アジアの情勢
南ヴィエトナムでは、民心がゴー政権の独裁制からますます離反してゆく情勢を背景に、困難なゲリラ討伐戦が遂行されていたところ、一九六三年五月以来仏教徒事件が発生し、国民の反ゴー運動は一段と激しくなった結果、同政権は十一月に軍部のクーデターで倒され、治世十年の幕を閉じた。しかし、このクーデターによって生まれた軍事政権はその後内部争いから一九六四年一月末に政変に見舞われ、共産ゲリラも政府の混乱に乗じて攻勢を激化させている。この間にあって、いわゆるド・ゴール大統領の東南アジア中立化構想の発表を契機として、南ヴィエトナムの中立化による政治的解決の可否が内外の論議を呼ぶに至った。しかしながら、南ヴィエトナム中立化の実現性を疑問視するむきもあり、また、これを中立化せしめることは、米軍の撤退、米国援助の低減につらなり、結局ヴィエトナム全土を北越の支配下に置く結果を招くのではないかとの懸念から、米国は引きつづき反共、反中立化を標榜するヴィエトナム政府に軍事的、経済的支持を与えている。
一九六二年に成立した三派連合中立政府の治下にあるラオスの政情も、六三年四月左派寄りのキニム外相が暗殺されて以来、この三派連合体制は実質的に瓦解してしまい、その後はパテト・ラオを一方とし、中立派と右派を他方とする二派が対峙して、各地で小規模な戦火が交えられるに至った。その後三派間のよりを戻すために企てられている三派首脳会談も、容易に実現の運びに至らず、ラオスの変則的状態が早急に解決される見とおしは立たない。
カンボディアは六三年十一月の南ヴィエトナムのクーデター以後、貿易や銀行業務の国営化政策を打ち出し、米国の援助を拒否し、中共と北越に接近する姿勢を示して左傾的な動きをとるとともに、自国の中立を国際的に保障するための国際会議の開催を提唱した。この国際会議については、関係諸国それぞれの思惑ないしは利害が複雑にからみあい、まだ実現をみるに至っていない。
一方マラヤ半島では、ラーマン・マラヤ連邦首相が一九六一年五月以来提唱してきたマレイシア結成の構想がついに実現した。すなわち、マラヤ連邦を中核として、これにシンガポール、北ボルネオおよびサラワクを加えて、一九六三年九月十六日、マレイシアが成立した。
ところが、一九六二年末以来インドネシアは、この計画は住民の意思に反する新しい形の植民地主義で、インドネシアに脅威を与えるものであると主張し、北ボルネオに対する領有権を主張するフィリピンとともに、マレイシアの成立に反対してきた。
一九六三年五月末東京で行なわれたラーマン、スカルノ会談を契機として、同年八月マニラで開かれた三国首脳会談で、国連事務総長が北ボルネオおよびサラワク両地域の民意を確認すれば、インドネシアとフィリピンはマレイシアを歓迎すること、および三国間の関係を密接にするためマフィリンドの設立に努力することがいったん三国間で合意された。そして、この三国の要請を受けた国連事務総長は両地域について民意調査を行ない、その住民の大部分がマレイシア参加を希望しているとの判定を下した。
しかるに、インドネシアとフィリピンは、国連調査の手続や、マラヤ側がこの調査が終るに先立ってマレイシアを成立させることを発表したことを不満として、マレイシアを承認せずとの態度を決め、マレイシア成立(九月十六日)と同時に、マレイシアとインドネシア、フィリピン両国との外交関係は断絶された。さらに九月十八日には、インドネシアでデモ隊が英大使館に放火、これを全焼させるという事件がおこり、インドネシア、マレイシア間の対立は決定的となった。
わが国をはじめ米国、タイ等の諸国は三国間の関係のこのような悪化が、東南アジアの安定に与える影響を憂慮し、この問題を話し合いによって早期に解決するための努力を続けた。
すなわち、一九六三年九月下旬から二週間にわたる池田総理のフィリピン、インドネシア、オーストラリアおよびニュー・ジーランド訪問は、たまたまマレイシアの発足をめぐり紛争が再発した直後に行なわれた。池田総理はこの訪問旅行において、関係国首脳に対し平和的解決が肝要である旨を説得するとともに、わが国としてもそのための側面的協力を惜しまない旨発表した。また、六四年一月に入り、サバ、サラワクにおけるインドネシアのゲリラ活動が激化するや、スカルノ大統領が訪日した機会に、ケネディ米司法長官も来日し、池田総理とともにボルネオにおけるインドネシアのゲリラ活動を停止すべきことを勧めたが、その後ケネディ司法長官は関係諸国を歴訪した結果、一月下旬ボルネオ前線の戦闘は一応停止された。
この停戦を足がかりとして、二月、三月の二回にわたりバンコックで三国の閣僚会議が開かれた。しかし、この会議では、インドネシア・ゲリラ部隊の撤退を主張するマレイシアと、ゲリラの撤収を政治問題とからませようとするインドネシアの主張とが対立して会談は行きつまり、なんら結論を得ないまま、休会するに至った。
タイ、フィリピン両国は、その後もなお調停工作を続けているが、インドネシアの英国に対する反感にはきわめて根強いものがあり、他方、マレイシアは英国をはじめ、英連邦諸国の固い支持を受けて、きわめて強硬な態度を示しているので、問題の全面的な解決までには、今後なおいくたの曲折を重ねるものと思われる。
韓国では、一九六三年初頭以来軍政延長か民政移管かをめぐって政情不安が続いたが、四月頃になって民政移管への輪郭が次第にはっきりしてきた。
この間、一月に政治活動の自由が認められたのに伴って、政府与党として民主共和党がいち早く発足したが、つづいて、民政、民主、新政の各党をはじめとし、多くの政党が名乗りをあげ、野党勢力は細分化された。そこで、野党各派の間では、来るべき大統領および国会議員両選挙を目ざして、各党の連合ないし統合の工作が進められたが、各党間には永年にわたって醸成されてきたふみ越えがたい溝があり、結局、野党単一大統領候補問題で意見がわかれ、その大同団結は不成功に終った。他方朴正熙国家再建最高会議議長は、八月三十日現役を退いて民主共和党に入党するとともに、同党大統領候補の指名を受諾した。
大統領選挙は、十月十五日に行なわれ、朴正熙候補に対し野党側からは六名が立候補した。しかし、選挙戦は実質的には朴正熙候補と民政党尹ボ善候補の一騎打ちの格好となり、僅少の差をもって朴候補が当選した。ついで十一月二十六日に行なわれた国会議員選挙も、民主共和党の勝利に終わり、民主共和党は一七五議席中一一〇議席を占め、単独で院内の安定勢力を確保することに成功した。かくて、十二月十七日には改定憲法にもとづく「第三共和国」が発足し、二年七カ月におよんだ軍政は終りをつげた。朴大統領の下の新内閣の首班には崔斗善氏が就任した。
他方、韓国の経済情勢をみるに、政情の動揺を反映し、また外貨不足が原因となって、経済活動は停滞し、インフレが高進するなど種々の困難が生じていた。なかんずく、一九六二年には未曾有の凶作に見舞われ、そのため六三年夏には食糧が不足し、国民生活は窮乏した。日本赤十字社は七月に、韓国赤十字社に米麦四万トンを贈与した。また、米国政府は、韓国政府の要望に応え、十一月一千万ドルの追加援助を行なった。
民政移管とともに新発足した朴政権は、対内的には、物価高に象徴される経済困難を克服して民生の安定をはかり、対外的には、対米関係の調整に努力するとともに、速やかに日韓会談を妥結させ、日韓関係を正常化するとの施政方針を明らかにした。
日韓会談は、その難関と目されていた請求権問題の解決について、一九六二年末に両国間で大筋の合意に達した結果、六三年に入ってからは、交渉の焦点は漁業問題に移ったが、韓国政情の動揺を反映して、漁業交渉の進度は鈍りがちであった。七月末欧米からの帰途日本に立ち寄った金溶植韓国外務部長官は、大平外務大臣と二回にわたり会談し、漁業問題を中心に意見の交換を行なったが、これもさほどの成果をあげずに終った。
韓国側は、民政移管が実現するや、前述の施政方針にもとづいて、交渉を促進したいとの意向を表明してきた。これに対し日本側としても、諸懸案が合理的内容をもって解決されるかぎり、日韓会談の早期妥結にはもとより賛成である旨を明らかにするとともに、そのためには会談の成否を卜する漁業問題の討議を進展させる必要のあることを改めて強調した。
一九六四年に入り、双方の漁業交渉に臨む態度は、一段と熱の入ったものとなったが、二月下旬に至り、韓国側は、さらに早急に漁業高級会談を開くとともに、これまでの予備交渉を正式会談に切りかえ、他の諸懸案の討議も煮つめたいと申し入れてきた。かくて、日本側赤城農林大臣、韓国側元容ソク農林部長官との間の漁業閣僚会談が三月十日から開かれ、ついで三月十二日には、予備交渉が正式会談に切りかえられた。このようにして両国農相による会談は、四月六日まで十二回にわたって開かれた結果、大筋の合意成立までには至らなかったが、漁業問題の核心に触れる意見の交換が行なわれ、少なからぬ成果を収めた。
しかしこの間、三月二十四日ソウルで日韓会談即時中止等をスローガンとした学生デモが発生し、これが数日間にわたって続くとともに、各地に波及し、折から滞日中であった金鍾泌民主共和党議長が本国に召還されるという事態が生じた。このような情勢を背景として、元容ソク農林部長官は本国政府と打ち合せのためいったん帰国したいとの意向を表明し、農相会談は四月六日をもって一時休会に入った。
この学生デモは、東京で継続中の日韓会談が最終段階に到達し、四月妥結、五月調印説が伝えられるにおよび、かねて「対日屈辱外交反対」を唱えていた野党各派が、ソウルはじめ主要都市で、日韓会談反対講演会を開いたことに刺激されたものであった。そしてそれは、日韓国交正常化自体に反対するというよりも、むしろ政府の対日交渉姿勢をとらえ、その是正を求めることを主眼としていた。
これに対し、韓国政府当局は、日韓会談を継続するとの既定方針を変更する意図のないことを明らかにする反面、デモを強圧する態度に出ることを極力避け、三月二十六日には朴大統領が特別談話を発表し、「学生諸君の国家の将来を憂うる気持を肝に銘じて会談に臨む」との趣旨を述べるとともに、学生達がとくに強く要求していた滞日中の金鍾泌民主共和党議長の本国召還を実行する等当面は穏和な態度で臨んだこともあって、差し当りは大事に至らず平静に復した。
わが国は、一九五二年に中華民国政府との間に日華平和条約を締結して、それ以来一貫して中国を代表する政府として同国との伝統的な友好関係の維持発展に努めてきた。
しかるに、一九六三年夏から六四年初頭へかけて、倉敷ビニロン・プラントの中共向輸出問題、周鴻慶事件等をめぐり、日華両国関係は相互の国情に対する理解の不足、意思疎通の欠如等によって一時冷却するに至ったが、六四年二月吉田元総理の訪台などを契機として、両国間の友好関係は回復に向つた。今後日華間においては、たがいに国情を理解しそれを尊重することを前提とし、ひとしく自由陣営に属する両国の伝統的な友好関係がさらに発展することが期待される。
他方、中共をめぐる動きについては、昨年末行なわれたジョルジュ・ピコ元フランス国連大使、エドガー・フォール元フランス首相の中共訪問等により、フランスと中共の関係が注目されていたところ、一九六四年一月二十七日、パリと北京において、両国政府が外交関係を設定し、大使を交換することに合意した旨の共同声明が発表された。ついで二月十日、フランス政府と国民政府との外交関係は断絶した。
フランス、中共間国交樹立決定に対して、自由陣営諸国は一般に冷静な受け取り方をしており、上記のフランスの中共承認後三月末までに中共を承認したのはコンゴー(ブラザヴィル)一国にとどまっている。