六 海外移住の現状と邦人の海外渡航
一九六一年十月、わが国は欧州移住政府間委員会(ICEM)に始めてオブザーバーとして参加したが、これは同年十二月日本・アルゼンティン移住協定が署名されたこととともに、移住外交上画期的なことといえよう。前者については、わが国はすでに国際カトリック移住協議会(ICMC)の協力を得ているが、政府レベルの国際移住機関たるICEMにオブザーバー(会議において発言権を有する)として参加することができたのはさらに意義深いことであり、これによりわが海外移住はわが国と移住者受入国との二国間の問題であるだけでなく、広く国際的視野より処理し得る可能性が生まれたと言えよう。後者については、協定前文に移住者に繁栄の機会を与える送出国の利益と、受入国の経済開発に必要な産業上の技術および資材の導入を伴うすぐれた労働力を受け入れる受入国の利益を考慮するとの主旨の文句があり、一九六〇年十一月に署名された日本・ブラジル移植民協定とともに移住に関する新しい理念(第五号十七頁参照)を確立するものである。なお、一九六二年二月、日本海外移住振興株式会社は、アルゼンティンとの移住協定調印を機として、同国に対し綜合調査団を派遣した。
移住者の送出および受入の状況については三十六年度の送出者数は、国内経済情勢の影響により六、二六三名であった。しかし、一九六一年において技術移住が軌道にのり、今後その発展が有望視されるに至ったことは、受入国に対する技術協力および移住職種の多角化という点から注目するべきことである。また、その促進を図るため一九六一年十一月技術移住調査団(外務・労働両省関係者よりなる)がブラジルおよびアルゼンティンへ派遣された。このほか、一九六一年においては、グァタパラ地区への自営開拓移住が開始され、他方過去に行なわれたドミニカ移住が問題となったので、政府としてはこれが対策につき種々努力した。
日本海外移住振興会社は、三十六年度は移住地の購入を極力差し控え、既購入移住地の造成と農業移住者に対する小口貸付に重点をおく事業方針をとった。三十七年度はさらにこの方針が強化されることになっている。
なお、海外移住のための財政支出は、三十六年度は前年度よりも増加し、移住者援護ならびに受入態勢が漸次強化されつつある。また、国内における移住実務の第一線に当る各都道府県海外協会の経費(事業費を除く人件費・庁費)が三十七年度より外務省予算(従来は農林省予算)に計上されることとなった。
「欧州移住政府間委員会(ICEM)」は、戦後の西欧諸国における過剰人口を国際的な協力の下に解決することを目的として一九五二年にジュネーヴで設立されたもので、加盟国は、イタリア、オランダ、ドイツ、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジル、アルゼンティン等、欧州の送出国と、それらの受入国合わせて三十カ国、その事業としては、移住者の輸送関係のほか、送出、受入、配置および定着に関するサービスの提供等を行なうもので、設立以来今日までに取り扱った移住者の数は約百万人といわれる。
わが国としては、かねて移住促進上の見地からこれに参加したい希望で、打診を試みたところ、ICEMが欧州諸国のための地域機構である性格上、加盟は困難であるが、オブザーバーなら加盟国の同意が得られれば差支えないとのことであった。そこで、一九六〇年初め以来、各国の事前同意を得るための話合いを行なったところ、ほとんどの国に異議はなかったが、少数一部の国が、域外からの参加はICEMの建前上好ましくないとして同意を渋ったため、三つの会期(一九六〇年春、秋および一九六一年春)を見送らざるを得なかった。しかし、一九六一年夏に至ってようやく全加盟国の同意が得られた。よって、一九六一年十月ジュネーヴで開かれた第十五回理事会には、わが方から青木在ジュネーヴ公使以下の出席をみた。
毎年春秋二回開かれるICEMの理事会には、前記加盟国のほか、オブザーバーとして国連、ILOその他各種の宗教団体等世界の移住に関係ある主だった機関や団体が多数集まるので、わが方としてここに出席することは、ICEM自体の持つ知識や機能や業績を学ぶだけに止まらず、世界の移住に関係ある主要各国、機関および団体の当事者と直接接触できることとなり、その面からも、情報資料を収集し、あわせてわが立場のPRを行なうなど、わが移住を広く国際的な協力に訴える途が開けることとなった。
かくて、わが移住は、ここに従来の二国間だけの殻を破って、広く多角的、世界的なものとのつながりができる緒につくに至ったもので、これは、やがて一世紀に垂んとするわが移住の歴史上初めて見られる画期的な段階であり、わが移住の促進上かなりの効果があるものと期待される。
アルゼンティンは、戦後イタリア、オランダ、スイス等との間に移住協定と締結し、これら欧州諸国よりの移住者の受入れに努めてきたが、最近は欧州よりの移住者が減少する傾向にあり、同国としても、各州ごとの日本人移住者受入許可枠の緩和、日本人移住者に対する入国許可および査証付与に関する手続の簡易化等を実施するなど日本人移住者の受入を促進する気運が醸成されつつあった。
このような情勢の下に、一九六一年八月オルフィラ在京アルゼンティン大使より高木移住局長に対し、フロンディシ大統領訪日の機会に両国間に移住協定を締結したい旨の希望が表明されたので、わが方もこの要望に応じ、爾来交渉を重ねた結果合意に達し、同年十二月二十日東京において小坂大臣とカルカノ外相との間で本協定が署名された。
本協定の締結により、日本人のアルゼンティンヘの移住は、農業移住ばかりでなく技術移住も促進され、日本人移住者は第三国の移住者と同等の待遇を与えられ、かつ、内国民待遇を与えられるので、日本人移住者の地位も著しく安定するものと期待される。
なお、本協定の締結により、わが国は日本人移住者の主なる受入国であるアルゼンティン、ボリヴィア、ブラジルおよびパラグァイとそれぞれ移住協定を締結したことになる。
昭和三十六年度(一九六一年四月~一九六二年三月)において、政府は、移住振興費として約十三億三千七百万円(支度費および渡航費貸付代金の繰越分を含まず)を計上したほか、日本海外移住振興株式会社の増資分五億円を引受けた。
移住振興費のうち、二億二千五百万円は日本海外協会連合会の本部および在外支部補助金であるが、これは前年度に比し約一一・三%の増額である。
また、移住者支度費補助金として一率に大人七、○○○円、子供三、五〇〇円、幼児一、七五〇円が支給された。
昭和三十七年度予算の移住振興費には約十三億八千六百万円(支度費および渡航費貸付金の繰越分を含まず)が計上されている。
なお、三十七年度においては地方海外協会に対する人件費および庁費の補助金が計上された(三十六年度までは農林省に計上されていた)。
戦後すでに十年を経る海外移住は、実質的に無法律状態で行なわれてきたが、昭和三十七年度はぜひとも移住基本法その他の関係法規を制定し、併せて移住機構の改革整備を実現すべく、目下移住局では鋭意準備中である。
昭和三十六年度の移住者送出予定数は一一、○○○名(農業移住者一〇、○○○名および技術移住者一、○○○名)であったが、実績は国内事情の影響により六、○○○名前後と推定される。
一九六二年三月五日現在の国別内訳は次のとおりである。
ブラジル 四、六二五名 コロンビア 八名
パラグァイ 六三八名 ウルグァイ 二名
ボリヴィア 二一一名 ドミニカ 二名
アルゼンティン 四八名 アメリカ合衆国 一名
計 五、五三五名
技術移住の募集は一九六一年二月に開始された。一九六二年三月四日現在すでに第四次の送出が終了し、一九六一年九月の初回送出以来四二名の技術移住者(同伴家族を含めれば七八名)がサン・パウロおよびブエノス・アイレスの会社に就職決定、移住した(因みに、求人は一四社より二二七名あり、これに対する応募者数は二〇〇名であった)。
この間現地事情とくに求人会社側の希望する職種および作業内容に関する彼我の調整ならびに受入態勢の実体を把握するため一九六一年十一月中旬技術移住調査団を現地に派遣し、約五十日間にわたりサン・パウロ市周辺およびブエノス・アイレス所在の諸工場を調査せしめた。
全国拓植農業協同組合連合会(全拓連)が一九五七年三月頃からコチァ産業組合との提携の下に計画を進めていたところのサン・パウロ州にあるグアタパラ耕地の一部約七、三〇〇ヘクタールの土地の低地部に灌漑施設を施し、自営植民地を創設する事業は、日本海外移住振興株式会社がこれを引継き、その在伯子会社JAMIC移植民有限会社がコチア産組、日本海外協会連合会(海協連)および全拓連の協力を得て行なうこととなり、一九六一年七月二十六日外務大臣より事業計画の許可を受け、JAMICは同年八月伯移植民院に対して計画移住地としての登録を行なうとともに日本人移住者二六二世帯導入許可を申請したところ、九月十九日付をもって原則的に承認されたので、直ちに造成工事を開始し、目下続行中である。
日本からの入植者のあっせんは海協連が山形、茨城、長野、岡山、佐賀、山口、島根の諸県の海外協会を通じ、全拓連、県拓連の協力を得て行ない、現地転住入植者のあっせんはコチア産組が得なうことになっている。
しかし工事は一九六一年十月開始され、一九六三年に完了する予定であって、三十六年度に一〇〇家族、三十七年度に一六二家族の送出を計画しているが、一九六一年三月十三日現在までの送出実績は二〇家族である。
ドミニカヘは一九五六年七月より一九五九年八月まで十一回に亘り二四九家族、一、三一八名が移住したが、一九六〇年六月のヴェネズエラ大統領暗殺未遂事件を契機として米州機構二十カ国がドミニカに対し外交断絶、経済封鎖の挙に出たため、同国の経済事情は、加速度的に悪化しはじめ、邦人移住者もその影響を免かれ得なくなった。一九六一年二月ネイバ地区移住者より集団帰国の陳情が行なわれ、この形勢は、漸次他地区にも波及した。一九六一年九月トルヒリョ元帥が暗殺されるに及んで、生活補助命の削減、停止等の措置は、卜元帥暗殺前から起っているドミニカの政情は混乱し、移住者に対するドミニカ政府の援助にも変化を来たした。よって政府は、数次にわたり係官を派遣し、現地調査の結果、(イ)現地定着を希望する者には海協連の指導の強化および移住会社の融資の活用によりこれを助成する、(ロ)南米転住を希望する者には移住会社の融資によりその実現を援助する、(ハ)生活困難のため帰国を希望する者には国援法を適用して旅費を貸付け帰国させる、との対策を樹て、まず上記(ハ)より実施に移した。すなわち、一九六一年七月より一九六二年三月までの間に一三六家族六二八名(うち国援法による帰国者一三〇家族六一二名、自費帰国者六家族一六名)が本邦へ帰国し、また、一九六二年三月現地より五家族二九名が南米へ転住した(パラグァイへ五家族二三名ブラジルへ一家族六名)。
前記帰国者に対しては、三六年度予備費より国援法帰国旅費七、四四〇万円および帰国後の国内援護費八八一万円を支出し、関係各省および帰国者の出身区県の協力をも得て、就職、住宅、融資のあっせん等、その援護更生にできるだけの努力を行なっている。
農業労務者派米協議会によるカリフォルニア州向け短期邦人労務者の送出は、米国の景気後退が影響して、一時その送出を見送らざるを得なかったが、その後事情好転により、再開第一陣、四〇名が一九六二年一月に、続いて九一名が同年三月末送出された。一九六一年においては契約期限前に帰国したものはなく、帰国者の就業状況はおおむね良好であり、帰国者総数一、四二二名中、対象となった一、三八二名のうち、帰農者は九六三名、中南米へ移住した者六七名、同上待期中の者四〇名、再渡米二四名、北海道等への入植三七名、農業関係事務職員五五名、非農業関係事務職員一二二名、自家営業者四八名、学生二六名となっている。なお在米労務者は前年に比し五~一〇パーセントのベース・アップを見た。
日本農業の近代化、中南米移住の促進、東南アジアの農業に対する技術援助をモットーとした帰国者による自主的な組織が、現在全国三十二県において結成され活動している。
また、日本石炭経営者協議会で行なっている西独への本邦労務者を選抜派遣する計画は好評裡に行なわれており、一九五七年五九名、一九五八年一八○名(以上帰国ずみ)、一九六〇年六〇名、一九六一年六十七名計三六六名の炭鉱労務者を派遣した。これらの炭鉱労務者は、西独ルール地方の炭鉱に三年間就労するが、労務者の就労成績および生活態度は極めて良好なため、この計画の姉妹計画として炭鉱離職者を派遣する計画の日独政府間取極が一九六一年一月三十日付で成立し、五年間に一、五〇〇名を送出するが、その第一陣七〇名が一九六二年三月西独向け出発した。
日本海外移住振興株式会社は、昭和三十六年度五億円の増資(政府出資)により資本金二十八億円となり、また米国市中銀行から三〇〇万ドルの第五次借款(政府保護)を受け、これらの資金により活発に移住地事業、移住関係金融および直営事業を行なった。昭和三十六年度の事業方針としては、移住地の購入を極力差し控え、既購入移住地の造成と農業移住者に対する小口貸付けに重点を置いた。
昭和三十六年度においては、移住振興連絡会議(外務・大蔵・農林・通産・労働の各省移住担当官会議)の承認を得て第二トメアスー移住地とピニヤール移住地(いずれもブラジル)を購入することに決定したが、両者ともに造成工事の開始および移住者の受入期については、さらに具体的に検討中である。
他方会社は既購入移住地(別表参照)の造成、整備を推進し、一九六一年四月から十二月までの間、これらに約一億四千万円の資金を投入した。
一九六〇年四月より改訂施行の融資基準は実情にそぐわない点が多々生じてきたので、一九六一年十一月、会社は「移住者に対する農業融資基準」を定め(従前の「自営農業移住者に対する融資実施要領」を改訂)従来の融資条件をさらに緩和して、移住者の営農および定着の促進をはかることになった。
すなわち、渡航前融資では一戸当り貸付限度額五〇万円のうち農機具購入資金三〇万円、営農資金二〇万円の枠をはずし、実情に即し五〇万円の範囲内で右いずれについても融資できるように融通性をもたせた。現地融資は個人と団体に分け、個人融資の一戸当り貸付限度額については、(イ)長期営農資金は三〇万円を五〇万円に、(ロ)短期営農資金は二〇万円を三〇万円に、(ハ)土地購入資金(従前の「独立資金」)は三〇万円を五〇万円に、それぞれ引き上げた。団体融資の貸付限度額については、(イ)設備資金(従前の「共同利用施設資金」)は一戸当り三〇万円を組合員または出資者一名当り五〇万円とし、また、新たに(ロ)運転資金を設け、組合員または出資者一名当り三〇万円まで融資しうることになった。
これらの融資は、一九六一年四月より十二月までの間に一九四件、約四億円に達している。昭和三十六年度における企業に対する融資は、移住振興連絡会議において二件が決定せられ、一件(伯国オリンニヨス座組-八六〇万円)は実口施されたが、他の一件(コロンビア国パルミーラ日農物物産-一億円)は、契約手続未了のため未だ貸付けされていない。
会社の直営事業としては、ブラジル拓植組合より買収のチエテ牧場およびパラグァイ国エンカルナシオン農業倉庫の経営があるが、三十六年度においては、右両事業を継続実施したほか、エンカルナシオンに第二倉庫の建設に着手し、また、ボリヴィア国サンタクルスに敷地三千平方メートルを購入の上、農業倉庫一棟の新設を準備中である。
アルゼンティン国との移住協定署名に伴い、同国への移住の促進を図るため、一九六二年二月移住会社より調査団を派遣した。調査団の目的は、(一)拓植投融資事業の綜合的企画立案のための現地関係機関との折衝、(二)入植適地選定のための適地鯛査であり、約一ヶ月間に亜国側官憲の協力を得て現地調査を行ない、これに基づき対価移住振興のを具体的立案をする予定である。
会社創立(一九五六年)以来一九六一年末までの会社事業実績は次表のとおりである。
一九六一年中、外務省において邦人の海外渡航のため発行した旅券の総数は、六五、七九八冊(旅券の冊数は、渡航人員数と一致しない。十五才未満のものは、各三人まで両親の旅券に併記できるからである)で、一九六〇年に比較すると八、六四四冊(一五%)の増加である。一九六〇年における渡航者の増大が、一九五九年に比べ一四、六五五冊(三四%)の激増振りを示した主たる理由は、「わが外交の近況」第五号第二二九頁所載のとおり、わが国の経済界が、好況で対外経済活動が、活発となり、貿易および為替自由化の措置がとられた結果、渡航用外貨の制限が、大巾に緩和されたためであるが、一九六一年は、設備投資による輸入超過その他輸出不振等により十月以降、国際収支改善のための一対策として海外渡航制限が強化されたので前述の如ぐ増加率の低減を見るに至った。
なお、平和条約締結以降(一九五二年~一九六一年)におげる旅券の発行数は、計三四七、三二九冊(別表一参照)である。
一九六一年の渡航者を渡航目的により大別すれば、次のとおりである。
(イ) 一般旅券
渡航目的 発行冊数 百分率
経 済 活 動 三四、四七三 五六%
文 化 関 係 一一、二八九 一九%
永 移 住 一〇、五三八 一七%
家族および同伴者 三、一四一 五%
そ の 他 二、〇六八 三%
計 六一、五〇九 一〇〇%
注 その他とは、知人近親者訪問、病気治療および見舞、米軍用務、墓参等を指す。
(ロ) 公用旅券
渡航目的 発行冊数 百分率
外 交 一、一六五 二七%
公 用 三、一二四 七三%
計 四、二八九 一〇〇%
これら旅券発行冊数を前年の一九六〇年に比較すれば、経済活動(一九六〇年までの統計分類は、渡航用外貨の費目に従って集計してきたが、一九六一年からこれを渡航目的別に改めたので、昨年の本報告中に別個に掲記していた商用および役務契約は、主として経済活動中に包括されている。一九六〇年の商用は、二三、八五五冊、役務契約は、四五六八冊である。)は、以上の理由により数字上正確な比較を期することができないが、大体六、○○○冊ぐらい(一五%)の増大、文化関係は、三、一二五冊(三八%)、公用は、八四五冊(二四%)それぞれ増加したのに反し、その他は、四、一〇二冊(六六%)永移住は、四一五冊(三%)を各々減少した。
なお、従来の渡航用外貨別区分による役務契約中には、技術契約、興業、外国船雇用船員等が含まれていたが、このうち興業を除くいわゆる民間技術協力(コロンボ計画等による公用を含まない。)のための一九六一年における海外渡航者を拾い上げて見ると約三、一六〇冊に達する。
一九六一年上半期(一月~六月)における一般旅券(三一、四〇三冊)による渡航者の地域別延べ人数(例えば一名が一冊の旅券で二カ国に渡航した場合には、二名として計算する。)は、八○、三七二名で、前年同期に比し、二三、三七八名(四〇%)を増加した。前記八○、三七二名の内訳は、欧州三三、九二〇名(四二%)、北東、東南アジア一五、九四三名(二〇%)、北米一五、〇五〇名(一九%)、南米六、〇三二名(八%)、南西アジア二、九三四名(四%)、アフリカ二、二七四名(三%)、中近東一、五八七名(二%)、中米一、三七三名(一%)、大洋州大平洋諸島一、二五九(一%)の順位である(別表二参照)。
欧州は、一九五九年以来、依然として首位を占めているが、これは、主として欧州とわが国との経済および文化関係が引続き増進していることによるものと察せられる。
ついで、同期間の国別渡航者数について見れば、米国最も多く一三、〇五九名(前年同期比一一%増)、二位香港五、一五八名(同五七%増)、三位英国五、一二六名(同六三%増)、四位ドイツ五、〇三五名(同五三%増)、五位フランス四、七〇三名(同五二%増)で以下イタリア四、〇九六名、ブラジル三、五〇〇名、スイス三、四三二名、タイ二、二五八名、オランダ二、一三五名の順位となっているが、客年二位を占めていたブラジル(三、五七二名)がわずかながら七二名を減少し、第七位に落ちたことは、注目に値いする。
追って、中華民国は、一、四七〇名で前年同期に比し四一六名を増加したのに対し中共は、一六四名を数え、前年同期より二八名減少したが、ソ連は、六四四名に上り前年同期の三四八名に比べ二九六名を加えた。次に韓国が前年同期の三七名から四三七名に飛躍したことは、同国の外国人に対する入国政策が緩和されたためであらう。
別表一
別表二