中 ソ 論 争

 

中ソ関係は、数年来次第に悪化してきたが、過去一年の間にさらに急速にその度を加え、対立が公然化してきた。

一九六三年七月五日からモスクワで開くことに合意された中ソニ党会談を目前に控え、中共は六月十四日にソ連共産党中央委員会あてに書簡を送り、「国際共産主義運動の総路線」に関する見解を表明し、ソ連共産党綱領、コメコン統合問題等についてまで激しく批判を浴びせた。この二党会談は七月五日より十九日まで、中共側はトウ小平を、ソ連側はスースロフをそれぞれ団長として行なわれたが、二十二日に至り「一時休会する」旨のコミュニケを発表し、事実上の決裂に終った。この間、ソ連共産党中央委員会は、十四日に中共批判の公開状を発表し、中共指導者の分派活動を激しく攻撃した。

他方、ソ連政府は七月、モスクワで米英両国との間に核兵器実験禁止に関する交渉を進め、同二十五日条約の仮調印を行なった。中共はこの条約をもって、世界人民を愚弄するもので、これを暴露することは中共の神聖な任務であるとし、七月三十一日核兵器の全面禁止を実現するために、全世界の首脳会議を開くべしとの提案を、周恩来の名で各国首脳あてに送った。

核禁問題をめぐる中ソ両国政府間の論争は、政府声明の形で七月から九月へかけて、それぞれ三回ずつの応酬があった。こり応酬を通じて、両国間に国境紛争があること、ソ連より中共への原爆見本および原爆製造のための技術資料の供与に関する協定が破棄されたこと、一九六〇年にソ連が技術者を引揚げ、経済関係の取決めを多数破棄したこと等、中ソ国家関係における機密事項が明らかになった。

ソ連側は、九月二十一日付政府声明で、中共側が今後もなお敵対的行動を続けるならば、「決定的反撃」を加える旨の強硬な態度を示したが、十月下旬以降は、公開論争停止の呼びかけを行なうとともに、公然たる反中国宣伝を手控え、十一月二十九日には党書簡をもって、公開論争を停止し、両国関係の具体的問題について協議することを提案した。しかしながら、中共はその後も対ソ非難をゆるめず、一九六四年三月末までに合計八篇の論文を発表したほか、一連の文書や国際的会合等でソ連の指導権に挑戦をつづけた。この間、ルーマニアは三月初旬党代表団を中共に派遣し、中ソ和解への努力を試みたが、中共はこれをも拒否した上、三月三十一日に「フルシチョフ修正主義」の清算とモスクワ宣言、声明の修正を求める論文を発表し、一歩も譲らぬ態度を表明した。

中共のこのような強硬態度にかんがみ、ソ連も四月三日に、二月中旬の党中央委員会総会で採択されたスースロフ報告を発表するとともに、公開論争を再開し、あくまでも中共を糾弾ずるとの態度を示し、また、各国共産党に対しても、世界共産党会議を速やかに開いて、中共に対し集団的措置をとることに同調するよう勧奨した模様である。しかし、国際共産主義運動の分裂をおそれる各党は、チェッコ、ブルガリア、東独、フランス等若干の党を除いては、ソ連に追随することを躊躇したものとみられる。

他面、国際共産主義運動の内部における中ソ双方の多数派工作はその後もますます激化するとともに、いわゆる前線組織内部における両派の対立や、アジア・アフリカ地域を主とする中共派独自の各種組織結成工作等が目立っている。

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