一 国際情勢の推移とわが国の立場

 

 

はげしく揺れ動いた東西関係

 

米国大統領の交代(一月)を一つの結び目として滑り出した一九六一年(昭和三十六年)の国際情勢は、当初、米ソ両国の友好ジェスチュアを織り交ぜて、一九六〇年五月のパリ頂上会談流産以降のけわしい空気とはかなり異ったムードの中で発足した。とくにケネディ米国大統領とフルシチョフ・ソ連首相とがウィーンで会談(六月)するまでの前半六カ月は、世界に平和への希望を抱かせるものであった。

しかるに、このウィーン会談を頂点として、次の結び目とみられる第二十二回ソ連共産党大会(十月)に至るまでの一九六一年後半は、北朝鮮との軍事同盟の締結、軍事費の大巾増額、東西ベルリン障壁の構築、国際世論に背を向け、核兵器実験停止会議の努力や中立国首脳会議(九月)の意向を無視した大気圏内核兵器実験の実施等、ことごとに高姿勢をとったフルシチョフ首相の態度によって、東西関係はふたたび険悪となり、年初に醸し出されていた"友好ムード"は消え失せてしまった。ところがフルシチョフ首相は、党大会初日に行なった党中央委員会報告(十月)において、ベルリン・ドイツ問題については年末講和のデッド・ラインをはずすに至り、一方ソ連の核実験によって中断されたジュネーヴ核兵器実験停止会議に関しても、米英の再開申入れ(十一月)が行なわれるや、これに応じたのであった。

もっとも核兵器実験停止会議の再開に応じたとはいっても、ソ連代表は、本会議再開(十一月)の直前に、これまでの会議の進展を無視したような新しい協定案を発表し、この案を基礎にするのでなければ核兵器実験停止交渉には応じられないという態度を明らかにしたので、会議は初日から暗礁にのり上げた。

またソ連は、ベルリン・ドイツ問題については、年末講和のデッド・ラインをはずしたけれども、西ドイツ政府に対して直接交渉を呼びかけ、あるいはフィンランド政府に対して"西ドイツ軍国主議の脅威"を警告して、ソ・芬友好条約に基づく"軍事協議"を申し入れるなど、西ドイツに対する攻勢は、いぜんとして続いている。

このようなソ連の外交姿勢の変化については、フルシチョフ首相が、そのウィーン会談以降の高姿勢では、とかく足並みの揃わない西方諸国の対ソ結束をかえって固める結果となったのを見てとり、党大会でいわゆる"平和共存"路線が再確認されるとみるや、すかさず戦術を転換して、西方諸国の足並みを乱すための手を打ち出したものであるとの観測も行なわれている。

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ソ連の外交攻勢と自由世界

開拓者精神に燃え、若い気魄のこもったケネディ米新大統領に寄せる友邦諸国の最大の関心は、ケネディ大統領が米国のいわゆる"失われた威信"をどのようにして回復するか、また米ソ間の行きづまり状態をいかにして打開するか、そのために従来の外交政策をどの程度修正するか、ということであった。

ウィーン会談に至るまでの一九六一年前半におけるケネディ大統領の外交は、全面戦争抑制力のほかに、従来とかく軽視されがちであった局地戦即応用の在来軍備の強化、宇宙計画の促進等をもって米国の威信の回復をはかることにより、フルシチョフ首相とのウィーン会談に備える"足がため"のための"静観"であった。

ラオス内戦の停止(五月)には、ケネディ大統領は、英国を通じてかなり強い圧力をかけたようであるが、それは月余の後に控えたウィーン会談に備えての"足がかり"だったと見ることができよう。

ウィーン会談後、フルシチョフ・ソ連首相が外交高姿勢に出るようになると、ケネディ大統領の対ソ態度も、西方諸国との結束強化を基盤として、積極的に強い線を打ち出すようになった。例えばソ連が軍事予算を増やし、軍備増強を宣言すれば、ケネディ大統領は、ただちにその機会を捉えて議会に軍事費増額と軍備増強を要求し、いわゆる〃防空壕演説"を行なって国民の士気を鼓舞することに努めた。東独側がソ連の同意のもとに東西両ベルリン境界線に半恒久的なブロック・バリケードを構築して、東ドイツから西ベルリンに入る道を閉鎖し、さらに西ベルリンから東ベルリンヘの立入りをも許可制にするや(八月)、ケネディ大統領は、ジョンソン副大統領をベルリンへ急派するとともに、軍隊を増派して、あくまでも西ベルリンを守るアメリカの決意を示威した。

ラオスに関しては、ケネディ大統領は、ウィーン会談の際、「中立かつ独立のラオス」という線で時局を収める方針を打ち出し、あわせて"共産主義の脅威"が南ヴィエトナムに波及しないよう積極的な手を打った。

コンゴーについても、ルムンバ首相殺害後の危機(二月)に対処し、アドウラ新内閣を中心に、左右に偏向しないコンゴー中央政権を確立すべく、国際連合の内外で積極的に努力した。

このようなケネディ大統領の積極的な努力は、かならずしも完全には所期の効果を収めているわけではないが、ベルリン・ドイツ問題をはじめ、ラオス問題やコンゴー問題を通じて、西方側の歩調の乱れは、ほとんど生じなかった。

さらにフランスがアルジェリア臨時政府との間に和平交渉(エヴィアン会談、リュグラン会談、エヴィアン会談)を重ね、一九六二年三月和平協定に調印して、七年余り揉みぬいたアルジェリア紛争に終止符を打ったことは、フランスをアルジェリア戦費の重荷から解放し、その軍隊を順次アルジェリアからヨーロッパに引揚げる機会を与えることになるので西方側の結束を固める上に大いにプラスする要素として高く評価されている。

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共産世界の分裂現象とEECの発展

現象面だけから見れば、一九六一年を通じて、百戦錬磨のフルシチョフ首相が、新進気鋭のケネディ大統領をリードして、終始有利な冷戦を展開したかのように見えるが、他方共産側においても、第二十二回ソ連共産党大会が示し

たように、いわゆる"中・ソのイデオロギー論争"が意外にも根深いものであり、またソ連のアルバニア批判は、共産圏諸国のいわゆる「一枚岩の団結」に深刻な波紋を投じたことが明白になってきている。

さらに共産圏全体を通じて、わずかな例外を除き、一九六一年度もまた前年に引き続き農業部門の不振が否定し得ない事実となって現われた。ソ連と東欧諸国の綜合経済計画調整機関であるコメコンの運営も、計画どおりには行っていないようにみえる。

これらの事実は、マルクス・レーニン主義理論にもむずかしい問題点が存することを思わしめるものであり、また共産諸国に対するソ連共産党の統制にゆるみが出たかに見えることは、スターリン批判と関連して今後注目を要しよう。

そのような共産側の動きとは対照的に、西欧においては、一九六一年中にEEC(欧州経済共同体、欧州共同市場ともいう)が大きな前進を示した。EECの経済は順調に発展したのみならず、EEC内部諸国間の貿易も非常に増加した。

さらに、EECは、一九六二年一月の決定によって、第二段階に移行することになった。この決定によってEECは、一つの経済統合体としての性格を明確に打ち出すことになったし、またこの経済共同体の成否を決めるとさえいわれていた農業問題解決に向って大きく前進することとなった。またこれによってEECは、EEC参加に踏み切ったイギリスをはじめとするEFTA(欧州自由貿易連合)諸国の加盟申請について交渉を行なうしっかりした地盤を築くこともできたのであった。

他方EEC諸国は、その本来の目的たる政治統合についても、種々話し合いを行なっており、西欧が次第に"欧州連邦"の方向へ進んで行く傾向は、いよいよ顕著になってきている。

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A・A地域の情勢

戦後に独立した多くの新興国をかかえるA・A地域では、一九六一年から六二年にかけても、前年と同じように政治的独立の裏付けをなす経済開発の努力が続けられたが、その努力の過程において、一部の国においては、クーデターや非常事態宣言を余儀なくされるような状態が散発した。韓国の軍部クーデター(五月)、クウェイトの非常事態宣言(六月)、アラブ連合シリア州の陸軍クーデター(九月)、南ヴィエトナムの非常事態宣言(十月)、南ヴィエトナムにおける大統領官邸爆撃(一九六二年二月)、ビルマの軍部無血クーデター(三月)、シリアにおける一部将校の反乱(四月)などがその例である。これらの諸国になお社会的不安定の要素がわだかまっていることは否定できない。ラオスの場合は、問題が国際化しているため、非常に複雑な様相を帯び、一九六一年を通じて中道的性格の政権樹立問題を中心に左右にゆすぶられ続けたが、詮じつめれば、これらは、いずれも独立国家体制完成の途上における"生みの悩み"として理解される。また南ヴィエトナムにおいては、共産ゲリラの武力活動によって治安が乱れ、民生がおびやかされているが、米国等の援助もあって効果的な対策が講ぜられるに至った。

一九六一年七月には北朝鮮政権とソ連、中共の間に軍事同盟条約が締結された。また十二月にはインドがポルトガル領ゴアを武力接収したほか、西イリアン(西ニュー・ギニア)問題をめぐってインドネシアとオランダの間の紛争が続いた。

アフリカ大陸では前年に引き続きシエラ・レオーネ(四月)とタンガニイカ(十二月)が独立、一九六二年中にウガンダおよびルアンダ・ウルンディが独立する予定である。一九六〇年に独立したコンゴーではカタンが問題解決のための話合いが続いている。

アフリカ大陸における一九六一~二年の歴史的出来事は、フランス政府とアルジェリア臨時政府との間の和平交渉が妥結し、停戦協定が調印されて(前述)、アルジエリア独立への途が大きく開けたことである。またカサブランカおよびラゴスでのアフリカ首脳会議、アフリカ・マダガスカル連合の結成等、アフリカ諸国の団結と統合のための努力が行なわれた。

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くい違う東西の考え方

ソ連は、一九六一年に二回(四月、八月)にわたって人間衛星"ヴォストーク"号の軌道飛行に成功した。アメリカはマーキュリー計画に基づいて、まず一九六一年には二回(五月、七月)にわたってカプセル打上げによる人間の弾道飛行を行ない、次いで一九六二年二月、人間衛星"フレンドシップ"7号の軌道飛行に成功した。

一九六一年は、このような人間衛星の打上げによる米ソの宇宙飛行競争を背景にした激動の年であったということができよう。しかもいろいろの懸案は、ほとんど解決されずに一九六二年へ持ち越されたのであった。

一九六二年へ持ち越された諸問題のうちで、世界の視聴を集めている当面の最大課題は、核兵器実験停止協定を含む軍縮問題と、ベルリン・ドイツ問題の成り行きであろう。またアジアにおいてはヴィエトナムやラオス等の諸問題をめぐって国際緊張が続いている。

核兵器実験停止会議は、ソ連の大規模な連続核兵器実験の再開によって無期休会に入り(九月)、その後再開されはしたが、いぜんとして進展せず、一九六二年一月下旬ついに決裂し、なんら実りなく幕を閉じてしまった。

ケネディ大統領は、ソ連が核実験停止会議の努力を無視して一方的に実験を再開した事実を指摘し、自由世界全体の軍事的安全保障のために必要であることを理由として、四月後半にできるだけ短期間に終わる一連の大気圏内核兵器実験を再開することを決定したと発表するとともに、もしそれまでに核兵器実験停止協定が出来れば、再開は見合わすという米国の方針を明らかにした(一九六二年三月)。これに対してソ連は、「西側が核兵器案験を続けるなら、ソ連としても安全を守るため、また国防力を強めるためにも、やはり実験をせざるを得ない」という立場を崩していない。

軍縮問題については、一九六一年九月、米国案とソ連案との共通点を引き出し、それに若干の歩み寄りを加え、米・ソ両国間に合意を見た軍縮原則として、"軍縮交渉に関する八原則"が国際連合に提出された。そのかぎりにおいては、米・ソ両国の間には、一応重要な原則的合意が出来たとも言えよう。

実質的な軍縮交渉は、一九六〇年六月に十カ国軍縮委員会が決裂して以来行なわれなかったが、米・ソ両国の合意と国連総会の決議に基づいて、十八カ国軍縮委員会(フランスの欠席で実際は十七カ国)が一九六二年三月十四日からジュネーヴで開かれた。

この会議には、米英ソ三国の外相が出席しており、かつ「停止協定が出来なければ、大気圏内核兵器実験を再開する」という米国の警告の下に開かれているのであるから、軍縮問題とともに核兵器実験停止協定が重要問題として取り上げられたことはいうまでもない。

核兵器実験の停止については、国際的な管理を重要視する西側と、国際管理をもって軍事目標についての情報を集めるのが狙いであるとして西側の主張をしりぞけるソ連との間に根本的な意見の対立があり、軍縮問題についても前記の「軍縮交渉八原則」が一応交渉の基礎となるにしても米・ソ両国の考え方の間にいぜんとして基本的なくい違いがあることは、会議の二日目に提示された米・ソ両国の軍縮案にはっきりと示されている。軍縮委員会の前途は、なお多難と言わざるを得ない。

ソ連はジュネーヴ軍縮会議の開催を前にして、一九六二年二月から三月にかけベルリン航空安全センターを通じて米英仏三国側に対しベルリン空廊の一部を一定時間独占的に使用したいと執拗に申入れて一部空廊の専用割込みをはかったり、ベルリン空廊を飛行する西側民間機すれすれに戦闘機を飛ばせたり、空廊に金属片を撒布して西側のレーダー機能を乱そうとしたりした。軍縮会議に並行して、米英仏三国外相は、ベルリン・ドイツ問題についても討議しているが、この問題についても、東西間には容易には解けがたいしこりが残っているのである。

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三つの会期を開く国連第十六回総会

このような東西はげしい冷戦の中に、一九六一年九月に開かれた国連第十六回総会は、コンゴー問題の解決に献身していたハマーショルド事務総長が、開会直前に飛行機事故によって急死したため、開会早々、事務総長後任の選出をめぐって、思いがけない困難に直面した。

ソ連は、かねて現在の事務総長制度に替えて、いわゆるトロイカ方式による国連事務局の運営を提唱していたが、この機会に改めて持論を強硬に主張した。しかし国連加盟国の大多数がこのトロイカ方式に反対の意向を示したのでソ連もその主張を撤回し、約一カ月半にわたる討議の末、総会は憲章の定める正規の手続に従って暫定事務総長を任命した。

本会期では、暫定事務総長の任命のほか、中絶状態にあった軍縮委員会、核兵器実験停止交渉、大気圏外平和利用委員会などが開かれる空気が作られたほか、中共の国連参加の問題が、初めて正式議題の下に審議されるようになった。

このいわゆる中国代表権の問題は、一九六〇年の第十五回総会においても取り上げられているが、問題を正式議題の下で実質討議するに至らず、"実質討議タナ上げ"の形で処理された。第十六回総会本会期では、一般討論の結果、中国代表権問題の複雑微妙な性格が改めて認識され、この問題を国連憲章に定められた"重要事項"として指定する方式を提案した五カ国(日本、オーストラリア、コロンビア、イタリア、米国)共同決議案が採択された。

本会期では、結局、アンゴラ問題、ルアンダ・ウルンディ問題、キューバ問題、非自治地域情報問題等が審議未了に終ったので、これらの審議未了の問題を討議するため、一九六二年一月十五日から二月二十三日まで約四十日間にわたって再開会期が開かれた。再開会期では、これらの問題が討議され、六月にさらにもう一度短期の総会(第三会期)を開いて、ルアンダ・ウルンディ問題を審議することになった。国連総会が第三会期を開くことは、こんどがはじめてのことであり、一九六一年における国際情勢のはげしい動きの跡を示すものと言えるであろう。

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世界経済の推移

一方世界経済の面から観察すると、一九六一年は、全般的にはおおむね順調な推移を見せたと言ってよいであろう。

一九六〇年下半期以降、戦後四度目のリセッションに入った米国経済は、一九六一年第一・四半期を境として再び上昇に転じ、現在なお着実な拡大過程を辿っている。景気が回復した主因は、これまでと同じく企業の在庫蓄積が増えたことと連邦政府支出が増えたことであるが、設備投資もこれまでに比べると早期に増勢に転じて景況を支える一因となっている。しかし反面、耐久消費財支出は、近年慎重化した消費者心理を反映して、従来の上昇期に比べてやや出遅れ気味であり、住宅建設も六一年下半期には横這いに転じている。

他方、一九五九年以降急激な拡大過程に入り、一九六〇年にはめざましい成長を遂げた西欧経済は、一九六一年に入ってからは次第に上昇率がにぶり、下半期にはこの傾向が一層著しくなった。このような成長率がにぶった原因としては、時期により国により若干の相違はあるとしても、概していえば、第一に英、独におけるような在庫サイクルの反転、第二に西ドイツ、英国などに著しい労働力の不足、第三に大幅な経済成長の結果としての国際収支の悪化などがあげられよう。

一九六〇年から六一年にかけての後進国経済の景気後退はとくに激しいものではなかったが、その反面、一九六一年下半期における景気上昇にも、力強さが感じられない。その最大の原因は、国際商品市況の軟調にあるといえよう。

一九六一年の年間を通じて下降を続けた国際商品相場の影響を最も強く受けたのは東南アジアである。

東南アジアにおける農業および鉱工業生産は、天候に恵まれたことや開発計画の進捗により、一般に増加しているが、貿易は縮少均衡を余儀なくされた。そして一九六一年下半期の米国景気の回復にもかかわらず、輸出の増大はみられず、金・外貨準備も大巾に減少した。

アフリカ諸国の貿易の回復は、東南アジアよりやや早く、輸出は一九六一年第二・四半期から若干ながら回復に移っている。これに対して輸入は主要国における引締め政策の効果もあって、低水準にとどまったが、今後は輸出増に伴って増勢に転ずるとみられる。

ラテン・アメリカ経済における最大の問題は、インフレの昂進が、主要国においてまだ克服されていないことであろう。国際収支の危機も、経済発展を阻害する要因となっている。このような情勢の中で、「進歩のための同盟」による援助の具体化が、とくに期待されるわけである。

しかしながら、一九六一年の世界経済においてむしろ注目されるのは、国際流動性をめぐる国際協調の成果であろう。一九六〇年の国際金融界は、戦後はじめて大規な国際短期資金の移動に直面し、投機的なホットマネーのはびこりとドル不安を中心とする国際通貨不安に見舞われたが、一九六一年も三月のドイツ・マルクやオランダ・ギルダーの切上げを契機として、年間を通じ一層複雑で大規模な短期資金移動の問題が起った。その最も顕著なのは、上半期における英国から米国および西欧大陸諸国への短資流出であった。この際、欧州中央銀行がポンド支持のため行なったバーゼル協定は、国際金融協力上画期的なものであった。

さらに一九六一年十二月、IMF(国際通貨基金)の理事会において「借入の一般取極めに関する決議」が採択され、借入によるIMF資金の補充問題が一応の解決をみるに至ったことも、この意味において特筆されるべきであろう。最近の国際金融上の不安は、もともとキイ・カレンシィ、とくにドルが、国際金融市場においてかつての絶対的優位性を失いつつあることに由来しているのであるから、ドル、ポンドを他の有力通貨で補強するのが現実的にはこのように弱体化したドルに代るべき最も妥当な国際通貨供給策である。これがIMF借入制度の基本思想であるが、この討議を通じて、EEC諸国が従来の米英中心のIMFの運営方式に対し鋭い反発を示したことは、経済面における欧州諸国の比重の増大とともに見逃されてはならないことであろう。

ひるがえって共産圏諸国の経済動向を見ると、ここ数年来特異な徴候があらわれている。すなわちスターリン首相は、早くから一国社会主義建設の路線に沿い、ソ連における自給自足経済の達成を推進しており、戦後は暫くの間さらにこの行き方を東欧圏内においても推し進めていたのであるが、同首相の歿後、逐次この行き方を改め、現在ではソ連が率いているいわゆるコメコン(東欧圏各国経済相互援助協議会)機構の中で、加盟国間の国際分業、協業、生産専門化、各国々民経済計画-これも最近では一九八〇年にいたる長期的見通しの下に-の相互調整、圏内後進国に対する技術的指導援助などが強力に推進され、東欧共産圏の経済統合へと向っているように見えるのである。

またこの間の事情を反映して、圏内各国とも圏内相互間の貿易がその総貿易の大半(六〇ないし八〇パーセント)を占めている一方、最近においては圏内諸小国はもとより、ソ連においてすら自由圏との貿易関係の促進に著しく精を出してきている点はとくに注目される。

これは要するに、いわゆる社会主義建設を自由圏、主として西欧(場合によっては日本)あたりの最新最高水準の技術導入により促進せしめようとする意図に出たものであろう。

いずれにしても東欧諸国の対西欧貿易は年々伸びつつあり、またソ連の場合わが国との貿易も近年めっきり増えてきているが、この傾向は戦前とは著しく趣を異にしている。

中共は、政権獲得以来直接間接ソ連からの経済援助に依存してきたが、ここ一両年来はいわゆる中・ソ関係の悪化に伴い、経済面でも種々支障をきたしていると伝えられる。ことに二、三年来の農業不振に基づく食糧不足カバーのため、一九六一年においてカナダ、オーストラリア、西独、フランス等の自由圏諸国より多量の緊急穀物買付を行なったことがとくに注目された。この農業不振により中共の対外貿易は一九六一年には著るしく減退している。

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わが国の立場

一九六一年の初めから一九六二年の春にかけての世界情勢は、上述のように依然として東西両陣営の勢力均衡による冷戦の継続であり、わが国は、その平和と安全の保障を一貫して国際連合の平和維持機構の補完としての日米安保体制に求めてきたものの、世界平和維持機構として活動すべき国際連合も、とかく東西抗争の舞台となり勝ちで、十分にその本来の機能を発揮しうる状態になかった。

国際連合による世界平和の実現を追求するわが国は、率先して国際連合に協力し、その育成強化に努めるとともに、国際情勢の現状に即して、世界の平和と幸福のためにできるかぎりの努力をつくし、またわが国の安全と繁栄のためにあらゆる機会に強力な平和外交を展開しつつ、各種懸案の積極的打開を図った。

過ぎた一年の間に、わが国が最も遺憾としたことは、史上唯一の核被害国としてのわが国民の切実な要望にもかかわらず、大規模な核兵器実験が実施され、再び核兵器の実験競争状態を現出せしめるような様相が濃くなったことである。わが国は、関係諸国に対し、効果的な核兵器実験の停止に関する協定を一刻も速く締結し、ひいては有効な軍縮協定の締結を促進するよう強く呼びかけた。

国際連合第十六回総会における重要課題は、いわゆる中国代表権問題であった。わが国は、この問題の複雑微妙な性格に鑑み、中国の代表権を変更するいかなる提案をも重要問題として指定し、国連憲章第十八条によって決定すべきことを提案した。六十一カ国の賛成によってこの決議案が採択され、今後国連において各国がこの問題の実体を十分に考慮して公正妥当な結論を引き出しうる途が開けたことは、一つの前進であったと言えよう。

自由民主主義体制の擁護を国の基本方針とするわが国が、政治、経済、文化のあらゆる面にわたって自由諸国との協調を維持発展するために、積極的な努力をつくすことはいうまでもない。池田総理大臣のアメリカ、カナダ訪問(六月)を機として米加両国との間に閣僚級の貿易経済合同委員会が設けられるようになったこと、日・米科学および文化教育会議を開催したこと、あるいは日・英文化協定の発効に伴い、両国の混合委員会開催のための準備が進められるに至ったことなどは、この基本方針に基づくものである。

またアジアに位置するわが国が、とくにアジア諸国との友好関係の増進を重視するのは当然である。インドネシアとの間に友好通商条約を結び、タイ特別円問題の処理に踏切り、またわが国の最も近い隣国である韓国との国交正常化を期して正式会談を再開したのは、この趣旨に即したものに他ならない。

また同時にわが国が当面する大きな課題は、経済外交の積極的推進である。わが国は、現在、健全経済成長政策を進めつつ、当面の国際収支上の困難を克服し、かつ貿易為替自由化を促進するという立場にあるが、そのためには、何よりも輸出振興に力を注ぐことが肝要である。例えば小坂外務大臣が西欧諸国を訪問(七月)したのはこの線に沿った努力を示すものであり、その際イギリスとの間には、通商航海条約の早期締結、産業人の相互交換、情報の常時交換などについて合意を見たし、ドイツとの間には、日本のOECD(経済協力開発機構)との協力緊密化について努力することに見解の一致をみた。

さらにわが国は、明治維新以来、自らの後進性をいち早く脱却して、偉大な進歩を遂げた体験を持つので、発展途上にある新興諸国、とくにA・A諸国の国家形成の努力に共感を覚える。わが国がこれらの諸国に対して経済技術協力を積極的に推進するとともに、そのため、コロンボ・プラン、国連関係諸機関との協力に努め、また他の先進工業諸国とこの面でも積極的協調を重視している所以は、これら諸国の産業開発を援助し、その発展に寄与することによって、これらの地域の安定、わが国との経済交流の促進、さらには世界経済の拡大、ひいては世界平和に貢献することを希求するからに他ならない。

最近における各国との懸案処理ないし交渉進展の具体的状況については、次項以下の記述を参照して頂きたい。

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