参 考
本年五月十九日、米ソ双方は、三月以来行なわれた外交経路を通ずる交渉の結果、ケネディ大統領とフルシチョフ首相が、六月三、四日の両日ウィーンにおいて会談する旨をそれぞれ正式に発表し、かくてU2型機事件によって決裂した昨年五月のパリ頂上会談以来絶えていた米ソ首脳の接触が再開を見ることとなった。
顧るにパリ頂上会談決裂直後、ソ連はアイゼンハワー大統領のソ連招請を取り消すとともに、「六~八カ月後に開かれるのを期待している首脳会談まで西ベルリン問題を含むドイツ平和条約問題については現状を維持する」との態度を表明した。その後ソ連は、昨年十一月のケネディ大統領当選確定にあたっては歓迎と期待の意を表明し、本年一月にはU2型機問題を国連の議題から取りさげ、またRB四七型機乗員を釈放し、米ソそれぞれが主張していた首脳会談開催のための障碍を取り除いた形となった。一方ケネディ大統領も就任以来、正規の外交経路を通ずる静かな交渉を唱えてはいたが、米ソ首脳会談の可能性を否定することなく、トンプソン駐ソ大使をしてフルシチョフ首相と接触せしめていた。しかしながら昨年のモスクワ共産党大会以後の民族解放斗争に対する共産側の公然たる支持声援の強化は、ラオス情勢の悪化、キューバ反革命軍の上陸等と相まち米ソ関係を再び悪化せしめているように見られた。このような状況下になって米ソ首脳会談開催が発表されたため、一般にはいささか唐突の感を抱くものもあり、また開催理由と経緯についてはいろいろの取沙汰が行なわれた。しかしながら本年十月のソ連共産党第二十二回大会を控えたフルシチョフ首相が、その平和共存政策の一環としての首脳間の話し合いを望み、ケネディ大統領は、フルシチョフ首相に親しく接してその人柄を知り今後の政策決定に資するとともに、ベルリン、東南アジアその他の諸問題に関連して米国の決意を告げることを欲し、かくて両首脳の会談がまとまったとみるのが妥当であろう。このことは五月十九日の発表文が、今回の会談の目的は両首脳の最初の個人的接触と米ソ両国関係に影響する重要問題に関する意見交換であるとし、他の諸国の利害を含む重要問題に関しては交渉ないし協定しないととくに付言したことによっても首肯される。
会談の経緯
ウィーン会談開催発表後、演説その他の機会を利用して、フルシチョフ首相に対し、米国の自由を守る決意を伝えると約束したケネディ大統領は、予定されていたドゴール大統領とのパリ会談を終えて夫人同伴六月三日ウィーンに到着し、六月二日特別列車ですでに到着していたフルシチョフ首相と三日、四日の両日にわたり同地の米ソ両大使館において会談を行なった。
今回の会談は両首脳単独あるいは随員を加えて行なわれ、延べ十二時間にわたって行なわれた趣であり、その際の米側随員はラスク国務長官、ボーレン国務長官特別顧問、コーラー欧州担当国務次官補、トンプソン駐ソ大使その他、ソ側随員はグロムイコ外相、ドブルイニン外務省参与、メニシコフ駐米大使らであった。
会談内容については、三、四日両日の会談終了後それぞれ簡単なコミュニケが発表されたが、これによれば卒直かつ礼儀正しい会談によって世界における両国関係についての全般的検討、ラオス、核実験停止、軍縮、ドイツ問題に関する具体的討議が行なわれ、そのうちラオスについては同国の独立と中立に対する米ソ両国の支持と停戦の重要性を互いに確認し合ったとされており、また今後両首脳は重要問題について接触を維持する旨が述べられている。
会談を終えたフルシチョフ首相は、翌六月五日空路モスクワに向つたが、ケネディ大統領は会談終了後直ちにロンドンに向い、マクミラン英首相と会談し、またドゴール仏大統領のもとにはラスク国務長官をアデナゥアー独首相のもとにはコーラー国務次官補を派遣してウィーン会談の経過を説明せしめた。
双方の主張
右のような簡単な発表文にも見られるように、ウィーン会談からは、ジュネーヴ十四国会議において今後の交渉を待つべきラオス問題を除けば、具体的な成果は何ら生じなかったわけであるが、両首脳帰国後相ついで行なわれた両者のウィーン会談報告演説あるいは米ソ両国政府の覚書発表によって会談の具体的状況と対立点が次第に明らかとなり、これによって、一九五九年秋のアイゼンハワー=フルシチョフ会談後、いわゆるキャンプ・デーヴィド精神によって象徴された平和的ムードが現われたのとは対象的に、米ソ両国が東西両陣営を代表してそれぞれの主張を互いにつきつけ合って対立するという状態が生ずるに至った。
すなわちケネディ大統領は、六月六日全米に対してラジオ・テレビによるウィーン会談報告を行なったが、これによれば両首脳は戦争を避けねばならぬという点においては意見が一致したが、共産主義の窮極的世界制覇を信ずるフルシチョフ首相は、西欧伝統の主張たる自由の不滅を信ずるケネディ大統領と世界観において根本的に対立し、現下の主要問題たるドイツ・ベルリン問題、核実験停止および軍縮については妥協の色を全く示さず、ケネディ大統領をして予期したことながら深い失望を味わしめ、米国民に対して今後に対する強い心構えを要望せしめたのである。
一方ソ連側は、ウィーン会談中に米側に手交したドイツ・ベルリン問題と核実験停止問題に関する二つの覚書を六月十日に発表し、ついでフルシチョフ首相は十五日ラジオ・テレビ放送を通じて右覚書に基づくウィーン会議報告を行ない、その後も機会をとらえてソ連の立場を繰り返し主張している。
ドイツ・ベルリン問題に関するソ連の態度を要約すれば、欧州に戦後つくられた情勢の固定化とドイツ・ベルリン問題の解決とは世界平和強化のために必要であるとの前提のもとに、東西両独の連合により統一されたドイツとの講和条約あるいは東西両独との各別の講和条約(いずれの場合にもこれに伴なって西ベルリンは自由市化される)の即時締結を提唱し、西欧側がこれに応じない場合には本年中に東独と単独講和を結び、西ベルリンへの交通管理権は東独へ移譲するというにある。
また、一九五八年十月以来ジュネーヴで続行されている核実験停止会議については、西方側の主張する管理査察制度は到底容認し得ないものであり、また管理官は東西両陣営および中立国からの代表計三人を以てすべきであるとし、西方側がソ連の案を容れない限り、軍縮交渉の一環として核実験停止問題を醸すべきであるとしている。
この両提案は、ともに西側として認めがたいものであり、このうち核実験停止問題については、米政府は、六月十七日ソ連政府に覚書を送って管理官三人制その他についてソ連提案を反駁し、かつ無期限に実験を中止し得ぬ旨を明らかにした。またドイツ・ベルリン問題についても米政府は関係各国と協議して対ソ回答につき検討中の模様である。
かくて今回のウィーン会談によって米ソ対立の実相が、米ソ首脳のみならず全世界に対しても改めて明らかにされまたソ連はこの機会を利用してドイツ・ベルリン問題を早急の解決を要する問題として再び提起した。
しかしながら今回のウィーン会談において米ソ首脳が親しく接触してその決意を互いに知り合ったことは、相手方の過少評価の結果、誤算によって生起する戦争を予防するのに役立つであろう。またソ連はじめ中共をも含む共産諸国の論調が、米ソ首脳の接触復活を歓迎して緊張緩和の出発点となることを要望し、本会談は平和共存に対するフルシチョフ首相の大きな貢献であるとしていることは、六月四日の共同コミュニケに今後両首脳が接触を維持する旨が述べられたことと相まって話し合いによる解決の道も閉されていないことを示唆している。
韓国では、昨年四月十九日のいわゆる「四月革命」により李承晩政権が倒れ、その後許政暫定内閣の下で憲法改正と総選挙が実施された後、同年八月張勉政権が発足した。しかるに去る五月十六日突発した軍部クーデターによって張勉政権はわずか八カ月余りで倒れ、これに代って軍部政権が出現、ここに韓国政局は再び大きく転換するに至った。
現在までのところ、韓国の事態には依然として流動的な面もあり軍事政権が国民世論の全面的支持を得ているかどうか、国際世論の支持を受けることに成功するかどうか、当面最大の課題である経済の再建、民生の安定をもたらすことができるかどうか、さらには、現在政権を掌握している軍部がいつ頃いかなる形で政権を文民政府へ移譲し軍本来の任務に復帰するか等について適確な判断を下すには時期尚早というほかないが、以下今次クーデターの経緯をとりまとめて記述し、今後の動向をトするための一つの参考資料とすることにしたい。
軍部クーデターの経緯
五月十六日未明、韓国に軍部クーデターが起った。海兵第一旅団、第一空輸戦闘団の二大隊が主力となり、これに第三十、第三十三予備師団および第六軍団砲兵隊が協力し、青瓦台大統領官邸をはじめ、中央庁、内務部、治安局(警察)、放送局などをはじめ行政、立法および司法各機関を手中に収めるとともに、ただちに軍事革命委員会を組織し、張都暎陸軍参謀総長(中将)が議長に就任した。
張都暎軍事革命委員会議長は、同日午前五時、放送を通じて布告文を発表し、軍部が決起したのは、腐敗し無能な現政権と既成政治家に国家と民族の運命を任せられないと考え、祖国の危機を克服するためのものであると述べるとともに、今後の基本方針を次のように宣明した。
(1) 反共を国是の第一義とし、これまで形式的かつ口先だけにとどまった反共体制を再整備強化する。
(2) 国連憲章を遵守し、国際協定を忠実に履行し、米国をはじめ自由友邦との紐帯をより一層鞏固にする。
(3) 韓国社会のあらゆる腐敗と旧悪を一掃し、頽廃した国民の道義と民族の正義を再確立するため清新な気風を振作する。
(4) 絶望と饑餓状態にある民生苦を早急に解決し、国家自主経済再建に総力を傾注する。
(5) 民族的宿願である国土統一のため、共産主義と対決しうる実力の培養に全力を集中する。
(6) 以上のようなわれわれの課業が成し遂げられれば、清新かつ良心的政治家に、いつでも政権を移譲し、われわれは本来の任務に復帰する準備を整えている。
ついで、軍事革命委員会は、同委員会令第一号をもって非常戒厳令を宣布し、さらに、集会禁止、検閲実施(軍事革命委員会布告第一号)、金融凍結(布告第二号)、空港、港湾封鎖(布告第三号)、政治活動禁止(布告第四号)、貯金引出制限(布告第五号)、物価抑制(布告第六号)、外国軍民の生命財産保護(布告第七号)等に関する布告を矢つぎ早やに発表した。とくに布告第四号では、
(1) 軍事革命委員会は、五月十六日午前七時を期し、張勉政権の一切を引継ぐ。
(2) 現民議院、参議院、地方議会は、五月十六日午後八時を期し、解散する。
(3) 一切の政党および社会団体の活動を禁止する。
(4) 張勉政権の全国務委員と政務委員を逮捕する。
(5) 国家機構の一切の機能は軍事革命委員会がこれを正常通り執行する。
(6) 暴力行為はこれを厳罰に処する。
と規定されており、軍事革命委員会の厳しい方針が示された。
かくて、十六日夜までに尹勇大統領は革命軍の保護下におかれ、朱復興、玄国防、韓逓信各部長官の逮捕が確認された(その後二十一日現在朴交通、鄭外務および尹文教三部長官を除く閣僚全員が逮捕された)。しかし張勉国務総理はじめその他長官の消息は不明であった。
一方、軍事革命委員会は、それまでクーデターに対し中立の立場をとっていた第一軍に対し軍事革命委員会を支持するよう呼びかけたが、十七日午後に至り第一軍司令官李翰林中将は全将兵とともに軍事革命委員会を支持する旨の声明を出し、また十七日午後には三軍首脳部が軍事革命委員会本部に集り、「愛国軍人の正当な決起を支持し、全軍が協力と団結を固めて革命の完成に当る」ことを決議した。軍事革命委員会はこうして韓国全軍の一致した支持を受けることになった。
五月十八日、張勉国務総理は軍事革命委員会の呼びかけに応じクーデター発生から三日目にはじめて中央庁に姿を現わし、張都暎議長臨席の下に、張勉内閣最後の閣議を開いて、さきに軍事革命委員会が宣布した非常戒厳令追認の手続をとった後、総辞職した。これによって、軍事革命委員会は、完全に政権を掌握し、クーデターの成功はもはや動かすべからざる事実となった。
張都暎議長は、十九日、記者会見で、革命政権の今後の方針を明らかにし、軍政の期間はできる限り短縮する、米国はじめ友邦国との関係を強化する、韓日関係は国民の望む方向に沿って解決する、民生問題の解決に重点をおく旨を強調した。
クーデターの背景と推進勢力
韓国軍事革命委員は、前述のとおり、その布告の中で、韓国社会の腐敗を一掃し、国民生活を改善すべきことをあげている。これは韓国の軍部の中に現在の政治に対して強い不満をもつ分子がかなりあったことを示すものである。事実、張勉政権は軍部の不満を招きかねないほど、程々の難問題を未解決のままかかえていたようである。政党は与野党ともに内部の派閥争いをくり返し、経済的には生産の不振に伴なうインフレの激化や失業者の増大などがからみ合って政治不安と社会不安が絶えなかった。そのうえ、南北朝鮮の統一を主張する学生層や革新勢力の動きが最近とみに活発となっていた。しかも張勉前政権は果断な措置をとることを望まれながらも諸般の事情から、思うように強力には動き得なかった。旺盛な愛国心と民族意識に燃える青年将校の眼にはこれは文字どおり、祖国が累卵の危機にあるものとうつったことであろうし、腐敗した現政権と既成政治家に国家と民族の運命を任せられないと思いつめるに至ったことであろう。
一般に、韓国青年将校には、貧しい農民の子弟が多く、国民大衆の間に根強く存在していた政治・経済の現状に対する失望、不満を敏感に感じ、特権階級たる文官や政治家に強い反感を抱きやすい要素があり、いわば「爆発性」が蔵されているといわれてきた。
今回クーデターの推進力となった青年将校は、韓国独立後に同国陸軍士官学校を卒業したものが大部分をしめており、その中心人物は朴正煕少将(国家再建最高会議副議長、同会議常任委員会委員長)であるといわれている。かれらのうちには、昨年三月の大統領不正選挙を支持したり、不正蓄財を行なった当時の韓国軍首脳部の粛清を求めたために、かえって下剋上の非難をうけて、第一線部隊から第二軍に左遷された不満分子も少なくないといわれる。
こうして張勉政権に対する失望感は、韓国軍首脳部に対する強い反撥の気持も手伝って、かれらの青年将校をして自分達の手で国家の危急を救う以外に途はないと決心させるに至ったものと思われ、これが今回の直接行動に出る主因となったものと解される。
革命政権の機構整備
軍事革命委員会は十九日、「国家再建最高会議」と改称され、張都暎議長、朴正煕副議長を含む委員三〇名と顧問二名が任命されたが、いずれも現役ないし予備役の将校である。一方、尹ボ善大統領は十九日突然辞任を発表したが、二十日午後張議長、朴副議長の説得を受けて決心をひるがえし留任することとなった。五月二十目張都暎議長を首班とする新内閣が成立、同内閣は陸軍十一名、海軍二名、空軍一名の高級将校で構成され、金弘一外務部長官が予備役陸軍中将である以外は、全員現役軍人である。張都暎首班は二十一日新内閣の目標として(1)反共体制の確立、(2)国連憲章の遵守と国際公約の履行、(3)腐敗の一掃、(4)計画性ある経済発展と国民生活の向上、(5)共産主義と対決し、国民の総力で最短時日内に国家統一を期するという五項目を明らかにした。
国家再建最高会議は、さらに国家機構の整備に努め、五月二十三日には同会議に十四の分科委員会を組織し、また国家再建企画委員会を設置した。ついで二十七日には国家再建最高会議が改組され、閣僚を兼任する委員と顧問は辞任し、空席となった委員の後任には佐官級の軍人が任命された。この間ソウル特別市、各道知事および警察局長、九大都市市長にいずれも軍人が任命され、さらに政府企業体の社長または総裁も軍人と更迭された。
国家再建最高会議は、このようにして機構整備を急ぐ一方、内外世論の支持を受けるため、直接行動に訴えたのは事情やむを得なかったのであり、必ずしも韓国憲法を無視するものでないことを強調するとともに、国家再建最高会議の存在と性格を合法化することに努めた。六月六日に至り、国家再建最高会議は、尹ボ善大統領の裁可を得て、「国家再建非常措置法」を制定公布した。同法は、現行憲法に優先し、憲法規定のうち、事実上効力の停止された部分に代って暫定的に憲法と同様な効力を持つもので、国家再建最高会議の構成および権能、内閣、司法機関地方行政機関等に関する大綱を定め、また憲法に定められた国民の基本的権利は、革命課業遂行に抵触しない範囲内で保障されることを規定している。さらに六月九日には「国家再建最高会議法」が制定され、従来の委員会に代わる七分科委員会の設置および分科委員長をもって構成する常任委員会の設置等が定められた。常任委員会の委員長には朴正煕少将が任命されたが、同委員会は事実上国家再建最高会議の実務の大半を担当するものと予想される。なお張都暎国家再建最高会議議長は、従来兼職してきた国防部長官および陸軍参謀総長を辞し、内閣首班のみを兼任することとなった。さらに国家再建最高会議は六月二十一日、近く「革命裁判所および革命検察組織法」を公布する旨発表した。
(四) 容共分子の粛清と腐敗の一掃
国家再建最高会議は、国家機構の整備と併行し反共体制の確立と内政刷新に努め、これがためかなりはげしい措置を講じつつある。
五月二十三日には、一五の政党、二三八の社会団体が解散を命ぜられ、ついで新聞通信等の発行が制限された。また、政治犯の逮捕が行なわれ、その数は、公式発表によれば五月二十一日までに二、〇一四名に達した。ついで、五月二十八日には不正蓄財処理要綱が発表され、該当者の逮捕が行なわれたが、六月十四日には同処理要綱を明文化した不正蓄財処理法が公布されるとともに、二つの不正蓄財調査団が組織された。
(五) 国民生活の刷新
国民生活刷新と耐乏生活のスローガンの下に、射倖行為の禁止、愚連隊の検挙、売春婦の一掃、交通取締の厳守、外国煙草など贅沢品の禁止、国産服着用命令など厳格な規制が行なわれ、一方では困窮者救済の措置も決定された。
(六) 国民運動の組織
国家再建最高会議は六月十日「再建国民運動に関する法律」を公布したが、その推進母体としては「再建国民運動本部」が設置され、地方行政単位の末端に至るまで組織網がつくられた。政府要人は機会ある毎に国民に対し革命課題の遂行に協力するよう呼びかけており、ソウル、釜山、大邸等の主要都市をはじめ全国的に再建国民運動が展開されている。
(七) 経済再建
革命政権の緊急課題は経済的困難の克服である。
国家再建最高会議は、五月十八日前政権以来の国土建設事業の継続進行を決定し、また財務部は近く一九六一年度第二次追加更正予算案の閣議上程を予定して準備を進め、六月九日には、農漁村高利債整理令を発表した。さらに、国家再建最高会議は、五月三十一日、基本経済政策を発表したが、韓国経済がどのようにして再建されるかは、なお今後の動きを待たねばならない。周知のとおり、韓国経済は米国の経済援助に大巾に依存しており今後も引続き米国からの経済援助を確保しなければ、再建計画の遂行に多大の困難を生ずることは必至であろう。
(八) 米国および国連軍の態度
韓国と特別深い関係にある米国が当初軍部のクーデターから受けた衝撃は大きいものがあったようで、五月十六日現地のマグルーダー国連軍司令官およびグリーン代理大使は、張勉政府支持の態度を表明し、また国連軍司令官は二十日韓国軍部隊の国連軍指揮下への復帰を求めた。これに対し張都暎議長は、十七日ケネディ米国大統領に親書を送り軍事革命委員会の立場と目的を説明し、その支持を求めたと伝えられるが、米側としても、次第に既成事実ができ上ってゆくに従い、ともかくこの事実との関係をつけざるを得ないとの態度に傾いていった。かくて、米国政府は、五月二十二日、はじめて公式発表を行ない、韓国の文官政権が強権によって倒れたことに遺憾の意を表しながらも国家再建会議が、国連の支持、社会改革および憲法への復帰を目的としていることに賛意を表した。米国が韓国新政権に求めているところは、要するに(1)合憲的政権に移るため軍政期間をできるだけ短くすること、(2)非合法的に国連軍の指揮を離れた全韓国軍をすみやかに在韓国連軍の指揮下に復帰させることの二点であるとみられるが、まず、韓国軍に対する指揮権の問題に関しては、五月二十三日開始されたマグルーダー在韓国連軍司令官と国家再建最高会議朴副議長の間で会談が難航していたところ、二十四日張議長は突如訪米計画を発表した。この訪米申入れは、ケネディ大統領の日程がつまっていることを理由に、えん曲に拒否され、張議長は二十五日訪米計画の中止を発表、米韓関係の調整はソウルにおける交渉に待つ他なくなった。結局二十六日韓国軍指揮権問題について国連軍司令官と国家再建最高会議との間に妥協が成立し、共同声明が発表された。これに関し、マグルーダー司令官は同日声明を発表し、作戦指揮権が「完全に」でなく、「かなりの程度」回復されたが、一旦軽視されてしまった権威の再確立には長期間を必要とする旨述べた。
つぎに立憲政治への復帰問題については、五月二十三日朴副議長は記者会見で「民主的な方法で民主的な文官に政治を譲りたいと希望している」旨述べ、また「適当な時期に総選挙を実施し、政党を再組織する方針である」と語った。一方五月二十六日グリーン米代理大使は金外務部長官に対し、去る十六日付で張議長がケネディ大統領に送った書簡の回答となる覚書を手交したが、この覚書には、自由世界の諸原則を支持し、この原則に従って国民の福利増進を表明した張将軍の公約に米国政府は賛成すること、および、政権を民間に委譲する意向が表明されたことについて米国政府は満足に思うことが述べられていた。この後も、米国政府は、できるだけ早い機会に立憲政治に復帰することを期待するとの態度を持しているが、他方国家再建非常措置法によれば、国家再建最高会議は革命の課題完遂後に行なわれる新しい選挙によって議会が選出されるまで存続することとなっているのみで、新しい選挙の時期は明らかでなく、その一方において前述のように集団指導的な体制が着々と整備確立されつつあるやにも見受けられるので、今後ともなお多くの迂余曲折があるものと予想される。