総 説
一 国際情勢の推移
国際緊張の増加
一九五八年の国際政局は、人工衛星と大陸間弾道弾ICBMの分野における対ソ劣勢を挽回しようとする米国の強い決意の表明をもつて、その幕をあけた。かくて一月末米国のエクスプローラー第一号打ち揚げを皮切りに、米国の真剣な対ソ・ミサイル競争が開始された。それは人工衛星の打ち揚げ競争ばかりでなく、究極兵器といわれる水爆弾頭つきICBMの完成を目ざす米ソの激しい競争でもあつた。しかもこれとならんで、中距離弾道兵器IRBMならびにこれを装備しうる原子力潜水艦をはじめとする各種新兵器の生産競争が強化された。
かかる米ソの軍事科学競争を背景に、中東をめぐる冷戦も、激化の様相を呈し、一時は大戦への危機感をはらむほど、国際緊張は高まつた。
昨五八年二月エジプトとシリアの合邦によるアラブ連合共和国の出現は、アラブ民族主義と西欧勢力の対立を尖鋭化したが、やがてレバノンの親西欧政権に対する反乱の発生につづいて、七月イラクにおいて反西欧民族主義革命が成功するに及んで、その対立は最悪状態に陥り、米英の中東出兵という重大局面を招来した。つまり、アラブ民族主義が西欧との対立において、共産陣営の支持を利用し、ソ連が西欧との抗争において、アラブ民族主義を利用している現状においては、このような米英の出兵は、米ソ衝突の危機感を伴う国際緊張の激化をもたらさずにはおかなかつた。
しかし幸いこの危機は、紆余曲折はあつたが、最悪の事態を招くことなく収拾をみた。それは、根本的には大量破壊兵器の戦争阻止力によるものであろうが、同時に国際連合の活動に負うところも大きかつた。特にハマーショルド国連事務総長の献身的努力を忘れてはなるまい。
中東をめぐる冷戦が激化していたとき、一方では共産圏とユーゴースラヴィアとの間に、ユーゴー共産党綱領草案をめぐつて、深刻なイデオロギーの対立が表面化し、共産圏からは、ユーゴーに対し、スターリン時代を思わせる激しい非難攻撃が展開された。ユーゴー側も少しも屈せず反論に立ち、共産圏の対ユーゴー関係は極度に悪化した。もともとソ連のユーゴーとの和解は、今日の冷戦におけるソ連政府の基本政策をなすいわゆる"平和攻勢"の重要な支柱をなしてきた観がある。かかる意味をもつ対ユーゴー関係をあえて悪化させる措置がとられた背景には、フルシチョフ首相の非スターリン化政策いらい共産圏内に抬頭し、共産陣営の団結に重大な脅威を与え始めたいわゆる修正主義に対する激しい闘争があつた。国際世論の激しい批判の的となつたハンガリーのナジ元首相らの処刑も、この闘争の一環とみられた。
国際緊張をうながす要素は、経済の面にもみられた。アジア・アフリカ諸国に対する経済援助をめぐる冷戦は中近東において激化の傾向を示し、とくに年末ソ連がアスワン・ハイ・ダム建設のため一億ドルの借款供与をアラブ連合に約束したことは、西欧側の意表を衝くものであつた。
米国が景気後退に悩んでいるかたわら、ソ連は、国際市場においてすず、アルミなどの安売りを行い、一方中共は東南アジアに対し、綿製品およびその他の軽工業品のダンピングを行い、日本、インドなどの輸出に打撃を与えた。
ソ連は昨年十一月経済七カ年計画草案を発表し、そのさいフルシチョフ首相は、"今後十五年間にソ連は、総生産高ならびに人口一人当り生産高のいずれにおいても、世界第一となる"と豪語した。一方中共も、経済建設の"大躍進"運動に乗り出し、"十五年で英国に追いつく"と声明した。
緊張緩和への動き
しかし国際政局をいろどつたのは、これらの国際緊張面だけではなかつた。これらに交錯して、緊張緩和の線に沿う種々の動きもみられた。まずソ連は三月末核実験停止を一方的に声明し、ついで西欧側の提案にかかる核実験停止専門家会議の開催に同意した。この会議は七月一日からジユネーブで開かれ両陣営の専門家の間で五十日間にわたる秘密討議が行われた後、核実験監視制度が技術的に可能であることについて意見の一致をみることに成功した。この結果に基き同地で十月三十一日から核実験停止協定を結ぶための米、英、ソ三国会議が開始された。
さらにソ連は西欧側が提案した奇襲防止専門家会議の開催にもついに同意し、会議は十一月十日からジユネーブで、開始された。
また一般の軍縮問題でも、一昨年らい従来の国連軍縮委員会をボイコットしていたソ連の要求を西欧側が容れて、ソ連の主張する国連全加盟国を含む特別軍縮委員会を一年間だけ設置することに妥協が成立した。
さらにまた、前年から持ち越しの東西首脳会議についても、ソ連が西欧側の主張する事前予備会談の開催に同意し、春から夏にかけ一進一退のうちに話し合いがつづけられた。
ところがこの話し合いが、開かれるべき首脳会談の議題をめぐつて行き詰つていたとき、中東の危機が発生し、これがかえつて首脳会談開催気運に拍車をかける結果となつた。ソ連は、その好まないドイツ問題や東欧問題などを議題から除外し、中東の危機だけに議題をしぼつた首脳会議の即時開催を提案した。西欧側がこれを受諾することは、まさにこれまでソ連が主張し、西欧側が反対してきた形の首脳会談に同意することを意味しかねなかつた。しかし国際世論の動きは、米英がソ連の提案を拒否することを許さなかつた。西欧側は、国連安全保障理事会のワク内で、という条件で、ソ連の提案を受諾し、ソ連もこれをうけ入れた。
中共の対外硬化
かくて一九五五年のジユネーブ巨頭会談いらい三年ぶりに東西首脳会談が実現しようとしていたとき、ソ連の態度は、にわかに会談開催の拒否へと一変した。それは、フルシチョフ首相が八月初めに北京で毛沢東主席と秘密会談をとげて、モスクワに帰来してまもなく、西欧側に通告されたものであつた。このことはやがて国際間に中共の対ソ"圧力"によるものではないか、との観測を生んだ。これよりさき非スターリー化政策にそぐわないナジ処刑という極端な措置がとられたときにも、真先きに賛辞をおくり、満足を表明したのが、中共の党機関紙であつたことが思い合わされた。
中共の対外政策の硬化は、すでに昨年の春、ソ連・ユーゴー関係の悪化をめぐつて表面化し、中共は、ソ連を出し抜く激しさをもつてユーゴーを非難攻撃して、世界を驚かせた。これと時を同じくして中共は、日本に対し、一切の交流を断つという極めて厳しい強硬政策に一転した。
やがて八月、中共軍が突如金門島に対し未だかつてない猛砲撃を加え、一九五五年いらいほぼ平静を保つていた台湾海峡の緊張が極度に高まり、中共と米軍との衝突の危機感をさえ漂わせるに及んで中共の対外硬化は、その頂点に達した観があつた。
この中共の対外硬化は、国際政局に大きな謎を投じ、これをめぐつて種々の観測が生まれた。とくに注目されたことは、この年の春いらいチベットを除く中国大陸全土にわたり、男女の別なく六徳の民衆の生活を、一種の兵営的規律の下に極度に統制、集団化して、この巨大な人口を、政府の駆使に便利な一つの労働力の巨塊に結集しようとする人民公社制度の創設が強く推進されていたことであつた。これは中共の民衆にとつては、すでに窮屈になつている個人的自由に対する一段の制限強化であり、伝統的家族生活との大巾な挟別を意味するものであつた。民衆の不満を抑えてかかる大変革を推進するためには、内外にわたる緊張感の造出が要請されたのではないかとみられている。
ソ連のベルリン攻勢
かかる中共の対外硬化は、中共が当面国際緊張の緩和を嫌つているのではないかとの観測を生んだ。やがてソ連の東西話し合いの線が、国連安保理事会内の首脳会談開催拒否によつて中断されたことは、ソ連が中共の態度に同調したような観を呈した。
この中共の対外硬化は、ソ連の対外硬化を呼ぶ形となり、台湾海峡の危機が、中共側の一方的停戦声明と、国府側の大陸反攻武力放棄の一方的宣言をもつて、一応おさまるや、こんどはソ連が突然十一月に西べルリンの自由市化と西欧側駐留軍のべルリン撤退を要求し、国際緊張は再びヨーロッパを舞台に大きく高まつてきた。
ソ連の提案はこの計画の実施には六カ月の猶余期間をおくが、もし西欧側がこの期間内にこれに応じなければ、ソ連は東ベルリンにおけるソ連の権限を一方的に東独政権に引き渡すこと。従つて東独政権は西ベルリンと西独との間の陸、水、空すべての交通輸送に対する管理権をもつこととなり、西欧側はこんごこの問題については、東独政権と直接交渉すべきである、というのである。フルシチョフ首相は、「もし西欧側がべルリンとの連絡を強行すれば、強力な兵器をもつて報復するにちゆうちよしない」といい、グロムイコ外相は、「ベルリンは第二のサラエボになる危険がある」と演説した。本年一月二日の宇宙ロケットの打ち揚げは、このようなソ連の強硬態度を裏打ちする如き観を呈した。
平和攻勢を促す共産陣営の情勢
けれども、このようなソ連のいわば高姿勢には、いわゆる楯の反面があることを見逃しえない。なるほど宇宙ロケットは、人類史上画期的な出来事ではあつたが、これによつて今日ソ連の指導者が直面している悩みが解消するわけではない。すなわち修正主義の脅威も東欧諸国の政治的不安定もいぜんとして残つていることに変りはない。現に、ソ連が今日の如きベルリン攻勢の挙に出たそのことは、終戦いらい十三年、いまなお西独への住民の逃亡が絶えない東独の政情が、ソ連の指導者にとつていかに大きな悩みのたねとなつているかを物語るものともみられなくはないであろう。
軍事科学競争の面においても、強大な推進力をもつロケット技術においてソ連が米国を若干リードしているとしても、いわゆる原水爆手詰りの力関係には変りはなく、地域的集団防衛の面では西独の防衛力の再建によつて西欧側の防衛体制は強化されてもいる。ミサイル競争そのものにおいても、米国は昨年らいソ連との競争に対し自信を深めつつあるやにも見受けられ、本年の米国大統領の年頭一般教書が昨年と異り、ミサイル予算の大巾の増額を予告はしたが、積極性に欠けるという批判を招くほど静かな調子のものであつたことも、その一つの現われとみられている。
また経済競争の面でも、かりにソ連の七カ年計画がそのまま実現したとしても、それで米国の経済的対ソ優位がくずれるとも思われず、今日ソ連では、民需の犠牲において重工業を推進する経済政策のため、国民の生活水準は、宇宙ロケットの打ち揚げにみられる如き技術や生産力の発展にもかかわらず、米国との間はもとより、西欧諸国との間にも、いぜんとして大きな開きを残している。しかも昨年米国の景気後退は底をつき、今後次第に回復、拡大の方向へむかおうとしていると同時に、西欧では、欧州共同市場の発足と通貨の交換性回復によつて生産能率の向上と堅実な経済の拡大が予想されるようになつた。
このような種々の背景を考えると、ベルリン問題に対するソ連の高姿勢にも、自ら限度があるように思われる。
東西会談への機運
本年一月のミコヤン・ソ連第一副首相の訪米と、これをきつかけにソ連がベルリン問題に対する態度をいくぶん和らげてきたことは、上述の如き傾向を裏づけるものの如くである。
ソ連はミコヤン訪米中に西欧側に対し、二カ月以内に対独平和会議を開くよう、平和条約草案をそえて提案してきた。その内容は、自由選挙拒否、連邦方式による東西両独統合、西独の核非武装化およびNATO、ワルシャワ条約よりの脱退をはじめ、すべてソ連従来の主張を繰り返したものにすぎないけれども、ソ連がベルリン問題とともにドイツ問題全体の討議を提案してきたことは、ソ連の話し合い政策の線に沿う動きとみることができよう。
これに対して、西欧側では、ソ連の対独平和条約案は受け容れられないとの態度を明らかにした。しかしダレス国務長官は、記者会見で、「自由選挙を通じてのドイツ統一が自然な方法である。しかし理論的にはほかにも手段があるだろう」と、これまでの「自由選挙による統一」の大原則に融通性を加える用意があることを示唆するような言明を行つて国際間に大きな反響をよんだ。その真意はなお十分明らかではないが、少なくともソ連との話し合いの糸口を断つまいとする配慮とみることができるのではあるまいか。
このようにみてくると、今後東西会談の機運は再び高まることが予想される。しかも、もし核実験禁止問題において、ジユネーブの三国会談が協定調印にまで漕ぎつけるようにでもなれば、その機運は一そう拍車をかけられるにちがいない。
しかしながらドイツ統一問題にしても、軍縮問題にしても、今日の冷戦の諸懸案に対する両陣営の利害の対立が余りにも深刻であることを考えると、首脳会談開催までにも、なお多くの困難が予想されるばかりでなく、かりに首脳会談が実現したとしても、果して問題がどれだけ解決するかは、全く予断を許さないものがある。
要するに今後の国際政局は、東西会談への機運が高まる反面両陣営間の外交戦、宣伝戦が激化する公算が大きいとみるべきであろう。