三 わが国と各地域との間の諸問題
アジア関係 |
一九六〇年四月、李承晩政権が退陣してから、韓国には日本との間に友好親善関係を求める機運が急速に拾頭した。張勉新政権はその施策の重点の一つに日本との国交正常化をかかげ、日韓会談の妥結にきわめて意欲的であった。これに呼応して日本側にもこの機に多年にわたる諸懸案を早急に解決すべきであるとの声が高まった。
かかる情勢の下に、小坂外務大臣は同年九月はじめ、戦後初の公式使節として、韓国を訪問し、鄭外務部長官との間に、日韓全面会談予備会談を開くことに合意した。
かくて第五次日韓会談は日本側から沢田廉三首席代表、韓国側から兪鎮午首席代表をたてて、同年十月から翌年五月まで、約七カ月間にわたって東京において開催された。会談の進行状況は、諸懸案の内包する問題の複雑さと動揺する韓国の国内情勢のため、必ずしも十分満足できるものではなかったが、四月中旬には、あと一カ月で予備会談を打ち切り、その後日韓双方がそれぞれ国内調整を行なった上、九月ごろに本会談を開いて、高度の政治的観点に立った解決をはかるのが適当であると判断されるまでになっていた。
このときに当たり、突如五月十六日、韓国に軍部によるクーデターが発生し、張勉政権が倒れたため、日韓会談はここにまた中絶のやむなきに至った。
クーデターの結果成立した軍部政権は、クーデター直後の非常事態においては、政治、経済の諸施策において相当過激とも思われる措置をとった。また七月初めに張都暎前国家再建最高会議議長らの反革命事件が摘発され、最高会議議長の地位には、クーデターの真の指導者の一人であるといわれていた軍部政権の実力者たる朴正熙副議長が就くという事態も起こった。しかし、軍部政権は、不正、腐敗の一掃など革命の第一段階を乗り切るとともに、七月以降、従来の諸措置を漸次緩和し、施策の重点を現在の韓国において最も必要とされる経済の再建と民生の安定におき、このため、七月十五日には「沈滞状態にある経済活動を正常化するため」緊急経済施策を発表するなど、穏健化の方向をとるようになった。
一方、軍部政権は、その対外政策に関しては、その革命公約の中で、国連憲章を遵守し、国際協定を忠実に履行し、米国をはじめ自由友邦との紐帯を一層鞏固にするとの基本線を明らかにしたが、対日関係については、五月十九日、「韓日関係は国民の望む方向にそって解決する」との方針を明らかにし、ついで、五月二十四日、金弘一外務部長官は「日本との外交関係樹立に対するわれわれの信念と努力は前政権と変らない」、「日韓会談は今年中に再開したいと考えている」旨を述べ、軍部政権の対日政策が、日韓会談をすみやかに再開し、早急に国交を正常化することにあることを闡明した。
七月四日、崔徳新大使を団長とする韓国政府の東南アジア訪問親善使節団が来日した。崔団長は五日池田総理大臣を訪ね、朴韓国最高会議議長からの親書を手交し、軍部クーデターの意義を説明するとともに、新政府は過去のいかなる政府よりも日韓国交の早期打開に誠意をもって積極的に努力する決意を有している旨強調し、この問題の解決には両国が互いに誠意を示し合うことが必要であると述べた。
ついで七月十一日、朴正熙最高会議議長は、日韓問題についてその見解を表明し、韓国政府はすみやかに日韓会談を再開できる準備を進めていると述べた。
他方、韓国の国内情勢が安定するに伴って米国の対韓態度も漸次好転しはじめた。米国政府はクーデター直後には軍事政権に対し若干の危惧の念をいだいていたようであったが、七月二十七日、ラスク米国務長官は、韓国軍事政権に対する米国政府の見解を明らかにし、「新軍事政権の今までの努力は、韓国国民の正常な願いが今後数年のうちに実現されるとの新たな期待をいだかせるものであり、米韓両国の緊密な協力が確立される新しい基礎が出来つつあることを歓迎する」と述べた。
このラスク声明は、米国政府が初めて公式に朴政権を支持する態度を表明したものとして注視された。
こうした内外の事情に鑑み、わが国としても、韓国側から日韓会談を再開したいとの申し入れがあれば、これを拒否すべき理由はなく、むしろ進んで会談の再開に応じ、日韓両国関係をすみやかに本然の姿に帰すことが妥当と考えられるようになった。しかし、今後の日韓会談を円満に進めるには、韓国の政治、経済、社会情勢を的確に掴むことが是非とも必要であると認められた。
そこで七月二十一日、伊関アジア局長は朴昌俊在日韓国代表部代表代理を招致し、在韓日本政府代表部の設置を要求する覚書を手交した。日本側は、これまで日本の代表部を韓国におくよう再三要求してきたが、今回の覚書では、「日本政府としては今後韓国側と諸般の交渉を行なうに際し、韓国国内の政治経済情勢を十分把握することの必要性を痛感しており、その意味で韓国政府がこの際在韓日本代表部の設置に直ちに同意されるよう強く要望するものである。このような代表部は、日韓国交正常化がすみやかに実現する場合には、在韓日本国大使館設置の準備のためにも必要であり、また何らかの理由により国交正常化が遅れる場合には、在日韓国代表部と同様の任務をもつ政府機関としての存在意義をもつものと考えられる次第である」と述べられていた。
これに対し、八月二日、李東煥公使から伊関局長に対し、韓国政府の否定的回答が伝えられたので、伊関局長より、わが方としては代表部という呼称にこだわるものではないが、刻々流動する韓国情勢を随時的確に把握しておらねば会談を再開し推進することが困難であるから、どうしてもそのための機関を現地にもっことが必要であるとくり返し説明し、種々意見交換の結果、さしあたりの妥協策として、日本政府係官の随時韓国出張について韓国側は反対しないことに了解が成立した。
これにより前田北東アジア課長は、八月七日韓国情勢視察のため訪韓、ついで九月三十日、卜部参事官は通産、農林両省の専門家とともに経済事情調査に韓国に赴いた。
かかる折柄、八月十二日、二年後(一九六三年夏)の民政移管を確約した要旨次のような朴正熙議長の声明が出された。
(イ) 一九六三年初頭より政治活動を許可し、同三月までに新憲法を制定し、同五月総選挙を実施し、同年夏に文民政府を樹立する。
(ロ) 新しい政治形態は大統領責任制とし、国会は一〇〇ないし一二〇議席の一院制とする。
(ハ) 現在から一九六二年末までは国内体制改革の過渡的段階とし、経済開発五カ年計画の第一年度計画を積極的に推進する。
この声明は、軍部政権が国際的信用と国民の支持をかちえる上で大きな意義をもった。わが方においても、同声明を歓迎し、民政復帰への具体的方針を明らかにしたことを歓迎するとともに、韓国の事態が安定の度を加え、その施策が着実に進められることを期待するとの趣旨の外務省情報文化局長談話を同日発表した。他方韓国側においても、八月十四日、宋尭堯讃韓国内閣首班兼外務部長官が、「韓国革命政府は、一日も早く日韓国交が回復されることを望み、会談再開に万全の準備を整えており、日本側が合意すればいつでも再開できる」との趣旨の談話を発表することなどがあって、日韓会談再開への機運はようやく熟するに至った。
そして、九月上旬の金裕澤韓国経済企画院院長の来日は、さらに会談再開への空気を盛り上げることになった。金院長は、自民党石井日韓問題懇談会座長の招待をうけて来日したのであるが、同院長の来日は、会談再開前にむずかしい問題について日本側の意向を打診し、あわせて日韓双方の見解を調整するふくみをもつものとみられた。金院長は、八月三十日から九月九日までの滞日中、池田総理はじめ政府および自民党首脳部ならびに財界関係者と会い、請求権問題、漁業問題、経済協力問題などについて日本側の意向を打診し、とくに九月一日および七日の両日には、小坂外務大臣と会見して、日韓会談の今後の進め方について意見を交換した。その際、金院長は、韓国側としては日韓会談を大局的見地に立って早くまとめたい考えであると前提して、諸懸案とくに請求権問題について日本側が誠意を示すならば、「李ライン」問題の解決も容易となろうと述べ、できるだけ早い機会に政治的解決に踏み切ることが望ましいとの見解を強く主張した。
これよりさき、駐日韓国代表部李東煥公使は、八月二十四日、伊関アジア局長を来訪し、日韓会談の再開を申し入れ、新会談の名称は第六次日韓全面会談とし、九月二十日前後に東京で開き、討議は一九六一年五月に打ち切られた第五次予備会談をそのまま引き継ぐことに一応の合意をみていた。ついで、李公使は、一時帰国して本国政府と打ち合せた後、九月二十一日伊関アジア局長を来訪し、韓国側としては首席代表に大物を起用したい意向なので、日本側においても政界の大物を首席代表に任命せられたいとの希望を表明、さらに、九月二十五日に至り、第六次日韓会談を十月十日に開催することに本決まりとなった。
ここにおいて、日本側においては首席代表の人選をいそぎ、韓国側の要望をも考慮し、十月四日、日本貿易振興会理事長杉道助氏を日本側代表に起用することに決し、その旨韓国側に非公式に通報した。しかるに、韓国の朴東鎮外務次官は、五日「韓国政府は、来る十日から開催予定の第六次日韓会談を当分の間延期する」と発表、七日、李公使は、伊関局長を来訪して、韓国政府が、会談延期措置をとったのは、日本政府の代表任命が韓国側にとって全く意外な人事と感ぜられたからであると延期理由を説明した。しかし、幸いにして、その後韓国側もその態度を改め、十月十二日宋堯内閣首班は、「第六次日韓会談はいくつかの事情のため延期されたが、再開のため近く必要な措置をとる」と述べ、他方同日、李公使は、伊関局長を来訪、「十月二十日から会談を再開したい」と申し入れるとともに、韓国政府は韓国側首席代表に元韓国銀行総裁ぺー義煥氏を決定した旨内報した。ついで十月十四日の伊関・李会談において、第六次日韓会談の十月二十日開催が正式決定し、ここに五月の韓国軍部クーデターによって中断された日韓会談は、五カ月ぶりに再開されることとなった。
かくして、十月二十日外務省において、日本側杉道助首席代表、韓国側ぺー義煥首席代表以下各代表および随員出席の下に、第六次日韓全面会談第一回本会議会合が開かれた。席上、杉・ぺー両首席代表よりそれぞれ挨拶が行なわれた後、こんごの会談の進め方を打ち合わせた結果、事務折衝と並行して政治折衝を行なうという方針が確認された。
ついで本会議第二回会合は十月二十六日に開催され、会議運営手続きを取り決めると同時に、委員会および小委員会の構成については、第五次会談のときと同じく、(イ)基本関係委員会、(ロ)韓国請求権委員会(この下に(1)一般請求権小委員会、(2)船舶小委員会、(3)文化財小委員会をおく)、(ハ)漁業および「平和ライン」委員会、(ロ)在日韓国人の法的地位に関する委員会を設けることを決定し、同日午後の漁業および「平和ライン」委員会を皮切りに各委員会の討議に入ることを決定した。その後、十二月二十二日に年内のしめくくりのための本会議第三回会合を開き、年明けの一月十六日に本会議第四回会合を開くことに合意し、一九六一年中の本会議および各委員会の討議を終わった。なお、同年末までに一般請求権小委員会と漁業および「平和ライン」委員会は各八回、船舶小委員会六回、文化財小委員会五回、および法的地位委員会三回の会合を開き、これと並行して随時非公式会談が重ねられた。
第六次日韓会談は、全体として極めて友好的雰囲気のもとに進行した。これは、十一月中旬の朴正熙議長の来日によって日韓双方の間に信頼感が深まったことが、大きな要因をなしていることはいうまでもない(朴議長来日の経緯については別項参照)。しかし、これとともに韓国政府が十一月五日、「李承晩ライン」を越えたとの理由で逮捕抑留していた日本人漁船員全員を釈放したことが会談の進行上好ましい影響を与えたことも見逃してはならない。かつての李承晩政権が、日韓会談の開催に当たって、日本人漁船員の抑留を常とし、ともすればこれを人質として有利な条件を獲得しようとはかる傾向さえみられたのに引きくらべて、軍部政権がとったこの釈放措置は日本側に好印象を与え、その円満妥結に大きな期待をいだかせるのに与って大きな効果があった。このような空気を反映し、本会議および各委員会を通じ、討議は能率的かつ建設的に進められ、とくに会談の焦点と目される漁業および「平和ライン」委員会と一般請求委員会における審議が好調な進捗ぶりを示したことは従来にみられないことであった。
次にこれらの討議状況をみるに、法的地位委員会においては、第五次会談に引き続き、永住権を付与する者の範囲、永住権を付与された者に対する退去強制および処遇、永住目的で韓国に帰還する者の持ち帰り財産の問題など、法的地位問題全般にわたって討議が行なわれた。この結果、日韓双方とも相手方の見解を理解するに至り、また問題点によっては双方の立場が相当の歩み寄りをみせた。
一般請求権問題については、第五次会談に引き続いて、さきに韓国側から提出された「韓国の対日請求要綱」、すなわち朝鮮銀行を通じて搬出された地金銀はじめ被徴用韓国人未払い給与など八項目にわたる請求要綱のうち、主要部分についての請求の根拠、内容などに関する韓国側の説明を聞き、日本側は、これに対する質疑を行なうとともに、一応の見解を表明した。
文化財問題については、第六次会談においても、韓国側は、一九〇五年以降日本に搬出された韓国文化財の返還を主張、これに対し、日本側としては、これらの文化財を韓国側に引き渡すべき国際法上の義務があるとは考えていないが、日韓間の友好関係を増進する上に有効と認められるので、両国間の文化協力というような形式で韓国側の要望をある程度充たすことにしてはと考えて交渉に臨んだ。
次に、わが国がもっとも関心を有する漁業および「平和ライン」問題については、第五次会談において韓国側は、わが方の強い要求により、この問題を一般請求権問題と並行して積極的に討議することに同意した。その結果、漁業協定の締結を前提として、資源論に関する討議が始められたが、第六次会談においてもまずこの討議を続けた。
これよりさき、ぺー義煥首席代表は年末年始の休会入りを前にして、十二月二十日池田総理を訪問、新年の休会明けとともになるべくすみやかに高いレヴェルでの会談を開き、事務折衝のみでは解決しない問題を大局的見地からまとめたいとの韓国政府の従来よりの強い希望を改めて表明した。わが国としても、会談の全般的妥結のためには、最終的には高いレヴェルでの会談が必要であることを認めてはいるが、請求権の事務折衝も必ずしも完了しておらず、まして漁業問題などの事務折衝は多くが今後に残されている実情にあるので、必ずしも韓国側の主張する如く高級会談のみが円満な妥結を促進する方途でないとの判断の下に、今後とも、さしあたり地道な事務的レベルの交渉をつづけ、必要とあればこれと並行して高級会談の開催も考慮したいとの態度を持した。
かくて、一九六二年に入り、予定どおり一月十六日に、本会議第四回会合が開かれ、二月以降各委員会もその討議をはじめ会談は全般として大きく前進した。その結果、かねて韓国側が希望してきた高級レヴェルでの会談開催の機も次第に熟してきたと判断されるに至ったので、日韓双方の間でその方法、時期などについて意見の調整をはかり、とくに二月二十一日には金鍾泌中央情報部長が東南アジア旅行の帰途日本に立ち寄り、池田総理を訪ねて、この問題について卒直な意見の交換を行なうなどのことがあった結果、三月十二日より十七日まで、東京において小坂・崔徳新両外相の会談が開催されるに至ったのである。
朴正熙韓国国家再建最高会議議長は、米国政府の招請により、十一月中旬ワシントンを訪問することとなったので、これを機会に、同議長が訪米の途次、日本に立ち寄り、池田総理と会談することは、日韓両国間の理解を深め、ようやく再開の運びとなった日韓会談を促進する上において、極めて有意義であると考えられた。よって外務省と在京韓国代表部との間で朴議長の日本訪問について意見の交換が始められていたが、十月二十四日来日した金鍾泌中央情報部長は,朴議長が訪米の往路、池田総理と会見することは極めて有意義であると思う旨述べるところがあった。そこで、わが方においては、池田総理の招請を伝えるとともに、池田・朴会談のお膳立てをする意味合いをも兼ね、杉首席代表を韓国に派遣することを決定した。杉代表は十一月二日韓国に赴き、翌三日、朴正熙議長を訪ね、賓客としてお招きしたいとの池田総理の親書を手交し、朴議長の承諾を得た。
かくて朴議長は、十一月十一日午後四時、大韓航空特別機にて羽田着、同夕刻総理官邸において池田総理に表敬後、総理主催の晩餐会に臨み、同夜は白金迎賓館に一泊、十二日午前総理官邸において池田総理と会談、その後内外記者会見、朴議長主催晩餐会等の行事を終え、同日午後十時羽田発ノースウェスト機にて米国に向った。
池田・朴会談は、和気靄々のうちに、約二時間にわたって行なわれたが、同会談の内容について、小坂外相は、(一)日韓間の問題、アジアの問題、さらに世界情勢全般について意見を交換し、大部分の点について合意をみ、(二)現在進行中の日韓会談の妥結のため、今後も引き続き双方とも最大の誠意をもって推進に努力することに意見が一致し、(三)現在の懸案問題のほか、日韓間における将来の諸般の問題についても今後さらに隔意のない意見の交換を行なうことに合意したことを発表した。
また、朴議長は、記者会見の席上、(イ)池田総理との会談に非常に満足していること、(ロ)請求権問題につき、韓国側は、戦争賠償を要求しているのではなく、確固たる法的根拠に基づいて要求しているのである。従って、この問題につき日本側がどの程度誠意を示すかが、日韓会談早期妥結の重要要因であること、(ハ)日本政府が請求権問題につき韓国民が納得できるほどに誠意を示せば、韓国政府としても平和ライン問題を相当に伸縮性をもって解決する用意があること、などの諸点を明らかにした。
顧みるに、約十年に及ぶ日韓会談史上、両国最高首脳者が親しく膝を交えて話し合いを行なったことは、今回の池田・朴会談をもって嚆矢とし、この意味で、朴議長の今回の来訪は両国間の歴史において極めて重要な一時期を画すもの、これを契機として、両国間に信頼感が深まったことは、日韓会談の進行ならびに今後の日韓友好関係の増進にとってはかり知れぬよい素地を作ったものということができるであろう。
一九五九年八月十三日カルカタで、日本赤十字社と北朝鮮赤十字会との間に在日朝鮮人の北朝鮮帰還協定が調印された。この協定に基づいて、同年十二月以降、在日朝鮮人で北朝鮮へ帰還することを希望するものの、いわゆる北朝鮮帰還が実施された。その後この協定は一九六〇年十月二十七日、その協定期限を一カ年延長し、同時に、帰還を促進するために一回の輸送人員を協定に定める約一、〇〇〇人から約一、二〇〇人に増加し、これを一九六一年三月一日から実施することに合意をみた。
帰還業務は順調に進捗し、一九六一年末までに合計七四、七七九人が北朝鮮へ帰国した。帰還者の数は、最初の約一年間は協定人員を超過し、盛況を呈したが、その後帰還業務の進捗するにつれて漸減し、一九六一年中の毎回平均帰還者数は六九一人となった。とくに同年七月下旬の第六十八次船および第六十九次船の帰還者数は、それぞれ六五九人および四二二人で、帰還業務は、全体としてすでに峠を越したことは明らかであった。
しかし、当時は、登録ずみの帰還申請者がなお相当多く、昨年七月一日現在一五、三八四人に上っていた。従って現在の協定期間内、すなわち一九六一年十一月十二日までの約四カ月半の期間内に帰還希望者全員の帰還を完了することは事実上困難であったばかりでなく、もともと、わが方が北朝鮮帰還に踏み切ったのは基本的人権に基づく居住地選択の自由の原則に出発したものであることにも鑑み、北朝鮮帰還協定をさらに延長することが必要とみられた。他方、北朝鮮赤十字会も七月二十八日付電報をもって日本赤十字杜に対し、北朝鮮帰還協定期限をさらに一カ年延長することを提案してきた。そこで、日赤は北朝鮮側のこの提案を受諾し、帰還協定を同年十一月十三日以降さらに一年間延長することに同意する旨同年七月三十一日付電報をもって回答した。
これとともに、同日「帰還業務はすでに峠を越しており、協定期間内でも状況によっては業務を終結することも考えられ、また来年さらに協定が延長されることは考えられない。帰還希望者ができるだけ早く手続きをすることを勧める」旨の日赤社長談話が発表された。
かくて、北朝鮮帰還業務は昨年十一月十三日以降も引き続き実施されることになったが、帰還者の数は依然減少をつづけ、毎回平均帰還者数は八月三一八人、九月二七三人、十月一〇四人、十一月六一人、十二月五五人と激減した。その結果、北朝鮮側は第八十一次船(十一月十七日出港)より従来の一回二船派遣の原則を一回一船のみを配船することに改め、さらに昨年末には毎月一回一船としたい旨申入れてきた。
他方、韓国側は、当初からわが方の北朝鮮帰還実施に対し強い反対の態度をとり、これを中止するよう累次申し入れを行ない、現軍部政権になっても、北朝鮮帰還に反対するという基本的態度にはなんら変りがない。昨年帰還協定の更新に際しても、韓国政府は在京代表部を通じ、在日朝鮮人北朝鮮帰還希望者を日本政府が送還していることは、韓国政府が日韓正常化を促進する上に大きな障害となっているので、日本政府は両国共通の利益のため「北送」事業を早急に中止されたい旨申し入れてきた。これに対し伊関アジア局長は、七月十三日、朴代表部代表代理を外務省に招いて、北朝鮮帰還問題については、自由意志で北朝鮮に帰ることを希望するものが多数ある限り、人道的見地からこれを赤十字の手で帰還せしめるのが、日本政府の当初からの基本方針であり、従って、なお相当数の帰還希望者がある限り、帰還業務を打ち切ることは困難であると述べるとともに、上述の北朝鮮帰還の実情を詳細に説明して、韓国側がわが国の立場を理解するよう求めた。
日比両国政府は、その代表を通じ、査証手数料の一部を相互に免除する目的をもって、これが取極を締結するための交渉を行なった結果、両国政府の間に合意が成立し、このための日本側土屋駐比大使と比側セラノ外務大臣との間の書簡(十二月六日付)の交換が十二月十二日マニラにおいて行なわれた。
前記書簡(取極)は、五十九日をこえない期間、業務もしくは観光またはその両方の目的でフィリピンを訪れる日本国民、および、六十日をこえない期間、業務もしくは観光またはその両方の目的で日本を訪れるフィリピン人は、査証料を免除される(昭和三十七年一月二十二日付外務省告示第十一号)という内容のもので、本取極は、二月一日から効力を発生した。
インドネシアは、一九六一年一月中旬から、全国を襲った集中豪雨のため西部ジャワをはじめ各地に大洪水が発生した。このため罹災者数は三十三万人、損害総額は「イ」貨八億五千万ルピア(邦貨約六十七億五千万円)以上の被害を蒙った。しかも、三月十六日には、東部インドネシアのフローレス島に大地震が発生し、同島のエンデー付近の建造物は約八○パーセント破損した。
このような近隣友好国インドネシアの度重なる災害状況にかんがみ、わが国政府は、衣料および薬品約一五〇万円相当分を罹災者救恤品として送付することに決定し、同年四月二十五日、同国駐在黄田大使を通じ同国政府に寄贈した。
さきに一九六〇年十月インドネシア側より申し入れのあった日・「イ」航空協定締結のための交渉は、先方の都合により延び延びとなっていたところ、一九六一年年十一月六日、インドネシア側は、ジャカルタにおいて、予備交渉を開始したい旨を申し入れてきた。
よって、わが方は、先方の希望に応じ、同年十一月二十日、同月二十二日および十二月十八日の三回にわたり、先方政府代表団とわが方在「イ」大使館との間で予備交渉を行ない、これに続き一九六二年一月十六日から、「イ」国代表団を東京に迎えて、正式会談を行なった。
その結果、短期日をもって協定案文について双方の合意が成立し、一九六二年一月二十三日、外務省において、小坂外務大臣とバンバン・スゲン駐日インドネシア大使との間で、「航空業務に関する日本国とインドネシア共和国との間の協定」の署名を了した。
一九六一年メコン河下流地帯を襲った異状増水により、ヴィエトナムおよびカンボディアは多大の水害を蒙った。これに対し政府は、三六〇万円に相当する医薬品、ミルクおよび衣類をヴィエトナムに、二〇〇万円に相当する衣類および薬品をカンボディアに、それぞれ見舞品として贈与した。
日本航空は一九六二年秋ごろカラチを経由する南廻り欧州路線の開設を計画しているが、このためわが国はかねてよりパキスタンに対し、航空協定を締結することを申し入れていた。両国間の航空協定締結交渉は、一九六一年四月、カラチにおいて行なわれ、同年十月十七日、カラチにおいて本協定の署名が行なわれた。近く国会の承認を経た上で、発効の運びとなる予定である。
池田内閣総理大臣は、パキスタンのアユーブ大統領、インドのネール首相、ビルマのウ・ヌ首相およびタイのサリット首相からの招待に応え、夫人および東畑首席随員以下を伴い、日航特別機にて一九六一年十一月十六日東京を出発、パキスタン、インド、ビルマ、タイの順で四カ国を親善訪問し、十一月三十日帰国した。
(1) パキスタン
途中カルカタで一泊の後、十一月十七日午後カラチに到着、二十日まで滞在したが、その間パキスタン官民の熱烈な歓迎を受けた。十七日にはカラチ市民歓迎大会、大統領主催晩餐会等が催され、翌十八日は、池田総理大臣とアユーブ・カーン大統領との間に、国際情勢、日パ経済技術協力、両国間貿易促進等の諸問題について友好的雰囲気のうちに、約二時間半にわたって会談が行なわれた。池田総理大臣は、また同日紡績工場、住宅地区等を視察し、在留邦人代表との懇談を行ない、同夜は、外務省主催晩餐会に臨んだ。十九日、大統領専用機により古都ラホールに赴き、史跡、回教寺院等を訪れた後ラホール市民歓迎大会に臨み、同夕は西パキスタン州知事主催晩餐会に出席した。二十日ラホールよりカラチに帰り、アユーブ・カーン大統領との間に左の如き共同声明を発表し、午後インドのニュー・デリー向け出発した。
一、池田総理大臣は、モハマッド・アユーブ・カーン大統領の招待により、夫人とともに一九六一年十一月十七日から二十日までの間。パキスタンを訪問した。
二、総理大臣は、十一月十八日大統領官邸において大統領、その他パキスタンの政府高官と会談し、昨年十二月の大統領の訪日の際に結ばれた友情をさらに深めるとともに、現下の国際情勢および両国が相互に関心を有する諸問題について話し合った。会談は極めてなごやかな雰囲気のうちに行なわれた。
三、大統領と総理大臣は、国際平和機構としての国際連合の権威を高め、かつ、その機能を強化するため、両国政府が協力して、さらに一層の努力を払うべきことを再確認した。
四、大統領と総理大臣は、核兵器実験の禁止について関係諸国間に必要な査察と管理を伴う国際協定が速やかに締結される必要ことに意見の一致を見た。
五、大統領と総理大臣は、世界の恒久平和を実現するために、有効な国際管理のもとでの全面的完全軍縮計画について合意に達することの必要性を強調した。
六、大統領と総理大臣は、両国間の通商貿易が、昨年の大統領の訪日の際に、大統領と総理大臣とによって署名された日・パ友好通商条約に基づいて、着実な発展をしていることを認め、これを一層発展せしめるために、両国がさらに努力すべきことに意見の一致を見た。
七、大統領と総理大臣は、両国間の経済技術協力が順調に進捗しており、多数の研修生、専門家の受入れ、東パキスタン農業訓練センターの順調な運営、さらに最近日本の対パキスタン借款に関する交換書簡が調印されたこと等を通じ、その実績が現われていることに満足の意を表明した。総理大臣は、パキスタンの第二次五カ年計画の効果的実施のために、日本のパキスタンに対する経済および技術協力を一層促進することに好意的考慮を払うことに同意した。
八、大統領と総理大臣は、両国間の政治、経済および文化の各分野における友好協力関係が今後ますます緊密化されることを希望する旨を表明した。
九、総理大臣は、大統領から皇太子および同妃両殿下に寄せられたパキスタン訪問の招待に対し、皇太子殿下は天皇陛下の御名代として同妃殿下とともに御訪問になることを決定した旨を大統領に伝達した。皇太子および同妃両殿下は明年一月下旬にパキスタンを訪問される予定であり、このことは、両国間の友好関係の一層の増進に寄与するものであることが強調された。
(2) イ ン ド
十一月二十日午後パキスタンよりニュー・デリー空港に到着、インド官民挙げての歓迎を受け、二十三日まで滞在した。その間ネール首相主催晩餐会、副大統領(大統領病気のため)主催午餐会が催され、総理もまたネール首相以下政府要人、外交団等を晩餐会に招待した。総理は二十一日および二十二日と二回にわたり、ネール首相と会談し、外交方針、東南ア情勢、戦争と平和の問題、経済協力の問題等について友好裡に忌憚のない意見の交換を行なうとともに、二十一日にはインド側経済閣僚と、主として日・印経済協力の問題について懇談した。また、滞在中総理は、ラジガート(ガンジーの墓)を参拝、デリー市民歓迎大会に臨み、また、村落開発実施状況、日・印経済技術協力事業、インド産業博覧会等を視察した。十一月二十三日ニュー・デリー空港を出発、途中アグラに立寄り、タージ・マハル等を訪れた後ビルマに向った。
同日、次の如き池田総理大臣・ネール首相共同声明が発表された。
池田総理大臣は、インド政府の招待により、夫人とともに、一九六一年十一月二十日から二十三日までの間インドを訪問した。
ニュー・デリー滞在中、池田総理大臣はネール首相と会談し、両国に共通の関心ある諸問題につき隔意なき意見の交換を行なった。会談は極めて友好的な雰囲気のうちに行なわれた。
両国首相は、世界平和の維持が単に目印両国の経済発展と繁栄およびアジアの安定と経済的繁栄のためのみならず、人類および文明の存続のために必要不可欠の条件であることに意見の一致をみた。両国首相は、世界平和と国際安全の維持を共同の目標とすることを確認し、この目標達成のためにあらゆる可能な方法で努力することに意見の一致をみた。池田総理大臣はこの点に関連してネール首相が平和のために行なってきた真摯な努力を多とする旨述べた。
両国首相は、国際平和と正義のための機構としての国際連合の権威を高め、かつ、その機能を強化するため共同して努力することが緊要である旨を強調した。
両国首相は、核兵器実験の継続の結果、放射能降下物が人類に及ぼすべき影響について深い関心を表明し、かかる実験の継続が核戦争と人類の全面的滅亡を来たすべき危険を孕むことについて憂慮した。両首相は、核兵器実験が即時停止されるべきであることおよび効果的査察と管理を伴う核兵器実験禁止に関する協定が速やかに締結されるべきであることを強調した。
両国首相は、関係諸国が効果的国際管理および監視を伴う一般完全軍縮に関する協定を締結することの重要性を確認した。
両国首相は、両国間の互恵的経済関係の重要性について同意し、かかる関係の緊密化を達成する方法について協議した。池田総理大臣はネール首相に対し、インドの第一次および第二次五カ年計画の成功に対して祝意を表し、第三次五カ年計画も成功を収めることを衷心希望する旨表明した。
池田総理大臣は、ネール首相に対し、日本が今後インドに対する経済技術援助を可能な範囲内で強化する用意があることを確言した。
両国首相は、目印両国民を結ぶ文化的精神的紐帯の長い伝統を想起し、日印文化協定のもとに両国間の文化・教育・科学上の交流をさらに促進すべきことに意見の一致をみた。
両国首相は、今次のインド訪問の機会に世界情勢に関するそれぞれの見解について相互理解を深めたことに満足の意を表した。
両国首相は、今次訪問中に確立された個人的接触が今後も相互に連絡することによって続けられるようにとの希望を表明した。
(3) ビ ル マ
十一月二十三日午後インドよりラングーン空港に到着、大統領、ウ・ヌ首相以下官民挙げての歓迎を受け、二十六日まで滞在した。当国ではたまたま賠償再検討交渉のため来緬中であった小坂外務大臣が首席随員として一行に加わった。総理は二十四日、二十五日二回にわたり、ウ・ヌ首相と会談し、彼我の外交政策、ビルマの経済開発計画、賠償問題等について率直な意見の交換を行なった。滞在中、総理は、大統領主催晩餐会および園遊会、ウ・ヌ首相主催晩餐会等に臨んだほか、シェダゴン・パゴダおよびオン・サン廟に参拝し、ラングーン港を船上より視察した。また日本人墓地を参拝し、在留邦人代表とも懇談した。
総理は十一月二十六日午後ラングーン空港を出発、タイに向った。同日ウ・ヌ首相との間に左の如き共同声明が発表された。
池田総理大臣は、ビルマ連邦政府の招待により、夫人とともに、一九六一年十一月二十三日から二十六日までの間ビルマ連邦を訪問した。
ラングーン滞在中、池田総理大臣は、ウ・ウィン・モン大統領を訪問した後、ウ・ヌ首相その他政府指導者と会見し、現下の国際情勢および日・緬両国にとって共通の関心ある問題について意見を交換した。会談は、極めて友好的な雰囲気の中に行なわれ、両国間の相互理解を深めることに大いに役立った。
両国首相は、世界平和の維持が自国の経済発展と自国民の福祉のためのみならず、人類と文明の存続のために必要な前提条件であることに意見の一致を見た。また、両国首相は、日・緬両国が共に民主主義を国民のとるべき生活様式として選択している点において一致していることを相互に認めあった。両国首相は、これら共同目標推進のためにあらゆる方法によって緊密に協力するとの決意を確認した。
両国首相は、国際連合の全般的権威が高められその機能が強化されることの緊要なることに意見の一致をみ、従って両国政府がこの目的達成のために共同してあるいは各個別的にその努力を強化すべきことを誓った。
両国首相は、核兵器実験の継続の結果、放射能降下物が人類におよぼすべき影響について深い関心を表明し、かかる実験の継続が核戦争と人類の全面的滅亡をきたすべき危険をはらむことについて憂慮した。両国首相は、すべての核兵器実験は即時停止されるべきであること、および効果的査察と管理を伴う核実験禁止に関する協定が速やかに締結されるべきであることを強調した。
軍縮が恒久的世界平和への不可欠のカギであること、および現在の軍備競争が人類の将来にとって直接緊急の脅威であることを認めて、両国首相は、全人類の名において関係諸国に対し効果的国際監視を伴う一般完全軍縮計画に関する協定をできるだけ速やかに締結すべきことを訴えた。
両国首相は、賠償および経済協力に関する両国間の一九五四年の協定に基づき現在の賠償計画が順調に進捗しており、ビルマ連邦の経済発展に貢献しつつあることに満足の意を表するとともに、同協定の再検討については両国政府間で賠償増額について交渉が継続されることに意見の一致を見た。
池田総理大臣は、ウ・ヌ首相に対し日本が今後ビルマに対する経済技術援助を可能な範囲内で強化する用意がある旨を確言した。それと関連して同総理は、ビルマの第二次四カ年計画への関心を表明した。さらに両国政府の間で広汎かつ長期的な基礎にたって日・緬両国間の経済協力を促進する方途を見出す目的をもって合同の機関を設置することについて合意された。
両国首相は、日・緬両国間の貿易をさらに拡大する方法について意見を交換した。
両国首相は、両国間の政治、経済、文化の各分野における友好的協力関係が今後ますます緊密化されることを希望する旨を表明した。
両国首相は、今次の池田総理大臣のビルマ訪問の機会に再び個人的接触を新たにし、今後もかかる接触を維持し強化する旨の希望を表明した。
(4) タ イ
十一月二十六日午後ビルマより、バンコック空港に到着、二十九日まで滞在したが、その間タイ国官民の熱誠溢れる歓迎を受けた。総理は、国王、王妃両陛下に謁見、午餐を賜ったほか、サリット首相主催晩餐会および外相主催午餐会に臨んだ。サリット首相と二十七日、二十八日と二回にわたり会談し、タイ特別円問題、東南アジア情勢、日・タイ経済協力等の問題について極めて忌憚のない意見の交換を行ない、とくに特別円問題については、過去数年来両国間の懸案であったが、この機会に解決をみるに至った。また滞在中戦勝記念塔を訪れたほか、王宮寺院を参観し、電気通信センター、日本人小学校等を視察し、また在留邦人永年功労者の表彰を行なった。
十一月二十八日サリット首相との間の次の如き共同声明を発表し、翌二十九日午後バンコック空港を出発し、香港に立寄り一泊の後、三十日帰国した。
一、池田総理大臣は、サリット首相の招待により、夫人とともに一九六一年十一月二十六日から二十九日までの間タイ国を訪問した。
二、バンコックに滞在中十一月二十七日総理大臣夫妻は、国王、王妃両陛下に謁見を賜った。また総理大臣は、サリット首相その他タイの指導者と両国が共通の関心を有する国際間の問題ならびに両国間の問題について会談した。会談は極めて友好裡に、かつ十分な相互理解のもとに行なわれた。
三、両国首相は、国際平和維持機構としての国際連合の権威を高め、かつその機能を強化するため、両国政府が協力してさらに一層の努力を払うべきことを確認した。
四、両国首相は、あらゆる核兵器実験を即時禁止すべきことならびに核兵器実験の禁止について関係諸国間で適切な査察と管理を伴う国際協定が締結される必要があることに意見の一致を見た。
五、両国首相は、有効な国際管理のもとでの一般完全軍縮について国際協定を締結することが必要であり、かかる国際協定は、国際平和および協調を実現せんとする諸国の協力を促進することとなる旨強調した。
六、両国首相は、特別円問題の最終的解決の基礎となるべき新しい原則について完全な意見の一致を見た。また両国首相は、特別円問題の解決に関する日・タイ両国間の一九五五年の協定中の関係規定に代るべき新協定に右原則を織り込む目的をもって両国政府の代表者が直ちに会合することに合意した。
七、両国首相は、東南アジアの情勢の重大なることに強い関心を有する旨を表明した。この点に関連し、池田総理大臣は、タイがこの地域における自由諸国の一員として確固たる外交政策を維持しているとともに、国内にあってはタイが着実に国家建設計画を推進していることに敬意を表明した。
八、両国首相は、近来の両国間貿易の趨勢に満足の意を表するとともに、両国間の貿易の一層の均衡せる発展のためさらに努力を払うことに合意を見た。また両国間の貿易ならびに経済協力の一層の促進を図るために、両国間に速やかに二重課税防止条約を締結するための交渉を開始することに合意した。
九、両国首相は、近年両国間の経済技術協力が着実に進捗し多数の研修生専門家の派遣受入れ、すでに順調に運営されている電気通信訓練センター、最近調印を見たビールス研究所設立計画、すでに実施済の南タイのロンピブン、パタルン間の道路建設調査および近く実施予定のケンリアン・ダムの建設調査、さらにECAFEによるメコン河共同開発計画、とくにサコン・ナコム市周辺のナム・ガム・ダム計画参加を通じその実績が現われていることに満足の意を表明した。
池田総理大臣は、タイ政府がとくに重点をおいている東北部開発計画に寄与するため、タイ東北部に技術訓練センターを設置する計画に協力することにつき好意的に考慮する用意がある旨表明した。
一〇、両国首相は、とくに鉱物資源の調査と開発ならびに工業活動の分野における日・タイ両国の経済協力を促進する方法を見出す目的をもってさらに協議することに意見の一致を見た。
一一、両国首相は、両国間の政治、経済および文化各分野における友好協力関係が今後ますます緊密化されることを希望する旨を表明した。
一二、両国首相は、池田総理大臣のタイ訪問が両国の友好関係の増進にとって極めて有意義であったことに満足の意を表明した。
今回の訪問は、各国とも短期間の滞在ではあったが、いたるところにおいて各国官民の熱誠溢れる歓迎を受け、また各国が新しい国造りのために若々しい努力を続けている実情に接するとともに、各国の首脳者と隔意のない意見の交換を行ない、その個人的接触により相互理解を深めることができた。このことは、今後日本とこれら各国とが、あるいは両国間の話合いを進め、あるいは国際場裡において相携えて進む上に非常に役立つものと期待される。
わが国と東南アジア諸国との関係は、通商および経済協力の分野において近年ますます緊密の度を加えつつあるが、これら諸国との通商、経済協力、ならびに文化交流を一層促進するために、わが国は、これら諸国との租税条約締結に努力をはらっている。わが国はこれまで一九五九年五月にはパキスタンと、一九六〇年六月にはインドと、また一九六一年一月にはシンガポールとそれぞれ租税条約を締結したが、さらに本年三月にはタイとの租税条約の仮署名が行なわれた。
戦時中日・タイ間のすべての決済を行なう手段として日本銀行に設置されたタイ銀行名義の特別円勘定の日本側借越分十五億円、戦時中日・タイ間に成立した金売却取極の未実行分(金塊にして約九屯)、および金塊未引渡分(約○・五屯)について、戦後、タイは、わが国にクレームを提起していたが、右クレームは昭和三十年春ナラディップ・タイ外相の来日の際の交渉によって彼我の間にその解決方法について意見の一致をみ、右に基づいて昭和三十年七月九日バンコックにおいて本協定が調印され、八月五日発効をみた。
本協定によれば、わが方はタイに対し、
(a) 五年間にわたり五十四億円に相当するスターリング・ポンドを(初年度は十億円、その後四年間は毎年十一億円)支払う(第一条)とともに、
(b) 経済協力として、合意される条件および態様に従い、投資とクレディットの形で、九十六億円までの資本財および役務を供給する(第二条)ことになっている。
協定第一条に基づく五四億円の支払いは、昭和三十年度より支払いを開始し、昭和三十四年五月をもって全額支払、いを完了した。
しかしながら、協定第二条に規定されている経済協力の実施に関しては、協定発効後、タイ側が「本件経済協力は、九十六億円の資本財および役務の無償供与である」と主張し、わが方の、「本件経済協力は投資およびクレディットの形式で供与されるものであるから、あくまで償還を前提とするものである」という立場と対立した。
わが方としては、右協定の文言の解釈に関する立場を堅持しつつも、タイ側の立場も考慮して、本件経済協力の実施を通じてなんらかの形で実質的にタイ側が九十六億円に相当するものを取得できるような案を数次にわたって作成し、これをタイ側に提案して解決に努めてきた。しかしながらタイ側は、「投資およびクレディットの形式」なる文言を認めたことはタイ側の落度であることは認めつつも、そもそも日本の戦時中の債務を返済する目的の協定を実施した結果タイ側が債務者となるような解決方法は、タイの国民感情としてどうしても受け入れられないので、これを直ちにもらえるような方式で解決してもらいたいと要望してきた。
政府としては、協定の文言の解釈に関するわが方の立場は正しいものと信じているが、本件が長期にわたって身近なアジアの友邦であるタイとの間の懸案となっていることは、好ましくないので、上記タイ側の要望、日・タイ両国の伝統的友好関係、ならびに日・タイ両国間の緊密な経済関係等を慎重考慮の結果、昭和三十六年十一月池田総理大臣がタイを訪問した際、サリット首相との会談において九十六億円を八年間に分割して支払い、タイはこれをわが国の生産物および役務の調達にあてるという方式により本件の最終的解決をはかるという原則に意見の一致をみた。この原則に基づいて、本年一月より、バンコックにおいて新協定締結のための交渉が行なわれた結果、一月三十一日在タイ大江大使とタナット外相との間で協定署名が行なわれた。
新協定は、前文でこの協定が昭和三十年協定第二条および第四条に代わるもので、これにより特別円問題に関連するすべての問題が解決されることを明らかにしており、またその主たる内容は、九十六億円の八年賦支払いならびに日本国の生産物および日本国民の役務の調達方式についての規定である。
一九五五年四月十六日に発効した日緬平和条約により、わが国は、ビルマに対し十年間にわたり総額二億ドルの賠償と五〇〇〇万ドルの経済協力等を行なうこととなっているが、同条約の第五条第工項(a)のIIIにより、わが国は、他のすべての国との賠償問題が解決したときに、その結果と賠償総額の負担に向けられるわが国経済力とに照らして「公正なかつ衡平な待遇に対するビルマ連邦の要求を再検討する」ことに同意している。一九五九年四月、ビルマ政府は、この規定に基づいて、賠償の再検討方を求めてきた。よって同年七月より在京ビルマ大使とわが方事務当局との間において種々折衝が行なわれてきたが、ビルマ側は、フィリピンおよびインドネシアに対する賠償額と比較して少なすぎるから、これを増額してもらいたいと主張し、これに対しわが方は、ビルマに対する賠償額は他の求償国に対する賠償額と比較して必ずしも均衡を失していないと主張し、両者の主張が、平行線を辿ったまま、交渉は進展しなかった。しかしわが方としては、本件が長期にわたり身近なアジアの友邦たるビルマとの間の係争問題となっていることは好ましくないと考え、かたがたビルマがこれまでわが国に対して示した好意に報いるために、ビルマの経済および福祉に対する有効な協力四〇〇〇万ドルを無償で供与することにより本件の解決を図ることとし、この旨一九六一年一月小坂大臣より在京ビルマ大使に申し入れた。これに対し、ビルマ政府は右解決方針には同意したが、金額については二億ドルを要求してきた。このビルマ側の要求に対して、わが方は検討の結果、同年六月無償協力の金額を七五〇〇万ドルまで引上げることを提案した。
しかしながらビルマ側はわが方の提案に納得せず、本件の政治的解決を計るため、同年九月末、タキン・ティン大蔵大臣を長とする交渉団をわが国に派遣し、無償供与は従来どおり二億ドルとし、ビルマ側はこれを全額日・緬共同事業に出資し、日本側もこれと同額を出資することを期待するという趣旨の新提案を行なった。わが方としては、右方式は別として、金額の点でこれに応じられず、さらにラングーンで交渉を続けることになった。よって、同年十一月、わが方は小坂外務大臣を首席代表とする交渉団をビルマに派遣して、交渉を行なった。この結果、両国間の理解は深まったが、依然として金額について折合いがつかなかった。
しかしこのような累次にわたる交渉や、また池田総理大臣が同年十一月にビルマを訪問した際のウ・ヌ首相らビルマ側首脳者との話合いを通じて、この問題についての双方の立場に対する理解も深まったので、遠からず解決をみるものと思われる。
わが国の求償国に対する賠償およびこれに伴う経済協力の実施は、ビルマについては約七カ年、フィリピン約五カ年半、インドネシア約四カ年ヴィエトナム約二カ年、ラオス約三カ年、カンボディア約二カ年半の年月を経過し、一九六一年末現在賠償等支払総額は一、二〇七億円に達している。わが国の賠償借与は単に求償国の復興のみならず、各求償国の経済開発や民生安定に貢献しているとともに、賠償によりわが国の重機械や建設技術等の真価を海外に認めさせた効果もきわめて大きい。
一九六一年におけるわが国の賠償実施のあとを顧みるに、各求償国とも賠償調達が順調に行なわれているが、インドネシアについては、その調達が急速に増加し、支払財源を超過するおそれが生じたため、昨年末より契約の認証は、支払財源を厳重に検討しながら行なっている実情にあり、また、フィリピンについては一九六一年十一月の大統領選挙により政権が交替したため、一時賠償調達が停とんしたという特殊事情があった。対ラオス経済技術協力は、同国の政情等の理由により、停滞を余儀なくされている。
各求償国に対する賠償実施状況の概要は次のとおりである。
ビルマに対する賠償および経済協力協定は、一九五五年四月十六日発効し、一九六一年十月から賠償第七年度に入っている。賠償総額七二〇億円のうち昨年末現在における契約認証額は四六九億円、支払済額は四五三億円に達している。
この賠償供与の内容を品目的にみると、最も大きなものは初年度より建設に着手されたバルーチャン水力発電所計画関係の資材および役務で、この計画に対する認証額は一〇一億円に達している。このほか各品目別認証額を挙げれば、鉄道車輌、自動車類、自転車類、船舶等運搬用機器類一二三億円、農業、土木機械、繊維機械等の一般機械類五二億円、電気機器類四七億円、プラント類一二億円、鋼材その他金属製品八一億円、魚罐詰七億円、検査、輸送、技術者派遣等の役務五億円等があり、上記金額にはビルマ鉄道復興計画関係の資機材約六〇億円が含まれている。
ビルマ賠償は、品目の種類が多岐にわたっており、わが国の製品をビルマ人になじませ、わが国の商品の市場開拓に役立っている。とくにバルーチャン水力発電所は、それまで海外進出の経験に恵まれなかったわが国建設技術に海外進出の先鞭をつけ、また同発電所のほか、精糖工場、車輌修理工場、養蚕、陶磁器製造、乳業等の各工場では相当数のわが国技術者が技術指導にあたった。
このほか協定により、わが国は、ビルマに対し合弁事業の形で十年間に五千万ドルの経済協力を行なうこととなっているが、バルマにおいて社会主義経済を実施している等の事情もあり、日本側業者との合弁交渉は難航している。従来から綿紡績、鉄鉱石開発等の交渉も行なわれたが、最近にいたって竹パルプ工場、百貨店経営等の話合がなされている。しかし協定発効以来成立したのはパイロット万年筆の合弁ほか一件のみである。ビルマ政府は、昨年九月投資法の企業国有化条項を大幅に緩和する等外資優遇策を講じている。
フィリピンに対する賠償協定は、一九五六年七月二十三日に発効し、一九六一年七月から賠償第六年度に入っている。賠償総額一、九八○億円のうち一九六一年末現在における契約認証額は四二八億円、契約認証を要しない沈船引揚等の費用を含めて支払済額は四四三億円に達している。
この認証額を品目別にみると、船舶一九四億円、航空機一一億円、鉄道車輌一一億円、自動車類二一億円、機械類、電気機器類二六億円、セメント工場、製紙工場等のプラント類九五億円、鋼材送電線材料等の金属製品三九億円、役務等九億円等が主たるものである。フィリピン賠償で注目されるのは、賠償調達の大部分を占めるのが、船舶や各種作業プラント類等資本財であり、これら賠償物資が、同国の海運をはじめ各種産業の育成に大きな役割を果していることである。
フィリピンに対する経済協力としては、経済開発借款に関する日比間の交換公文によって、二十年間に二億五千万ドルの長期貸付または類似のクレディットの民間商業ベースによる供与につき両国政府は容易化、促進化の措置をとるべきことと規定されている。一九六一年三、四月この具体化をめぐりフィリピン側と交渉を行なった結果、従来の民間ベース実績約七千万ドルを本件借款枠に入れることにつきフィリピン側で検討すること、今後の契約については比側より借款枠に入るものであることを明示して延払供与促進方を要請すること、わが方はケース・バイ・ケースにできる限り有利な条件で借款が供与されるよう検討を加えること等の合意が成立した。これに基づき一九六一年九月経済開発借款による内航船の調達促進方フィリピン側より要請があり、調達条件も両政府間ですでに合意をみたが両国民間企業間の契約は成立していない。
一九五九年九月の両国政府間の交換公文によるマリキナ河多目的ダム建設計画および電気通信網拡充計画に対する賠償引当借款は、マリキナ計画が三、五五〇万ドル、電気通信計画が一、二三〇万ドルをそれぞれ限度としていた。その後フィリピン政府より電気通信計画の一部をカガヤン鉄道延長計画にさしかえたい旨の提案があり、電気通信計画第一期工事分を除く残額五八○万ドルまでを限度として賠償引当借款を供与することとなり、この旨の書簡交換が一九六一年十月十四日に行なわれた。これら三計画のうち電気通信計画第一期工事分の契約が一九六一年十月末成約認証されたが、マリキナ計画およびカガヤン鉄道計画については一九六一年十月および十二月にそれぞれ入札が行なわれたにもかかわらず、フィリピン大統領選挙後の政権交代等比側の事情により、まだ契約締結をみていない。
インドネシアに対する賠償協定は、一九五八年四月十五日に発効し、本年三月に賠償第四年度が終了する。賠償総額八〇三億八八○万円のうち、一九六一年末現在における契約認証額は三二一億円、支払済額は教育訓練計画、使節経費等を含め二五八億円に達している。
この認証額を品目別に見ると船舶七四億円、鉄道車輌五億円、自動車類三一億円、ロードローラー一二億円、その他の土木農耕用機械、繊維機械等の機械類およびスラバヤ海軍工廠ドック用ディーゼル発電設備計四四億円、製紙プラント三二億円、合板プラント二億円、綿紡績プラント三一億円、鋼材およびレール類二三億円、肥料七億円、パルプおよび繊維製品一一億円、コーラン六・五億円、ネヤマ・トンネル工事およびカリ・ブランタス計画の調査設計一一億円、ムシ河架橋関係費一五億円などが主たるものである。
インドネシア賠償の内容は右の如くであるが、フィリピン賠償と同様、船舶、機械、プラント類等が主要部分を占めており、また、カリ・ブランタス計画等の開発計画は今後引続き進められて行くものと考えられる。
インドネシア賠償において特筆すべきは、賠償第三年度からはじめられた教育訓練計画である。この計画は、留学生については五年間にわたり毎年約一〇〇名、合計約五〇〇名を受けいれ、わが国の国立および私立大学に在学させて造船、電気工学、電気通信、鉱業、冶金、航海、漁業、農業、繊維、銀行業、商業、医学等の各分野の教育をほどこし、また研修生については、七年間にわたり毎年約二五〇名、合計約一、七五〇名を最高二年半の間わが国に滞在させて造船、海運、漁業、農業、繊維、観光業、手工業、銀行業務等多岐に亘る分野で技術訓練を行なおうとするものである。留学生はまず一年間国際学友会において日本語その他の基礎科目の教育を受けた後、各大学に配属される。また、研修生の研修は、アジア協会がインドネシア側の委託をうけて実施している。一九六一年末現在における在日インドネシア学生数は、第一陣、第二陣計約一九五名、研修生は、第一陣二三七名である。
インドネシアに対してもフィリピンの場合と同様に一九五九年十月の両国政府間の交換公文に基づき、船舶二〇〇〇万ドルまでおよびホテル八○○万ドルまで、賠償引当借款が供与された。船舶についてはすでに十六隻全部の引渡しが完了し、またジャカルタのホテル・インドネシアも一九六二年のアジア・オリンピックにそなえ、近く完工の予定である。
インドネシアについてもフィリピンの場合と同様わが国との間に賠償協定と同時に発効した経済開発借款に関する交換公文があり、二十年間に四億ドルの商業上の投資、長期貸付または類似のクレディットの供与につき両国政府は容易化し、促進すべきことを規定している。この交換公文が発効してからインドネシアに対し行なった借款供与としては、(イ)前記の賠償引当借款二、八○○万ドル、(ロ)インドネシア国営石油会社「プルミナ」に対する北スマトラ油田復旧ならびに開発のための資材および技術供与(十年間に約一八○億円の供与を行ない、返済は、石油生産が所定の量に達した時、その増産分の一部でなされるもので、一九六一年までの供与実績約十四億円)、(ハ)チラチャップ国営紡績工場の設備能力拡張のための資材と技術約二八二万ドルがあるが、これら経済協力の実績と交換公文との関係については今後両国政府間で話し合われることとなろう。
ヴィエトナムに対する賠償協定および借款協定は、一九六〇年一月十二日に発効した。ヴィエトナム賠償の特徴は、賠償総額一四〇億四、○○○万円の大部分と、借款協定に基づく二七億円の輸銀借款とが、ダニム水力発電所建設計画にあてられることである。一九六二年一月十二日から賠償第三年度となるが、一九六一年末現在契約認証額は九五億円、支払済額は使節団経費を含めて四八億円に達している。
この認証額のうちダニム発電所建設工事四六億円、発電機器一七億円、水圧鉄管九億五千万円、サイゴン変電所機器四億円、調査設計監督、検査役務六億円、ダニム計画関係はすでに大部分契約認証を終り、また輸銀借款の対象となる送電線もほぼ全額契約締結を了した。賠償による消費財の供与も軌道にのって進み、一二億円の契約を了している。
ダニム・ダム建設工事は、一九六一年四月一日の起工式以来順調に進み、一九六一年末現在で全工程の約一九パーセントが完了した。ダニム・ダムは、三年間の第一期工事完工の暁には八万キロ・ワット、第二期工事の終る一九六五年には合計十六万キロ・ワットの発電を行なう予定である。
ラオスとの経済技術協力協定は、一九五九年一月二十三日に発効した。この協定によりわが国は、ラオスに対し、経済開発を援助することを目的として二年間に一〇億円の援助を供与することとなっている。
援助計画の中心は、首都ヴィエンチャンの上水道建設であるが、現地通貨の調達困難およびラオスの国内事情等の理由により実施が遅れ、当初二年間であった援助期間を両政府間の書簡交換により、一九六一年および一九六二年の二回に亘りそれぞれ一年間の協定期間の暫定延長を行なった。
一九六一年末の契約認証額は七、五〇〇万円、支払済額は四、六〇〇万円に止まっており、認証された諸計画中には、上記ヴィエンチャン上水道設計、ナムグム河ダム調査および予備設計、ナムグム河ほか三橋梁建設のための調査等がある。
カンボディアとの経済技術協力協定は、一九五九年七月六日に発効した。この協定により、わが国は、カンボディアに対し、両国間の友好関係を強化し、相互の経済および技術協力を拡大するために、三年間に一五億円の援助を供与することとなっている。
対カンボディア経済技術協力は、現在最終年度に入っているが、当初に予定されていた農業センター、種畜場および診療所の援助期間内の完成が見込みなく、ラオスの場合と同じく、援助期間の延長が必要となるものと思われる。一九六一年末現在の契約認証額は八億九、五〇〇万円、支払済額は六億一、○○○万円となっている。
この認証額の内容は、首都プノンペン上水道建設用資材および四億七、五〇〇万円、トンレ・サップ橋梁建設用資材および設備三億円その他となっている。このうち、プノンペン上水道関係はすでに完工、引渡しを完了し、トンレ・サップ架橋関係は資材引渡中である。農業技術センター、種畜場および診療所の建設については、膨大な当初規模を予算内に縮少調整するのに手間どり、ようやく一九六一年四月に設計契約が調印され、設計見積作業が一九六一年末終了した。右の結果によれば、その間現地工事費資材費等の値上りがあったため、見積はなお予算を超過しており、施工契約交渉の途次センターの規模の再度の縮少等調整を要する部分がある。なお、一九六〇年十二月農業および畜産関係の一部技術者が現地に派遣され、センター運営の準備および調査を行なっている。
フィリピン科学振興庁長官パウリノ・J・ガルシアは、夫人同伴、外務省の招客として五月二日来日し、同月八日プレジデント・ウイルソン号でマニラに向け離日した。
在日中、同長官は癌研究所、癌研巣鴨病院および国立予防衛生研究所を視察し、関係者と懇談した。
(i) スカルノ・インドネシア共和国大統領兼首相は、米国、ソ連、中共を含む世界一周旅行の途次、レイメナ第一副首席大臣、スバンドリオ第二副首席大臣兼外相、ウィルヨ・プスポユド暫定国民協議会副議長等の閣僚および議会副議長六名を含む随員四十四名を帯同して、一九六一年六月二十三日非公式に訪日し、七月二日まで滞在した。同大統領の今回の訪日は、一九五八年の第一回の訪日以来戦後五回目のものであった。
同大統領は、滞日中、七月一日午後、総理官邸で行なわれた日本・インドネシア友好通商条約の調印式に池田内閣総理大臣とともに出席したほか、わが国政府財界の首脳と両国間の親善友好関係の増進、経済協力の促進等に関する諸問題につき懇談した。
なお、同大統領は、滞日中、天皇、皇后両陛下と親しく交歓した。
(ii) スカルノ大統領は、ベオグラードで開催された中立国首脳会議に出席した後、ケネディ大統領と会談のため訪米したが、帰国の途次、令息、令嬢、スバンドリオ第二副首席大臣兼外相等閣僚七名を含む随員約五〇名を帯同し、一九六一年九月十八日非公式に再度訪日し、同月二十一日まで滞在した。
同大統領は、滞日中、宮中茶会に招待され、天皇、皇后両陛下ならびに皇太子殿下御夫妻と親しく交歓した。
ハエルール・サレー、インドネシア共和国建設・開発相は、日本政府の招待に応じ、夫人および随員三名を帯同して、一九六一年十月八日政府の賓客として来日し、同月十七日まで滞在した。
同大臣は、滞日中、池田内閣総理大臣、岸前内閣総理大臣、小坂外務大臣、佐藤通産大臣、藤山経済企画庁長官、柳田海外経済協力基金総裁等政府首脳と会談し、日・イ両国間の貿易振興および経済協力の諸問題につき意見を交換した。
また、同大臣一行は、滞日中、わが国財界指導者とインドネシアとの経済協力事業の可能性につき懇談したほか、川崎の日本鋼管水江製鉄所を視察した。
カンボディアのテッパソ計画相兼プノムペン市長は、日本政府の招待に応じ、夫人、令嬢および随員二名を伴い、一九六一年七月二十九日から一週間、政府の賓客としてわが国を訪問した。
同相は、滞日中小坂外務大臣のほか、中村建設大臣、桑原愛知県知事、鈴木東京都副知事を始め建設関係の政府要路と会見し、またわが国都市計画のモデル都市としての名古屋市の視察を行なったほか、同市においては日本陶器、大阪においては久保田鉄工の工場を視察し、京都をも訪問した。
カンボディア国家首席シハヌーク殿下は、国連総会に出席の帰途、夫人、令嬢および随員十一名を伴い、一九六一年十月五日より三日間非公式にわが国を訪問し、カンボディアの中立政策に関する講演、記者会見を行なった。
この間十月六日、池田総理大臣は、同殿下を儀礼訪問し、その際カンボディアの水害に対し二〇〇万円相当の医療品および衣類を見舞品として贈与することを申し出たところ、殿下はこれを受諾した。
ヴィエトナム国会予算財政委員会委員長ハ・ニュー・チ以下五名の国会議員団は、一九六一年八月十八日来日し、九月三日まで滞在した。議員団は滞日中、衆参両院、外務、自治、労働、大蔵の各省、人事院、中小企業庁、経済企画庁、専売公社、全国共済組合連合会、神奈川県モデル農協を始め、関西においては久保田鉄工、松下電器、播磨造船の各工場を訪問して、わが国の給与制度の調査研究を行なった。
ビルマ陸軍参謀次長オン・ジイ准将は、バーバー海軍大佐および副官一名を伴い、外務大臣の招客として昭和三十六年九月六日から同月十七日までわが国を訪問した。同准将は、滞日中池田総理大臣、小坂外務大臣、佐藤通産大臣、河野農林大臣、自民党前尾幹事長、赤城総務会長、田中政調会長、その他外務、農林、通産各省担当官および本邦業界代表と会談し、また神奈川県下の農業事情を視察した。
ラザック・マラヤ連邦副首相兼国防相は、夫人同伴、随員三名とともに政府の賓客として一九六一年十月二日より十日まで本邦を訪問した。
ラザック副首相夫妻は、滞日中、天皇、皇后両陛下より謁見を賜わり、また同副首相は、池田総理大臣、清瀬衆議院議長、小坂外務大臣、藤枝防衛庁長官を訪問し、わが国の産業、とくに中小企業の視察を行なった。