四 戦後処理および懸案解決への努力

わが国がサン・フランシスコ平和条約によつて独立を回復し、国際社会に復帰してからすでに八年が経過した。この間わが国は、全世界八十余の国々と国交を回復ないし樹立したが、また国際連合安全保障理事会、同経済社会理事会に相ついで理事国としての地位を占めた他、数多の重要な国際機関に加盟するなど、わが国は戦後の国際社会で極めて名誉ある地位をかち得るに至つた。しかしながらわが国が敗戦とそれに続く占領の時代を経て今日このような地位を得るまでには、国家として対外的に処理しなければならない厖大な案件があつた。いわゆる戦後処理に属するこれらの案件の中でも、わが国が国際社会に復帰し得るために最も重要であつたのは、各国に対するわが国の賠償の問題であつた。

その際わが国が主としてアジアの諸国に対して条約上の賠償義務を負い、また特にこれを速かに解決する必要に迫られたことは、賠償の性質上もまたわが国の位置からも当然のことであつた。このようにしてわが国は、順次にビルマ、フィリピン、インドネシアとの賠償協定を締結し、最後に残された、ヴィエトナムとの賠償協定も、昨年五月に調印され、両国国会の承認を経て本年初頭に発効した。もとよりこれらの賠償協定を締結するまでには、関係諸国の要求と、わが国の賠償能力の限度とを考慮し、両者の合理的な一致点を出すために、並々ならぬ努力と忍耐とを重ねることが必要であつた。そしてわが国はこのようにして定められた賠償をすでに誠実に実施中であり、また今後何年かにわたつて実施し続けて行くのである。これはわが国にとつて決して容易なことではないが、これこそ将来にわたつてわが国と関係諸国との友好関係を築き、経済関係を深めて行くゆえんであつて、それはまた世界の平和と福祉とにつながつて行くのである。

賠償とともにわが国が処理しなければならなかつた困難な対外事務は、極めて多岐にわたるが、とくに韓国とわが国との関係の調整は、同国がわが国の隣国であり、過去におけるわが国との関係も複雑であつただけに、極度に困難な仕事であり、交渉は今日まで幾度か行詰り幾度か再開されて、なお妥結していない。とくに昨年は在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題の影響もあり、日韓交渉は十分に進捗しなかつたが、わが国としては隣国としての同国との関係を重視しているので、とくに忍耐強く努力を続けて来た。

賠償の交渉といい、国交の調整といい、このような幾多の大きな困難を克服して初めて、わが国は、現在国際社会で名誉ある地位を占めることができたのであるが、今後ともたゆまぬ努力を続けて行くことによつてのみ、わが国に認められた地位と各国の期待とに沿うて行けるのである。

ヴィエトナム共和国との間の賠償協定の成立

ヴィエトナム国は、一九五一年九月八日サン・フランシスコ対日平和条約に調印し、一九五二年六月十八日同条約の批准書を米国政府に寄託した。これと同時に、わが国はヴィエトナムに対して、同平和条約第十四条に基づく賠償支払の義務を負うこととなつた。しかしながら当初は、同国に対する賠償の全体を早急に解決することが困難な状態であつたので、まず中間賠償という形式で典型的な役務賠償である沈船引揚をとり上げることとし、これを議題として、フィリピンおよびインドネシアに対する交渉とほぼ同じ時期にヴィエトナムとの交渉を行なつた。その結果、一九五三年九月「沈船引揚に関する賠償協定」の案文が作成されたが、ヴィエトナム側はこれをそのまま放置し、結局一九五五年末にこの協定を締結することは取り止めとしたい旨を申し入れて来たので、わが政府もやむなくこの申入れに応ずることとした。

ヴィエトナムはその後一九五六年一月にいたり、賠償の全般的な交渉を開始したいという意向を表明するとともに、同国の賠償閣僚協議会の決定としてわが国に対して二億五千万ドルの賠償を要求してきた。これに対しわが国は純然たる賠償といわゆる経済協力とを合計して二千万ドルという案を示して交渉を進めたが、何分にも両者の主張が甚しく距つていたため、結局交渉は、行詰るに至つた。

わが政府は、賠償問題は能う限り早期に解決するという方針の下に、一九五七年九月国際経済問題に知識と経験の深い経済団体連合会副会長植村甲午郎氏をサイゴンに特派し、トー・ヴィエトナム副大統領ほか同国政府首脳部との間に交渉を再開して、先方の歩み寄りを求めしめた。また同年十一月、岸総理大臣は東南アジア親善旅行の一環としてサイゴンに立ち寄り、ゴー・ディン・ディエム大統領との間に賠償問題を早期に解決するという原則を確認し合つた。その直後わが政府は再び植村氏を特派大使の資格で現地に派遣し、数次の折衝を重ねた後、日本側の試案として純賠償三、九〇〇万ドル、経済協力のための借款一、六六〇万ドルという案をヴィエトナム政府に提示した。しかも同政府はなお、純賠償四、六五〇万ドル、借款一、一六〇万ドルという対案を示し、結局両者の意見が一致せぬまま、交渉は再び行詰るに至つた。しかしヴィエトナム政府は、その後のわが国の国内情勢の推移その他にかんがみて再考慮した結果、翌一九五八年三月三日、さきの植村試案を受諾する旨正式に通報してきた。

かくて同年七月、わが国は久保田新大使の現地への着任をまつてさらに細目に関する交渉を再開し、また専門家団をも派遣して、協定草案の作成交渉の技術面について久保田大使を補佐せしめた。両国政府は、すでにこの交渉以前に賠償の基本的な問題についてほとんど了解に達していたのであるが、最恵国待遇を保障する問題に関して完全に意見が一致するに至らず、このため調印を行なうまでには至らなかつた。このようにして、昨年に入つてからも引続き最恵国待遇保障の問題、協定に関する技術的な問題等についての交渉が重ねられた結果、最恵国待遇問題は、両国の共同宣言の中に「賠償協定の締結及び実施は・・・・特に通商、航海及び航空の分野において、また、一方の国の国民の他方の国への入国並びにその国における滞在居住、事業活動及び職業活動に関して、両国間の経済関係を一層密接にするものである。両国政府は、通商航海条約を締結するため、できる限りすみやかに交渉を開始するであろう」という文言を折込むことによつて解決され、その他の技術的な問題も逐次解決されて行つた。

かくて昨年五月初旬に至り、ようやく関係文書の案文全体について両国政府の意見が最終的に一致したので、五月三日サイゴンにおいて、藤山外務大臣とヴ・ヴァン・マウ・ヴィエトナム共和国外務大臣との間に、賠償協定、借款協定その他の文書が署名調印されるに至つた。

このようにして確定したわが国とヴィエトナムとの間の賠償協定および借款協定は、その後ヴィエトナム側においては昨年七月二日同国国民議会を通過し、同十二月三十日ゴー大統領がこれを批准、署名した。またわが国においては、十月末の第三十三回臨時国会で審議を尽した後、十二月二十三日可決されることによりわが国会の承認を得た。

わが国会の審議に際しては、とくにヴィエトナム共和国政府の正当性、戦争損害の如何、戦争開始日、日仏特別円とわが国がフランスに対して支払つた金塊との関係等を中心とする激しい論戦が長期にわたつて行なわれた。同協定はこのような審議を経て前述のとおりわが国会の承認を得るに至つたので、政府は本年一月八日の閣議で同協定の批准を決定し、同月十二日東京において、藤山外務大臣とブイ・ヴァン・ティン駐日ヴィエトナム共和国大使との間で批准書の交換が行なわれ、ここに同協定は発効するに至つた。

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日韓全面会談の再開および抑留漁夫の釈放交渉

一昨年四月十五日から開かれた第四次日韓全面会談は、たまたま同年秋以降在日朝鮮人の一部に北朝鮮帰還運動が起り、また他方漁業問題に関する両国の見解が根本的に対立する等の事情のもとに、漁業問題をはじめとして日韓会談のいずれの議題についても、両国政府の基本的な考え方すら一致せぬまま、一昨年十二月二十日より昨年一月下旬まで休会することとなつた。而して昨年二月十三日政府が閣議了解をもつて北朝鮮帰還問題の処理方針を定めるに至り、以前から在日朝鮮人の北朝鮮帰還に強く反対していた韓国側の態度は極度に硬化し、日韓会談の再開および韓国に抑留中の邦人漁夫の釈放には応じ得ない旨を申し入れて来た。しかしわが政府は終始一貫して、北朝鮮帰還問題はひとえに居住地選択の自由という国際通念に基く人道問題であり、政治問題とは全く無関係なものであるから、日韓会談はこれとは別に切離して継続すべきものであるという立場を堅持し、この基本方針にしたがつてつねに韓国政府の飜意を求めて来た。

このようにして昨年七月三十日に至り、ついに韓国側はその従来の行方を改め、わが政府に対して日韓全面会談の「無条件」再開を提案し、同時に、釜山に抑留中の邦人漁夫と大村に収容中の韓国人の「相互送還」をこの際速かに実施したいと申し出た。そこでわが政府は、韓国側のいう全面会談の「無条件」再開に関しては、わが国としては北朝鮮帰還の問題は既定の方針どおりに処理すべき旨念を押した上でこれに同意し、また、釜山と大村との「相互送還」も、それが「無条件」のものであることを確めた上で承諾した。

かくて日韓全面会談は、昨年八月十二日日本側沢田廉三、韓国側許政をそれぞれ首席代表として、一昨年暮の休会いらい約八カ月ぶりに再開されたが、その後北朝鮮帰還問題が具体化したこととも関連し、一進一退を繰り返えしながら年末まで継続された。この会談では特に韓国側の要望に基づき、在日朝鮮人の法的地位の問題を優先的に取り上げ、主としてこの問題について討論および意見の交換が行なわれたが、漁業問題については、委員会の会議が一、二回開かれたに過ぎなかつた。

他方邦人漁夫の釈放問題については、わが政府はいわゆる「相互送還」を早急に実施するため、全面会談とは別個に、全力をあげて韓国政府との折衝に努めたが、韓国側は手続上の些細な問題を理由として、その実行を再三遷延した。しかしこれは元来人道上の問題であつて、他の問題にはかかわりなく、またいずれの問題よりも優先的に解決さるべき性質のものであるので、わが国としては、このような韓国側の遷延策は容認できないという強い態度をもつて韓国側の反省を促した。

その後昨年十二月五日に至り、韓国側から在日朝鮮人の処遇および釜山と大村とのいわゆる「相互送還」の実施に関して新たな提案が行なわれた。この提案の内容は、わが国としても原則的には、受諾し得るものであるのみならず、これによつて年内に邦人漁夫の帰国も実現しうるし、また在日朝鮮人の韓国への帰還の途も開かれることとなるので、わが政府は大体この韓国側の申入れに応ずるという方針をとつた。その後、日韓両国政府の間で両政府の声明案の内容について検討をつづけたが、その細目について折合うに至らず、かつ十二月十四日から北朝鮮帰還が開始されるに至つたため、年内に実現することを目標にしていた在日朝鮮人の処遇の原則に関する合意とこれに伴う漁夫帰還問題も、遺憾ながらついに本年に持ち越されるに至つた。

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在日朝鮮人の北朝鮮歸還

一昨年秋頃から、在日朝鮮人の一部の間に、北朝鮮帰還運動が起つた。これに対し北朝鮮側は、帰国に必要な旅費を負担し、配船その他の措置をとる用意があるという報道もあり、他方わが国の民間にもこれを支持する声が起るなど、この問題は大きな波紋を投ずるに至つた。

元来在日朝鮮人が自国へ帰るということは、わが国からみれば在留外国人が任意に出国することにほかならない。すべての人が基本的な人権として自国へ帰る権利と自国の中で居住地を選ぶ自由を有すべきことは、世界人権宣言等にも認められている国際通念であつて、わが国の国内法制も外国人の出国は自由であるという建前をとつている。しかしながら他面、朝鮮が事実上南北に二分されているという特殊な事情にかんがみ、わが政府としては、この問題を処理するに当つては、本人が自由に帰還の意思を表明したということが客観的にも国際的にも認められるような体制をつくることが特殊の場合として絶対に必要であると考えた。政府はこのような判断に基づき昨年二月十三日閣議了解によつて、北朝鮮帰還問題は、居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理されるべきものであることを確認するとともに、帰還を希望する者の意思の確認およびこのような意思が確認された者の帰還を実施するために必要な仲介を赤十字国際委員会に依頼するという方針を定め、さらにこの問題に関する各種の事項の処理は日本赤十字社をして国際委員会と協議せしめることとした。韓国側は、わが政府のこのような方針と措置を在日朝鮮人の強制送還であると中傷し、また北朝鮮側からは、帰還意思の確認は人道上の原則に反するものであるとはげしい反対の声が起つた。しかしながら、相反するこれら二様の非難は、いずれも、この問題を純粋に人道上の見地から、政治問題とは別に処理しようとするわが国の基本方針を十分に理解せぬものであつて、人道問題に関する厳正公平な国際的機関として、その経験と権威を広く世界に認められている赤十字国際委員会の援助をとくに要請したわが国の真意を見誤まつたものである。

日本赤十字社代表は、赤十字国際委員会の諒解と、好意により、ジュネーヴの同委員会本部会議場において、四月十三日より、朝鮮赤十字会代表との会談を開いた。爾後幾多の正式会談および非公式懇談を重ねることによつて、極度の困難を克服し、ついに六月二十四日の第十八回正式会談で交渉は妥結し、関係文書の案文に仮調印を行なつた。他方、帰還業務に関する赤十字国際委員会の援助については、八月七日同委員会がわが国の依頼を承諾したので、八月十三日カルカタで日朝両代表の間に帰還協定および附属文書の正式調印が行なわれた。

ジュネーヴにおける日朝赤十字会談で最も論議された問題は、帰還希望者の意思の確認、赤十字国際委員会の介入および苦情処理などの問題であるが、これらについては本件の取極によつて、北朝鮮帰還の基本的条件は個人の自由意思の尊重であること、帰還者の登録機構は日赤の系統で組織運営されるが、その組織および運営が公正かつ公平であることを保障するために、赤十字国際委員会は何時でも必要かつ適当と考える措置をとることとして意見が一致した。

日本赤十字社は、八月二十三日来日した国際委員会ジュノー副委員長の助言と、わが政府関係各省庁との協議の結果に基づいて、帰還業務処理要領を決定し、これにしたがつて種々の準備を進め、九月二十一日より全国各地の窓口で帰還申請の受付けを開始した。ところが同社が作成した。パンフレット「帰還案内」の内容の一部と表現の仕方が帰還者側の誤解と懸念を招いたため、帰還業務は一時停滞した。しかしその「補足説明」が出たことによつて問題は解決し、十一月初め登録申請は再開され、同月末までに登録者数は四、五四四名に達した。この間日朝両赤十字社の間で具体的配船計画が決定され、帰還第一船は十二月十四日新潟を出港して、無事北朝鮮の清津港に到着し、年内に三回にわたつて合計二、九四二名が北朝鮮へ帰還した。

他方韓国政府は、十二月十二日、在日韓国代表部を通じ、この問題を国際司法裁判所に付託することを提案して来たが、さらに同月十八日には、朝鮮人不法入国者で仮放免中の者が北朝鮮へ任意に帰還することに抗議するなど、北朝鮮帰還実施の最終段階に至つてもなおその反対の態度をとり続けた。他方韓国居留民団側による妨害行為も憂慮され、多少の事件もあつたが、わが中央および地方関係当局が適切周到な警戒措置をとつた結果、いずれも大事には至らず、帰還業務は順調にまた平穏に進捗している。

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