラブ連合は、同議長の訪問が東独承認を意味するものではない旨明らかにしていたが、ドイツはその態度を硬化し、アラブ連合に対する経済援助の停止とイスラエルとの外交関係樹立決定を発表した。これに対しナセル大統領は、ドイツの決定は全アラブ諸国に対する敵対行為であるとして、アラブ各国の対独報復を呼びかけたが、三月十四日開催されたアラブ諸国外相会議においては、ドイツがイスラエルとの外交関係を樹立した場合はドイツとの外交関係を断絶し、また場合によってはドイツとの経済関係断絶をも考慮するとの決定が行なわれた。こらして、ドイツとアラブ諸国との関係は、イスラエル問題をめぐって、きわめて悪化している。
他方、ドイツよりの武器援助を停止されたイスラエルは、アラブ諸国との武力の均衡が悪化するのではないかとの不満を持つとともに、アラブ首脳会議以後アラブ諸国が一致してイスラエルのジョルダン河水利計画を妨害しようとしていることに不安を持ち、過去数年来久しく落ちついていたアラブ・イスラエル関係も緊張して来ている。
二、一九六四年は、共産圏諸国、とくにソ連及び中共の中近東諸国に対する働きかけが活発化した年でもあった。ソ連は、アラブ諸国との友好関係促進のため、同年五月フルシチョフ首相のアラブ連合訪問、同年十二月シェレーピン副首相のアラブ連合訪問、あるいは、同年五月ベンベラ・アルジェリア大統領の招待等を行なっており、他方伝統的にソ連に対する不信感の強いトルコともサイプラス問題を契機として接近し、同年十一月、エルキン・トルコ外相のソ連訪問が行なわれた。
中共については、周恩来首相が一九六三年十二月から六四年一月にかけ、アルジェリア、ア連合、スーダン、チュニジアを歴訪し、他方、過去一年間にアブード・スーダン軍最高会議議長、シドキ・ア連合副首相、サバーハ・クウェイト財政工業相、シリア外相を団長とするシリア親善使節団等が中共を訪問した。
また、一九六四年十月五日より、カイロにおいて、第二回非同盟諸国首脳会議が開催され、アジア・アフリカの非同盟諸国を主とする五七カ国(うち一〇カ国はオブザーバー派遣)の元首あるいは代表が参加したが、アラブ全一三カ国がこれに参加し、非同盟主義の立場に立つ旨を確認した。
三、一九六四年十月、アラブ諸国の中では比較的安定していると見られていたスーダンにおいて、アブード軍事政権が、民政復帰を要求する勢力により顛覆されるという事件が発生した。政変後も、国内情勢は依然動揺しており、とくに、自治あるいは独立を要求する南部黒人と北部アラブ人との対立がいぜんとして解決をみていない。スーダン南部問題は、単にスーダンの一国内問題としてのみでなく、イラクにおけるクルド族問題などとならんで、中近東における民族問題としてその帰趨が注目されている。
アフリカにおいては、独立国は三七カ国となったが、世界の注目をひいたコンゴーの動乱は、アフリカ穏健派諸国と急進派諸国の対立を再現し、アフリカ統一を旗印とするOAU活動に暗影を投げかけている。一方アフリカにおける東西両陣営の角逐は、流動的な様相を呈しつつある。
一、アフリカでは一九六四年七月六日にマラウイ(旧英保護領ニアサランド)が、十月二十四日にザンビア共和国(旧英保護領北ローデシア)が、六五年二月十八日にガンビア(旧英植民地保護領)が、それぞれ英連邦加盟国として独立し、アフリカ大陸における独立国は南アフリカ共和国を含め三七カ国となった。
二、六三年五月のアディスアベバ・アフリカ独立諸国元首会議で設立されたアフリカ統一機構(OAU)は、六四年も活発な活動をつづけ、六四年七月にはカイロで第一回定例元首会議を開催し、常設事務局をアディスアベバに置き、事務総長にギニアのディアロ・テリ国連大使を選出するなど、OAU機構の整備につとめるとともに、植民地問題、人種差別問題、アフリカ諸国間の国境紛争などに関する各種決議を採択し、アフリカ問題の解決に向って積極的な努力をつづけた。また、汎アフリカ社会、経済、文化協力の分野においても、OAU各種専門委員会の活動を通じ、活発な検討が行なわれた。
かかるOAUの活動に大きな暗影を投げかけたものは、コンゴーの動乱およびコンゴーをめぐるアフリカ諸国ならびに域外国の動きであろう。国連は一九六〇年七月以来、コンゴーに国連軍を駐留せしめ、カタンガの分離の終結によるコンゴー国内の統一と治安の維持に貢献したが、政治的、財政的理由により、六四年六月末に駐留軍を引き揚げた。六四年一月いらい、コンゴー各地に起きていた反乱は、その後急激にコンゴー全土に拡がり、国民和解を主張して、七月に中央政府の首相として復帰したチョンベ前カタンガ首相は和解工作に失敗し、八月にはコンゴー国土の半分近くは反乱側の手中に帰した。コンゴー情勢を憂慮したアフリカ諸国は、九月アディスアベバにOAU特別外相会議を開催し、加盟一〇カ国からなるコンゴー調停委員会を設けて、コンゴー問題のアフリカ自身による解決をはかったが、らちがあかぬまま、戦況は漸次白人傭兵を使用する政府軍に有利となった。十一月には反乱側が在留白人多数を人質にしたことから、コンゴー政府の了解の下に、米輸送機によりベルギー空挺大隊が、スタンレーヴィルおよびポーリスに降下し、ここに反乱側を支持するアフリカ急進派諸国と、政府側に好意を寄せるアフリカ穏健派諸国との対立は頂点に達した。スタンレーヴィル事件は十二月初旬、国連安保理事会において討議され、コンゴー問題の解決のためOAUが努力すべきことが決議された。しかし二月末ナイロビで開かれたOAU第四回定例外相会議における長時間の討議も、結局コンゴー問題をOAU定例元首会議に付託することを決め得たのみで、コンゴー調停委員会の提出した解決案は成立せず、半年にわたる同委員会の努力も結局実を結ぶに至らなかった。
このようにして独立後数年を経たアフリカ諸国は、アフリカ統一を旗印とするOAUの結成後二年をへずして、コンゴー問題をめぐり鋭く相互に対立することとなったが、さきにOAUの成立に伴い、OAU内部の政治的グループを排除するという建前から、UAMを解消してアフリカ・マダガスカル経済協力連合(UAMCE)を構成したアフリカ穏健派を代表する仏系のブラザヴィル・グループ諸国は、六五年二月ヌアクシヨット(モーリタニア)に会し、UAMCEを再改組して政治的地域集団たるアフリカ・マダガスカル共同機構(OCAM)を形成した。これに対しガーナ、ギニア、マリなどの旧カサブランカ・グループ諸国も、コンゴー反乱側の支持など共通の立場を固めている。
三、右穏健派諸国と急進派諸国の対立には、域外諸国がからまり、アフリカにおける東西の対立は激化しつつある。
とくにここ数年来、アフリカに大きな関心を示している中共は、六四年初頭の周恩来首相のアフリカ歴訪にひきつづき、旧仏系諸国に対して活発な接近工作を開始し、コンゴー(ブラザヴィル)、中央アフリカ、ダホメなどと外交関係を設定した。中共はまた、東アフリカ諸国およびポルトガル領アンゴラ、モザンビクなどの民族運動に対しても、勢力の浸透をはかっている。他方西側諸国もアフリカの政治的安定と経済的発展をはかるため積極的な援助を行なっており、アフリカにおける東西両陣営の角逐とこれに対するアフリカ諸国の動向はきわめて流動的な様相を呈している。
一九六四年中の、中南米地域の政治情勢には、特記すべき事件がかなりみられた。
国際政治の面で、まず第一は、キューバをめぐる情勢である。
グァンタナモ米海軍基地への給水停止(二月)、米U2偵察機の領空侵犯を非難するカストロの発書(四月)、反革命分子のピロン湾襲撃(五月)など、米・キューバ間の緊迫をもたらした事件が相ついで発生したが、重大な国際危機までには発展しなかった。
この間、米国政府は、一九六二年いらいのキューバ経済封鎖を強化し、友好国に対しても、これに同調するよう要請するとともに、軍事物資、経済援助物資のみならず、一切の設備、資材、物資のキューバヘの、または、キューバからの輸送に自国の船舶、航空機を従事せしめないための適切な措置をとらない国に対しては、対外援助法による援助を停止する措置をとるに至った。
さらに、七月には、米州機構の第九回外務大臣協議会において、(1)外交および領事関係を維持しないこと、(2)通商関係の打切り、(3)海上輸送の停止(ただし(2)および(3)は人道上の必要に基づくものを除外)を主たる内容とする対キューバ制裁決議が採択された。同会議では右決議に対し、メキシコ、チリ、ウルグアイおよびボリヴィアの四カ国が反対投票を行なったが、メキシコを除き右三ヵ国を含め中南米諸国は、いずれもキューバとの関係をその後絶つこととなった。カストロ政権は、経済封鎖と最近の砂糖の値下により、経済的にはかなり窮乏した状態に直面しているが、いぜんとして強大な軍事力と警察力を誇り、国内体制を固めるとともに、カリブ海沿岸諸国に対し活発な共産主義浸透工作を行なっているが、近隣諸国は警戒の手を緩めることなく、カストロ政権の動向を見守っている。
第二には、ドゴール大統領の南米諸国訪問がある。
ドゴール大統領は、一九六四年三月メキシコを訪問し、さらに、九月下旬より約四週間にわたり、ヴェネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリヴィァ、チリー、アルゼンティン、パラグァイ、ウルグァイおよびブラジルの南米一〇カ国を公式に訪問した。
訪問旅行の目的としては、(1)政治的には、フランスの威信を高め、米・ソ二大勢力対立のなかで第三勢力を結成せんとするフランスの基本政策に支持を求めること、および(2)経済的、文化的また科学技術的の連繋関係を強化することにあったものと考えられる。
中共承認いらい、米国にとっては必ずしも快くない言動をとってきたドゴール大統領だけに、南米訪問旅行においても、米国と中南米諸国との伝統的な政治的、経済的関係に水を差すのではないかとの警戒の念が米国の一部にあると報ぜられたが、ドゴール大統領は、旅行中米国を刺激するような言動はいっさいとらなかったことが注目された。
南米諸国は、いずれも一様に、ドゴール大統領の来訪を歓迎し、ラテン系民族の連帯意識の昂揚に賛意を示したが、一部の国は、ドゴールの唱える世界政治多極化に対しては、伝統的な米国との関係に言及し、そのデリケートな立場を示唆した。
第三は、運河をめぐる米国とパナマとの間の確執の推移である。
一九六四年一月、パナマ運河協定改訂を主張するデモ隊によって、米国旗焼却事件が起り、米・パ両国は一時国交を断ったが、両国政府の忍耐強い交渉により、五月にひとまず国交は再開された。
その後、パナマおよび米国は五月と、十一月にそれぞれの大統領の選挙があったため、運河問題は一時小康を得たが、十一月の下旬に至って、対米要求貫徹のための大衆活動が再び始まり、カストロ分子ないし左翼分子を含む一、二〇〇名余の学生グループの反米、反政府デモが行なわれた。これに対し、パナマの治安当局は、極力暴力事件の拡大阻止に積極的態度をとり、報道機関もこれに同調したので、大事に至らなかった。しかしながら共産分子に指導される学生運動は、反米と同時に、反政府的な色彩を示したことは政府および支配層に警告的意味をもつものと報ぜられた。
この間、パナマ政府は国会の秘密会で、パナマの正当な要求を充たす新条約を獲得するとの決意を再確認し、かつ一九〇三年条約の破棄のため闘う旨決議した。
こうしたパナマ側の情勢に対し、ジョンソン大統領は十二月十八日、米国政府はパナマ、コロンビア、ニカラグァなどの関係諸国政府と協調し、新たな運河の建設計画を推進すること、および一九〇三年の条約に代る新しい条約を締結し、パナマの主権を確認し、条約に期限を付する用意がある旨の声明を行なった。パナマ政府筋はこの声明を好感をもって迎え、また六五年二月マン国務次官補の新運河予定国の訪問旅行とあわせ、運河問題をめぐる米・パ両国の交渉は新たな局面を迎えることとなった。
国内政治の面でも、重要な変動があった。その一つは、ブラジルにおけるカステロ・ブランコ政権の成立である。
グラール前政権が国民の人気とり政策によって左傾化したため、軍部は一九六四年三月、実力をもってこれを駆逐し、カステロ・ブランコ将軍を首班とする新政権を樹立した。
カステロ・ブランコ政権は、直ちにグラール前大統領、クビチェック元大統領を含む約一、○○○名におよぶ政界、官界の極左分子や腐敗分子の追放に着手するとともに、赤字財政の是正、インフレ抑制など一連の経済安定政策を実施し、ブラジルの政治経済情勢は安定化の方向を示し、新たな希望が持たれている。
米国政府は、ブラジルの極左化を救ったカステロ・ブランコ政権支持の態度を表明し、四億五、○○○万ドルに達する援助を約束したと伝えられた。
つぎに、チリーにおいては、フレイ政権が出現したが、フレイ大統領は、キリスト教民主党党首として、民主的、漸進的方法による革新政策を綱領とし、社会党および共産党の支持する急進的なアリェンデ候補と、一九六四年九月に激しい選挙戦を展開した後、勝利を収めたものである。同大統領は、同年十一月就任早々に、銅企業への政府の参加、税制改革による開発資金の造成など公約実現のため意欲的な努力を払ってきたが、議会内で左右両派連合の反対にあい、意のままにならなかった。しかしながら、一九六五年三月上旬に行なわれた議員選挙(上院半数、下院全員の改選)において、与党のキリスト教民主党は圧倒的な勝利を収め、下院においては絶対多数を獲得し、フレイ政権は議会内で強力な支持勢力をもつこととなった。
経済の安定と社会改革を唱えるフレイ大統領の施策と、これを支持するチリー国民の動向は、中南米地域におけるデモクラシーの力強いシンボルとして注目の的となっている。米国および西欧諸国の政府筋は、いずれもフレイの登場を歓迎し、積極的な支持を行なう意向がうかがわれる。
第三は、ボリヴィアにおけるクーデターがある。
パス・エステンソロ政権は、一九六四年十一月三日にレネ・バリエントス副大統領を中心とした軍部のクーデターによって崩壊し、バリエントスを首班とする軍の委員会が政権を掌握した。
この政策は、一九六〇年の選挙で選ばれたバス・エステンソロ大統領が国内の反対を無視して、大統領の再選を禁止する憲法の条項を改め、一九六四年五月の選挙で大統領に再選されたことに端を発した反対運動に根ざす政情不安の招来したものであり、さらにパス・エステンソロおよびバリエントスの属する与党の国民革命運動党の複雑な内部事情に根ざし、根本的には、遠く一九五二年いらいの国内政治の方向の帰結であると見られている。
クーデター後バリェントス政権は、国内の治安を回復し、国際協約を遵守する旨約したので、わが国も十一月二十七日、友好関係を継続する旨同政権に通報した。
最後に、アルゼンティンにおけるペロン派の台頭も見のがせない。
一九六三年十月フロンディッシの後をうけて登場したイリア現政権は、議会で有力な支持勢力を持たず、なんら積極策をとり得ない実情にあった。一九六四年十二月、ブラジル政府の協力により、スペインに亡命中のペロンの帰国をリオ・デ・ジャネイロで阻止することはできたが、六五年三月十四日に行なわれた下院議員の半数を改選する選挙において、いわゆるペロニスタの大幅な台頭を許すに至った。
この結果は、無為無策に終止するイリア政権に対する国民の批判を反映するものと報道されたが、アルゼンティンの国内政治に不安定な要因が加わったものと判断する向もあり、今後の成行きが注目される。
中南米諸国は、また伝統的な日本人の移住先で、ことに大正十四年以降は、日本人移住の主流は北米から中南米に転じて現在に至っている。現在これら地域における、一世、二世、三世を含む日系人口は、およそブラジル五〇万、ペルー四万、アルゼンティン一万七、○○○、メキシコ五、○○○、パラグァイ七、○○○、ボリヴィア六、○○○、その他三、○○○、合計約五七万八、○○○と推定せられ、海外日系人口百三万六、○○○の半数以上に当る。最近における顕著な現象は、既にほぼその経済的基盤を確立した日系人が、政治や学術、文化面に急速に進出し始めたことである。そして、そのような傾向が今後進展するにしたがって、わが国とこれら諸国との紐帯強化は必至と見ることができ、その間にあって、これら諸国に在住する日系人の果す役割は測り知れない重要性を帯びてくるものと考えられる。
経済面においては、中南米諸国はいぜんとして少数の一次産品を主要輸出産業としているため、その経済は一次産品の国際市況の影響を直接に受ける弱点がある。しかし一九六四年には銅、コーヒーなどは価格が騰貴したため、全般的に見ると六三年後半に引続き輸出による外貨所得はやや増大したものの、一次産品は価格の変動が激しいため、その国際収支の基調はいぜんとして不安定で、ブラジル、チリ、アルゼンティンは六四年から六五年初頭にかけ、順次債務の繰延べを債権各国に要請するに至った。しかしメキシコ、ヴェネズエラ大部分の中米諸国等の経済活動はいぜん堅調であり、上記三国のなかでも、ブラジルはカステロ・ブランコ政権のインフレ収そくの政策が次第に効果を示しており、チリもフレイ新政権の出現を歓迎する米国その他の西欧諸国からの援助が期待されている。
中南米の経済的、社会的進歩の増進を目的とする「進歩のための同盟」は、当初各国の長期経済開発計画の作成が遅れていたためもあって予期したほどの進展をみせなかったが、六四年末にはパラグァイおよびウルグアイを除き、各国の長期計画の立案は終了し、同計画の検討に当る九人専門委員会の審査もかなり迅速に行なわれている模様であるので、今後は次第にその活動を活発にして行くものとみられる。ただ、経済開発の資金総額は尨大なものとなると予想されるので、米国の援助、国際金融機関の融資などのほか、域外国からの援助に対する期待も大きくなるものと思われる。
中南米には、中米共同市場とラテン・アメリカ自由貿易連合(LAFTA)の二つの経済統合体がある。中米共同市場は域内貿易の自由化、対外関税の均等化をほぼ達成し、ひきつづき順調な歩みを進めている。
他方ラフタの域内貿易額は増加しているが、これは主として、伝統的な貿易品目である農牧産品によるところが大きく、また、域内貿易額がラフタ諸国の総貿易額中に占める比率もなお小さいので、その進展ぶりには種々の評価があるが、六四年の第四回締約国会議では、過去三カ年の域内貿易額の二五%余を占める一七五品目よりなる第一期共通リストが署名され、六五年八月末日以前に外務大臣会議を開催することが決定されたほか、通貨金融審議会の設置その他の一連の重要な決議が行なわれ、今後の進展の布石がしかれたことが注目される。
第二次世界戦争終了後二十年を経た今日の世界経済は、いろいろな意味において大きく変りつつあるといえる。
まず第一に、戦後の最初の十年間においては、米国の経済力の圧倒的な優位が保たれていたが、一九五〇年代の後半より西欧先進諸国の経済力は著しく向上し、五八年末には通貨の交換性を回復するに至った。しかし、このような西欧経済躍進の反面において、当時の米国経済は停滞気味に推移した。とくに、高水準の対外軍事支出および対外投資より生ずる資本収支の赤字のため、一九五八年以降米国の国際収支は毎年赤字をつづけ、その対外短期債務は国内の金準備を上廻るようになり、ドルに対する信頼の念は従来ほど絶対的なものといえなくなった。このような米国の国際収支悪化を防止するためには、西欧先進諸国が低開発国経済援助や自由陣営防衛の負担にもっと積極的に応じることと、経済統合の進展にともなって生じる対外障壁を早きにおいて低減させ、拡大した西欧市場に対する米国の輸出を拡大する必要が生じてきた。こうした要請を満たすための手段が、米国のOECDへの参加や関税一括引下げ交渉開催の提唱となってあらわれたわけであるが、他方米国はドル価値の安定を期する上においても、西欧先進諸国との緊密な協力を必要とするようになり、西欧主要国中央銀行との間に、ドル防衛協力のためのいろいろな取決めを結ぶとともにIMFを中心とする国際流動性供給の増強策について大きな関心を寄せるようになってきた。
このように、戦後絶対的な経済力を有していた米国にとっても、西欧諸国や日本の経済力が台頭した結果、国際経済を円滑に動かして行くためには、これら諸国の協力が必要となってきた。
このようにして、世界経済は多角的な国際協調の時代に入った。
第二に、一九五〇年代の後半から地域的統合により市場拡大を求める動きが活発になり、世界経済における地域統合化の動きが顕著になった。とくに、EECが設立された翌一九五九年には、EFTAが設立された。この地域経済統合の動きは、先進国間のみならず、低開発国間および共産圏諸国間にも波及し、ラ・米におけるLAFTAおよび中米共同市場の設立、アフリカにおける諸関税同盟の設立あるいは東南アジアにおける域内協力強化への動き、さらには共産圏諸国におけるコメコンの強化となってあらわれた。これら地域統合の動きは、第二次大戦後今日までの世界経済の基調をなしてきたブレトン・ウッズ体制のあり方を大きく変えるものであるともいえよう。
つぎに、最近の世界経済を特徴づけている第三の点は、低開発国問題が大きくクローズアップされてきたことである。従来主として援助という形で処理されてきた低開発国問題は、一九五〇年代後半に至り、低開発諸国の輸出の大宗をなしている一次産品の需要伸び悩みと、その価格下落のため、低開発国の輸出所得は一向に増大せず、低開発国経済は停滞するにいたった。
このような低開発国経済の停滞および最近における低開発国の債務累積などを背景に、低開発国問題が、いわゆる「南北問題」として、ガット、国連またはOECDなどの場においてクローズアップされ、ついに六四年に至り、歴史的な国連貿易開発会議が開催されることになった。
このような問題のほかに、見逃しえない重要な問題として、東西貿易の問題がある。
第二次大戦後間もなく始まった米ソ対立を中心とする東西両陣営間の冷戦が激化したため、一九五〇年代前半を通じ、東西貿易拡大の気運はほとんどみられなかった。しかし、一九五〇年代の後半において、東西緊張緩和のきざしが感ぜられ、また、平和共存路線が打出きれるにいたり、東西貿易の拡大の気運がたかまった。
とくに、ここ二、三年いらいは、単に東西緊張の緩和のみならず、ソ連と中共の対立、または、共産圏諸国における農業の不振などの事情も重なって、東西貿易が着実に拡大するとともに、東西貿易拡大の気運は一層強まってきており、世界経済に新しい課題をなげかけている。
これを要するに、戦後二十年にわたり、米国などの先進国を中心に拡大をつづけてきた世界経済は、多くの面において新たな局面を迎えているといえよう。
一九六四年の世界政治には、フランスの中共承認、フルシチョフの失脚、中共の核実験、英国労働党の勝利、ジョンソン米国大統領の当選など目まぐるしい変化があったが、過去一カ年の世界経済の動きにも、これに劣らず重要な出来事が相ついで起こった。
まず、先進国経済は、米国経済の堅実な繁栄を背景に一応順調な発展をつづけた。しかし、そのなかにあって、先行きに不安を抱かせる諸要因もみられた。
例えば、ドイツを除くEEC諸国経済の過熱傾向は一応鎮静化したが、その反面、これら諸国の経済成長は著しく鈍化した。しかも、その鈍化にもかかわらず、消費者物価、賃銀などの騰勢基調は終熄せず、これら諸国において所得政策を確立する必要性が痛感されている。
また、英国は、一九六四年後半から国際収支の悪化に悩まされ、六四年末には深刻なポンド危機におそわれた。十月に成立した労働党政権は、直ちに輸入課徴金の設定、公定歩合の大幅引上げなどの対策を講じたが、それにもかかわらずポンド危機は去らず、ついに六四年十一月末、わが国を含めた主要先進国から三十億ドルにものぼる巨額な緊急資金援助をあおいだ。
さらに、米国も六四年(暦年)第四・四半期には、通常収支の赤字幅が年率六十億ドルにも悪化し、六五年二月にジョンソン大統領は、米国民間資本流出抑制に重点をおいた国際収支特別教書を発表した。さらに、これにさき立ち、六五年一月に米国とカナダは、米加間の自動車およびその部品の関税を相互に免除する特恵取極を締結し、米国が従来強調してきた自由、無差別の原則を自ら破るというようなことが起こった。
このようなポンド危機と米国の国際収支悪化の一因となった対欧資本進出の問題などを背景として、ドル、ポンドを基軸通貨とする現行国際通貨制度のあり方が問題となり、六五年二月には、現行国際通貨制度に不信を表明し、金を基準とする国際通貨制度の採用を提唱したド・ゴール声明が出され、国際通貨制度問題に新たな波紋が投げかけられた。
他方、このような新しい問題のめばえにもかかわらず、画期的といわれている関税一括引下げ交渉(ケネディ・ラウンド)は、米国とEEC諸国の対立の結果紆余曲折はあったものの、一応予定どおり六四年十一月の工業製品に関する例外リストの提出を機にいよいよ開始され、既に各国が提出した例外リストの多角的審査を終了した。六五年四月末からは、穀物をはじめとする農産物に関する交渉も開始されようとしている。
EECも長年の懸案であった穀物価格の統一に関し、仏と西独間の妥協が成立し、一九六三年一月の英国加盟交渉中断以降の停滞から脱却し、新たに飛躍する基盤を確立した。
つぎに、低開発国経済については、その景気動向を左右する一次産品の市況が、ゴムおよび砂糖を除いて、一九六四年においても全般的に好調を持続し、六四年の一次産品平均価格は前年比五%の増加となり、過去八年間の最高を記録した。これは錫、鉛、亜鉛などの非鉄金属の価格が先進国の景気上昇を反映して高騰をつづけ、またココア、コーヒー、小麦などの食糧品および羊毛、コプラなどが自然的悪条件によって減産したためであった。このような一次産品価格の堅調ぶりを反映して、六四年においては多くの低開発諸国の輸出所得が増大し、一方輸入が横ばいであったために数年振りに対外準備の増加をみた。
しかし、一九六五年に入って一次産品の市況は再度軟調を示し、砂糖価格はさらに下落するとともに、鉛、銅、植物油種子、ゴムなどを除く一次産品価格は下降するに至った。
以上のような低開発国経済の短期的変動とは別に、低開発国問題の抜本的解決を目指し、六四年三月末から六月まで歴史的といわれている国連貿易開発会議が一二〇数カ国の参加をえて開催きれた。その結果、国連のもとに低開発国問題を取扱う新しい機構が発足することになり、六五年四月から新発足した第一回国連貿易開発理事会(わが国を含め五五カ国がメンバー)がニューヨークで開催され、国連貿易開発会議で採択された勧告の実施振りなどを検討することになっている。
また、ガットにおいても、一九六三年頃から、低開発国貿易促進の見地からガット規定を改正すべしとの声が強まり、六四年十一月から鋭意検討の結果、六五年二月「低開発国貿易促進のため、先進国がとるべき措置を定める規定(新章)をガット協定に追加するための改正議定書」が採択された。
一方、一九六四年における共産圏諸国の経済については、最大の問題たる農業生産が、近年ルーマニアを除く東欧諸国でいぜんとして不振をつづけていたが、六四年はソ連の穀物の収穫はかなりの豊作といわれ、中共でも著しい回復を見たと伝えられる。しかし経済全体としては、中共のように一九六三-五年を調整期と称して長期計画を持たぬ国は別として、ソ連においては計画目標は大体達成されたといわれるが、成長率は鈍化しつつあり、また経済各部門間の不均衡、製品の品質改良の問題などを抱えており、東欧諸国については国によって一様ではないが、農業不振を工業生産の量的増加でカヴァーしようとするなど、計画経済の行詰りをきたしている。
一九六四年の東西貿易は、米ソ間の緊張緩和を背景に拡大ムードを著しく高めたが、その実績は必ずしもムードほどに拡大しなかった。しかし、英国の対ソ長期延払いの供与、仏ソ貿易協定の締結などが実現されるとともに、戦後初めて、一〇〇人近い米国の実業家の一行がソ連を訪問するに至った。
さらに、六五年に入り、ジョンソン大統領は一般教書において東西貿易の拡大に言及し、さらに三月には実業家、学者、労組代表者などからなる東西貿易諮問グループを設置し、東西貿易拡大のムードがたかまってきだ。しかし、その反面ヴィエトナム問題に端を発し、東西関係が緊張し、暗影を投げかけている。
さて、このような国際環境にあって、過去一カ年のわが国の経済外交は如何に推移したであろうか。(詳細は各論「諸外国との貿易経済関係」を参照のこと)
まず、なによりも注目されることは、わが国は六四年四月にIMF八条国への移行、OECDへの正式加盟を実現するとともに、米国、英国、フランス、カナダの各国政府と閣僚級の定期協議会、または委員会を開催し、戦後経済外交の一貫した最大目的であった「先進国としての国際的地位の確立」を名実ともに実現しえた年であった。
それと同時に、先進国として世界経済の繁栄に応分の寄与を行ない、もってわが国経済の長期的繁栄をはかるため、わが国は前述のガットにおけるケネディ・ラウンドに積極的に参加し、また国連貿易開発会議および低開発国問題に関するOECDの討議にも積極的に参加してきた。さらに、ガットで採択された低開発国貿易促進に関する新章についても署名を了し、国会の承認を得次第正式に発効することになっている。
このようなわが国の国際的地位の向上にもかかわらず、わが国はいぜんとして一部の国から差別的輸入制限を受けたり、輸出の自主規制を余儀なくされているので、これらの撤廃方を機会あるごとに強く要求してきた。その結果、漸次対日差別は縮小または撤廃され、ガット三十五条の対日援用問題も、一九六四年中にオーストラリア、フランス、ベネルックス三国の援用撤回が実現し、すべての主要先進国とガット関係に入ることとなった。
以上のほかに、低開発国との経済関係を緊密にするため、主としてアフリカ、中近東諸国と貿易取極の締結をはかり、また六四年にはアフリカ諸国および東南アジア諸国へ、六五年には中南米諸国へ経済使節団を派遣した。また、韓国との間に六五年三月貿易会議を開催し、恒常的にわが国の大幅出超となってている日韓貿易改善をはじめ、両国経済提携の強化のため諸方策につき討議を行なった。
国際金融問題についてもIMFや一〇カ国蔵相会議などを中心に討議を行なった。国際協調が近年とみにたかまって来ており、わが国もこれらの協調に積極的に参加して応分の貢献をしてきた。とくに、一九六四年九月のIMF第一九回総会は、各国の蔵相をはじめとする代表団多数を東京へ迎えて開催され、また十月のポンド危機に際して行なわれた三十億ドルの一〇カ国協調融資にもわが国は参加した。
最後に、過去一年間わが国の対共産圏貿易は着実に拡大をつづけている。一九六四年四月には中共見本市の東京開催、五月にはミコヤンの訪日、八月にはLT貿易中共連絡員の訪日、十一月には対東欧諸国経済使節団の派遣などが実現された。またこの間、わが国の対ソ尿素プラント長期延払輸出、対ルーマニア船舶長期延払輸出などが実現された。
このようにわが国の対共産圏貿易は一応順調に推移したが、一九六五年二月に入り対中共長期延払い問題をめぐり、中共側が吉田書簡を問題にし、日中貿易関係に新しい波紋を投じた。しかし、政府は政経分離の原則により、自主的に処理する方針で、中共との貿易拡大に努力している。現に六四年の中共との貿易は、三億一千万ドルと前年の二倍以上に増加している。政府としては今後ともこの方針を進めてゆく意向である。
一九六四年の低開発国援助をめぐる国際的動向で目立った点は、低開発国側からの援助要請が大規模な国際会議の場に結集されて、大きくクローズ・アップされたことである。
すなわち、前述の六四年春の国連貿易開発会議において、低開発諸国が結束して貿易と援助の面における先進国側の協力を強く求めた結果、先進工業諸国がそれぞれ国民所得の一%拠出を目標として援助努力を行なう旨の勧告をはじめとして、融資の分野でも数多くの勧告が採択された。また、この会議の結果、貿易開発理事会が発足する運びとなったことは、援助の分野でも低開発諸国が共同一致して先進工業諸国と話し合う場ができたという意味で画期的な出来事であり、南北問題解決のために、今後援助供与国側が一層真剣に援助受入国側の主張に耳を傾けることが必要となって来た。このような背景の下でDAC(開発援助委員会)においては、会議の諸勧告をいかに実施するかが真剣に討議され、援助国側としてはできるだけ共同歩調をとりながら、諸問題の解決に建設的に対処する方針が合意された。またIMF、世銀などは六四年秋いらい、補足融資の提案、利子平衡基金設立の提案など、貿易開発会議がこれらの機関に付託した金融技術上の諸問題を鋭意検討しており、他方エカフェなどの国連地域経済委員会においても、会議のフォロー・アップについて討議が行なわれた。
一方、各国の援助実績についてみると、DAC加盟諸国が直接あるいは国際機関を通じて、低開発諸国援助に支出した資金の額は、一九六三年には約八一億ドルで、前年の水準を僅かに上廻ったに過ぎず、一九六一年の実績八六億ドルにはおよばなかった。二国間政府援助は一九五六年いらい大体毎年増加してきているが、国際機関への拠出額や民間投資を加算した援助総額の流れには、必ずしも一貫した増加傾向は見られていない。他方、最近における低開発国の生産と所得の成長率は期待されたほどではなく、国連の推計によれば、低開発諸国が経済開発に必要とする資金と自からの外貨収入の「ギャップ」は、一九七〇年において二〇〇億ドルに達する可能性が指摘された。このような背景の下で、最近援助供与国側では、低開発諸国の援助需要とこれに対する供給能力の問題について実証的な検討が行なわれるようになり、また援助受入国による自助努力、援助の有効性の評価、援助計画作成基準などの諸問題が一層重視されるに至った。
援助の質的改善の問題も、六四年における共同援助努力強化の中心的課題であった。低開発国の対外債務は、公的債務のみで一九六四年に約三〇億ドルに及んでおり、近い将来において、比較的に短期な債務の返済義務がさらに集中することが予想されている。既にブラジル、チリ、アルゼンティンなどについては、債権国が協調して債権繰延べに応じ、あるいはそのための体制が固まりつつある。またDACの場においては、低開発諸国の債務累積事情の分析、援助条件緩和の必要性などについての検討が進められた。さらに世銀においては、輸出信用をめぐる諸問題についての検討が始められた。六四年においてDAC諸国の援助条件は若干改善され、とくにカナダが借款の条件をほぼIDA(国際開発協会、いわゆる第二世銀)なみまでに大幅に緩和したことが注目された。
援助条件緩和の要請のほか、慢性的外貨不足に悩みながら、債務負担の増加および開発プロジェクトのための原材料、部品を必要としている低開発諸国からは、ノン・プロジェクト援助のより一層の拡大が要望された。
二国間援助計画のなかでは、技術援助支出が最近著しく増加している。一九六三年のDAC諸国統計によると、派遣専門家数および受入れ研修生の数はともに一九六二年より約一〇%上廻り、またDAC諸国の政府資金支出の総額に占める技術協力関係支出は約十三%から一五%に上昇した。
援助に関する供与国間の調整の努力もひきつづき行なわれた。すなわち、世銀主催による対インド、パキスタン・コンソーシアムおよびOECDによる対トルコ、ギリシャ・コンソーシアムは前年と同様開発計画を分析し不足資金を補う努力を行ない、また国別の世銀協議グループないしDAC調整グループは援助に関連する諸問題、特に開発プロジェクトについての情報交換を行なった。コロンボ計画、「進歩のための同盟」、国連の諸機構なども調整の場として重要な役割を演じている。他方、エカフェにおいては、貿易および開発促進のための域内協力強化の諸問題が検討され、融資の分野については、六五年三月のウエリントンにおけるエカフェ総会において、アジア開発銀行構想の具体化に関する決議が採択された。一九六〇年に発足した全米開発銀行は増資、域外先進諸国との協力拡大などを通じて着実にその業務を拡充しており、またアフリカ開発銀行は六四年九月発足するなど、この分野における域内協力強化の基調はますます強まった。
このような世界の動きのなかでわが国は、低開発国援助が世界の安定と繁栄に不可欠であるとの認識に立ち、とくにわが国自身の安全と繁栄に直接の関連をもつアジアの低開発諸国に最重点をおいて、経済協力を進めてきた。一九六四年中にわが国が賠償、技術協力、円借款、輸出信用、民間投資等の形で、低開発諸国に供与した資金の総額は二億四千五百万ドルであった。これは一九六三年の総額に比較して二千万ドルの減少であったが、これは主として民間投資の激減によるものである。前記二億四千五百万ドルの総額のうち、約八割はアジア諸国向けであった。
資金協力の面では、わが国は一九六四年にインド、パキスタンに対し新たな円借款を供与し、韓国に対し緊急商品援助を行ない、また南ヴィエトナムに対し民生安定のための贈与を行なった。さらに、国内的措置としては、輸銀、基金による投融資業務の弾力化および拡充をはかるとともに、民間投融資促進のための税制上の優遇措置をとった。
技術協力の支出実績は一九六四年には五・八百万ドルで、前年に比較して約三〇%増大し、研修員の受入れ、専門家の派遣、開発調査の実施等の面での協力が拡大強化された。また、わが国は、既存のものに加えて、インド、パキスタン、ケニアおよびタイにおいて、新しい技術訓練センターを開所し、あるいはそのための設置協定を結んだ。さらに六四年においては、技術協力計画の一環として考えられた日本青年海外協力隊の派遣の可能性について広汎な調査を行なった。
このようにわが国は一九六四年においても、援助努力の強化に努めた。前に述べたような国際的環境のなかでアジアの先進工業たるわが国に対する低開発諸国、とくにアジア諸国の期待と要請は非常に大きく、今後各国の実情に応じた規模と方式の援助を効果的に行なうことがますます重要になると予想される。したがってわが国は、従来の高度成長の結果生じた社会資本の立ち遅れ、地域内所得格差の拡大、農業・中小企業の近代化の遅れなどの構造的な歪みを解決しながら、限られた財政資金をもって、重点的、効果的な援助を進めて行くという重要な課題に直面している。