中近東とアフリカ
一九六三年二月イラクで、つづいて三月シリアで勃発したクーデターによって両国にバース党政権が成立し、アラブ連合、シリア、イラクの急進派アラブ三国間に統合の気運が発生した。その結果、四月十七日には新しいアラブ連合共和国結成を目標とする統合宣言まで発表されたが、ナセル・アラブ連合大統領とシリアおよびイラクのバース党指導者の間にみられる不信感と指導権争いのため、統合運動は急速に瓦解した。
一九四八年いらい続いているアラブとイスラエルとの対立は、近時アラブ諸国家間の対立等に助けられ大規模な衝突も起ることなく推移してきた。しかしながら、イスラエル側のジョルダン河河水利用計画が進捗し、本年イスラエル南部の砂漠地帯への送水が可能となるや、アラブ諸国の間でイスラエルの脅威が叫ばれるようになった。一九六三年十二月、ナセル・アラブ連合大統領は突如イスラエルに対処するため、アラブ首脳会議の開催を提唱した。アラブ十三カ国の首脳は、アラブ連盟主催の下に六四年一月にカイロで会談し、イスラエル対抗策とアラブ相互間の関係強化が合意された。
またこれを契機として、アラブ連合とジョルダンおよびサウディ・アラビアとの外交関係が相次いで再開され、国境紛争をめぐり戦火まで交えたモロッコとアルジェリアの関係も平常に復した。もっともイエメン紛争はひきつづき継続し、アラブ連合とシリアとの間もなお円滑を欠くものがあるようであるが、上述のようなアラブ諸国間の和解を背景として、アラブ諸国の外相が世界各国を訪問してアラブの立場を訴えることが決定されている。
アラブ諸国首脳は六四年八月再会し、秋の国連総会への対策を打ち合わせることになっているが、イスラエルとの紛争をめぐるアラブ諸国一体となっての政治攻勢はきわめて注目を要するものと思われる。なお、アラブの和解的空気にも助けられて、第二回非同盟諸国会議は六四年十月カイロで開催されることとなった。
アフリカでは、一九六三年十二月にケニア、ザンジバル両国が独立し、さらに六四年中にはニアサランド(独立後マラウイと改称)、北ローデシア(独立後ザンビアと改称)の二つの英保護領の独立が予定されている。このようなアフリカにおける独立国の増加は、国際政局におけるアフリカの声を強める傾向にあるので、アフリカ外の諸国は、アフリカ諸国の支持を獲得するため、種々働きかけている。なかでも中共の周恩来首相は六三年十二月から六四年二月にかけ、五十余日にわたりアフリカ諸国を訪問し、世界の注目をひいた。
アフリカ地域における動きとして特記すべきものは、「アフリカ統一機構」(OAU)の発足である。六三年五月、アフリカ独立国三十カ国の首脳がエティオピアの首都アディス・アベバに集って、アフリカ独立諸国首脳会議を開き、アフリカ統一機構憲章を採択し、南アフリカ共和国を除く全アフリカの独立国を包含したアフリカ統一機構を設立した。
その後OAUは、六三年八月にダカールで、また六四年二月にラゴスで、それぞれ第一回および第二回定例外相会議を開いたほか、六三年十一月にはアディス・アベバで、また六四年二月にはダレサラムで、臨時または緊急の外相会議を開いて、アルジェリア・モロッコ国境紛争、東アフリカ情勢、エティオピア・ソマリア、エティオピア・ケニア国境紛争等アフリカ諸国間の平和に直接関係する問題を討議し、いずれもこれらの問題を国連に持ち出すことなく、OAUの枠内で処理することに成功している。
なお、アフリカ統一機構成立以前に存在したカサブランカ派、モンロビア派、アフリカ・マダガスカル連合(UAM)などの地域的グループは、UAMを除いては、六三年中に活動を停止し、UAMも六四年三月、解体して経済協力機構(UAMCE)へ転身した。
また、アフリカ諸国はOAUの諸決議にみられるように、植民地問題、人種差別問題などをめぐって、南アフリカ共和国、南ローデシアおよびポルトガルに対する非難、攻撃をますます強めており、これらの問題は今後次第に重大化してくるものとみられる。
他面、アフリカにおける新興独立国の内部では、六三年一月にトーゴーで革命政権が成立して以来、六三年八月コンゴー(ブラザヴィル)、六三年十月ダホメ、六四年一月ザンジバルで、それぞれ革命またはクーデターが起り、政権の交代がみられた。さらに、六四年一月にタンガニイカ、ウガンダ、ケニア、六四年二月にガボンで軍部の反乱が起きたが、旧統治国(英、仏)の軍隊の介入もあって、いずれも鎮圧された。これらの軍の反乱はいうまでもないが、前記革命、クーデターにおいても、軍または労組のいずれかが主導力となっている点は注目される。