日 米 関 係
近年緊密化の一途をたどっている日米間の関係は、一九六三年度にも引きつづき緊密の度を増した。もとより個々の問題について両国間の利害が一致しなかった場合もあるけれども、全般としてはいまだかつてないほど緊密で友好的なものであった。
一九六一年の池田、ケネディ会談の結果、日米間に経済、科学および文化に関する三つの委員会の設置が決定されたが、これら日米関係を増進するための諸機構はようやく軌道に乗り、日米貿易経済合同委員会の第三回会合が六四年一月に(当初の予定は六三年十一月)、科学協力に関する日米委員会の第三回会合が六三年五月に、また日米教育文化会議の第二回会合が六三年十月に、それぞれ開催された。(一九五頁、一〇一頁及び二六八頁参照)
さらに、日米関係の根幹の一つをなす安全保障上の協力関係は、一九六〇年六月新安全保障条約が発効して以来ますます緊密となり、同条約に基づく安全保障協議委員会は六三年中に二回行なわれた。
米国は、ドルの海外流出を防止するいわゆるドル防衛の必要もあって、六三年中に、(一)日本を含む先進諸国に対しては、六三年七月一日以前に確約した分以外の新たな無償軍事援助は全面的に供与を打ち切ることとし、(二)自衛隊の防衛能力の向上および米国防衛力の効果的使用の必要性より、在日米軍中空軍関係の一部部隊の引き揚げ措置をとるにいたった。しかし、これらの措置は、日米間の安全保障上の協力関係に本質的な影響を与えるようなものではなかった。
一九六三年十一月二十三日に、ケネディ大統領は、テキサス州ダラス市で、精神異常といわれる一青年に暗殺された。故大統領の葬儀には、ド・ゴール大統領をはじめ、各国の元首およびその代理者が多数参加し、わが国よりは池田首相と大平外務大臣が参列した(一〇〇頁参照)。後任大統領としては、ジョンソン副大統領が即日就任、その直後議会で行なった演説において、ケネディ前大統領の政策を踏襲しそれを推進することを約した。現在まで、対日政策についてもなんら変化はみられない。
一九六四年三月二十四日、ライシャワー駐日米国大使が、一未成年者に襲われ、右脚に重傷を負うという不祥事が発生した。日本政府は、直ちに米国政府およびライシャワー大使に対して遺憾の意を表明し、池田総理は二十五日リレー衛星を通じての最初のテレビ中継が行なわれた機会に遺憾の意を伝えた。また、皇室よりも直ちに大使に対し見舞を送られ、国民もあげて遺憾の意を表した。そのうえ、犯人が精神異常者の疑いが濃厚であって政治的背景が全くなかったことも明らかになり、これらの事情が海外へも客観的に報道されたので、米国はもとより他の諸国でもわが国に対する好ましからざる見方は生じなかった。なお、早川国家公安委員長は二十五日、事件の政治的責任をとって辞任した。