西 欧 の 情 勢
西欧では、米ソの緊張緩和への努力を背景として、東西間の問題よりは、むしろ各国の国内政治および西欧諸国相互の関係の調整が主な問題として取りあげられた。
すなわち、一九六三年には、英、独、伊、蘭、希、墺、諾、芬等の諸国で内閣の交代があり、これら諸国とも国内問題で忙殺されたが、この間米国と欧州諸国との関係をとくにNATO(北大西洋条約機構)の枠内において調整する努力が続けられるとともに、英国加盟交渉挫折後のEEC(欧州経済共同体)の結束強化についても地道な接触が続けられた。
まず、米国と欧州のNATO諸国との関係については、一九六二年十二月のナッソーにおける米英首脳会談以後米国が推進しているNATO核戦力建設案が、フランスの反対と、この問題独自の技術的、財政的困難のため難航を続けていたが、その後六三年五月オタワで行なわれた第三十一回NATO定例閣僚理事会でNATO核戦力の組織化の方向が一応決定された。その後米国、ドイツが中心となって実施計画がねられており、英国の参加は未決定であるけれども、六四年中には具体的な成案ができるのではないかとみられている。これに関連して、現在NATO内部では、加盟各国をどのような形で米国の核兵器使用決定に参加させるかという問題も検討されている。
一方、欧州統合の面では、英国加盟交渉挫折後にみられたEEC内部におけるフランスとイタリアおよびベネルックスとの対立が主としてドイツの努力により漸次調整されて行ったが、六三年後半には共通農業政策をめぐって独仏の利害が激しく衝突するに至った。しかしながら、結局十二月十八日から二十三日にかけての外相、農相合同理事会で、一九六六年から共同市場に農業を組入れるべしとのフランスの主張がとおり、EECはさらに発展の歩みを続けることになった。
英国とEEC諸国との関係についても、英国加入交渉挫折後西欧連合の閣僚理事会で接触を続行するという妥協ができ、一九六三年十月以来三回にわたり右理事会が開催され(六三年十月ハーグ、六四年一月ロンドン、四月十六日、十七日、ブラッセル)、政治、経済上の諸問題について意見の交換が行なわれているが、各国とも六四年秋に行なわれる英国総選挙の結果を待っている形である。
なお、独仏間においては、一九六二年一月十二日に署名された独仏協力条約にもとづいて頻繁に接触が行なわれてきているが、独仏間のみならず西欧諸国相互間に首脳部の訪問交換がしばしば行なわれ、これら諸国間の政治的協議は次第に強化されている。
一方日本と西欧諸国との関係は、一九六二年秋に大平外務大臣と池田総理が相次いで西欧諸国を訪問したのをきっかけとして、時とともに緊密なものとなってきている。
すなわち、通商面では、英国、ベネルックス諸国、フランスの各国が六二年秋より六四年初頭へかけて、次々と対日ガット三十五条援用を撤回し、あるいはその撤回を約し、今後の対西欧貿易拡大の道が開かれることとなった。
また、一九六三年にはOECD(経済協力開発機構)加盟のための話し合いがまとまり、六四年四月二十八日にわが国はこの機構に加盟した。この結果わが国は米国、カナダおよび欧州諸国との間に、国際経済上の重要問題について有機的な協議、協力の体制を常に確保して置くことができるようになった。
さらに、日本と西欧諸国との関係の上で一九六三年に起った重要な出来事は、日英、日仏、日独間に定期的な協議が始められたことである。この定期協議は、国際情勢全般および二国間の関係に関する重要な問題について双方が信ずるところを率直に述べ、相互の理解を深め、これら諸国ひいては西欧とわが国との関係を十分に緊密なものとすることを目的とするものである。一九六三年から六四年へかけて行なわれた定期協議は、日本およびこれら諸国双方にとってきわめて有益なものであった。
このように、日本と西欧諸国との関係が、政治、経済の両分野にわたって緊密の度を加えつつあることは、わが国外交の幅を広げ、国際政局におけるわが国の発言力を高め、かつその地位を一層安定した、ゆとりのあるものにすることにほかならない。