一 世界の動きとわが国

 

 

東 西 関 係

 

かねてジュネーヴの十八カ国軍縮委員会で行なわれていた核兵器実験禁止交渉は行き詰りを示していたが、一九六三年四月末から米英両国首脳とソ連首相が行なった書簡交換によって活路が見出された。その結果三国会談が七月十五日からモスクワで開かれ、七月二十五日に至って部分的核兵器実験禁止条約が仮調印の運びになった。そして三国代表は八月五日に署名を終え、同八日からすべての国が署名できるよう開放されたが、署名国総数は、米英ソ三国を含み、一〇九カ国に達した。この条約は十月十日米英ソ三国による批准書の寄託が行なわれ、即日発効した。

この条約が長い交渉ののちについに調印をみるに至ったのは、核戦争の可能性をできるだけ減少し、核兵器の拡散を防止し、かつ放射性残渣の危険を除去するため、核兵器の実験禁止を行ないたいという、米英ソ三国共通の希望が、キューバ事件の教訓によって強められ、それに、アメリカとしては核兵器の対ソ優位を持続できるという戦略的理由、ソ連としては国内経済に力を注ぐため西方との融和を必要としだしたという事情、イギリスとしては経済的圧迫を緩和したいという希望など、それぞれの特殊事情が加わったようである。そこで、査察の問題をめぐって米ソ間に容易に話合いのつかない地下実験は、条約の対象から除外することで妥協が成立したのであった。

わが国は八月十四日米英ソ三国の首都でこの条約に署名した。周知のとおり、わが国は従来から核兵器実験の全面的禁止を一貫して主張し、この目的達成のために努力してきた。したがって、この立場からみれば、この条約は地下における実験を部分的に許容している点で、必らずしも満足できるものではない。しかし将来における全面的核兵器実験禁止の実現へ向かう第一歩としての積極的意義を認めて、これに署名したのである。なお、わが国は六月十五日米、英、ソ三国首都においてそれぞれの国の政府に対し批准書を寄託し、正式にこの条約の締約国となった。

一九六三年九月に開かれた第十八回国連総会は、この部分的核兵器実験禁止条約が成立したあとでもあり、明るい空気に包まれ、一般に大きな期待が持たれた。しかし東西関係に関する現実の成果は、米ソの合意にもとづいて軍縮委員会十七カ国(構成十八カ国のうちフランスは参加していない)の共同提案の形で提出された核兵器物体の軌道打揚げ禁止に関する決議案が、満場一致で採択(十月十七日)されたことのほかは、とくにみるべきものはなかった。

この間、十~十一月には、ドイツ(西)から西ベルリンへ向う米英軍小部隊の通行を、ソ連軍当局がいわゆるベルリン交通路の入口で阻止する事件が数回にわたり発生し、また十一月には、ソ連を旅行中の米国エール大学バーグホーン教授がスパイ容疑でソ連当局に逮捕される事件もあった。

このように、核禁条約の調印で盛上りをみせた東西間の緊張緩和への気運が停滞していた矢先、十一月二十二日、ケネディ大統領が暗殺される事件が発生した。

これに対し、フルシチョフ首相はその翌日弔電を送り、ケネディ大統領を「広い見解を持ち、情勢を現実的に評価し、現在世界を距てている国際諸問題を話合いで解決する方法の探求に努めた活動家」であったと述べて、その死を丁重にいたみ、また同日のモスクワ放送も、「ケネディ路線がその後継者の政策の土台になるように」との期待を表明した(これと対蹠的に、中共はこの事件に対してきわめて冷たい態度を示した)。ケネディ大統領の後を受けたジョンソン新大統領も、就任後初の演説で、「ケネディ精神」を推進する意向を表明するとともに、東西関係については、「力の対決と力の制限の双方に対して同時に準備を行ない、国家の利益を守ると同時に、共通の利益について交渉する用意を持つべきである」と言明し、東西双方はそれぞれ交渉継続の気構えを示した。

ジョンソン大統領は、一九六五年度予算教書において、国防予算については六四年度よりも八億ドル少ない予算歳出を提案し、また、ソ連最高会議も、国防費を六三年度に比し六億ルーブル減じた新年度予算案を可決ずるなど、双方に緊張緩和にそった動きがみられた。

このほか、米ソの二国関係において改善に向って若干の進展がみられた。すなわち、一九六三年に凶作に見舞われたソ連は、カナダ、オーストラリア等のほか、米国からも大量の小麦買付を行ない、六四年二月には、米ソ文化新協定も調印された。

また、クリスマスの休暇に際して西ベルリンの住民が東ベルリンを訪問するための合意が、東独と西ベルリン市当局との間で成立し、本件訪問が六一年の「ベルリンの壁」構築以来始めて実現した(十二月十七日)。

しかし一方、六四年一月ジュネーヴで再開された軍縮委員会の会議は、本質的な進展をみせるに至っていない。開会早々米ソは、それぞれの提案を提示したが(一月二十一日)、核兵器拡散防止および奇襲防止対策としての監視所設置の両問題が、米ソの各提案に共通して揚げられているにもかかわらず、ソ連は、NATOの多角的核戦力計画の破棄を前者の条件に、関係地域の兵力削減と非核武装化を後者の条件としてそれぞれからみ合わせる態度を固執しているので、話合いが進まない。そのほか、ソ連側が核兵器運搬可能爆撃機の全廃、一〇~一五%の軍事費相互削減等を主張しているのに対し、米国側は、戦略核兵器運搬手段の凍結、類似の型の爆撃機の同数ずつの廃棄、核分裂物質の生産停止、同物質の平和目的への転用等を主張して対立している。ただ、四月下旬にいたり、兵器用核分裂物質の生産を削減することについて米英ソ三国の間に了解が成立し、三国首脳が生産削減計画をそれぞれ一方的に声明して(四月二十日、英国は二十一日)、軍縮問題においても、米ソ話合いの基本線には変りがないことが確認された観があった。

この間にあって、東西両陣営の内部では多元化の傾向が顕著になってきた。後述の中ソ論争は、その最たるものであるが、東欧諸国でもルーマニア等に自主的な動きが現われており、また、西側では、フランスが中共との外交関係樹立を決定(一月二十七日)して波紋を投じ、また、ヒューム英首相も対共産圏貿易問題について米英間に見解の相違がある事実を記者会見で明らかにした(二月)。

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