ソ連および東欧関係

1 ピョートル大帝湾内海宣言

ソ連大臣会議は七月二十一日突然テユメン・ウラ河口(豆満江河口)と。ヴァロトヌイ岬を結ぶ線内の海域を、ソ連の内海化する決定を行い、これを七月二十一日ソ連各紙に発表した。そこで政府は七月二十六日在ソ門脇大使を通じ、この決定が国際法の一般原則反する不法措置であるとする口上書をソ連側に手交し、厳重抗議を行つた。(第一号八五頁以下参照)

これに対して、セミョーノフ・ソ連外務次官はピョートル大帝湾は地理的、経済的、国防的に久しい以前から歴史的なソ連領であつて、今回の決定はそのソ連の歴史的見地を単にリマインドしたものにすぎないとのべ、同湾が「歴史的海湾」であるとの立場を明らかにした。

そこで政府は八月六日再び在ソ門脇大使を通じ、ソ連外務省あて口上書を手交し、次の旨を重ねて申入れた。

(一)これまでソ連政府は同湾を歴史的湾として主張したことがない。ソ連政府は本年五月ピョートル大帝湾海域より日本漁船の退避を求めた理由として、海床に残存する機雷爆発の危険が存在することのみをあげ、同湾が歴史的海湾であるということには言及しなかつた。(二)一九二八年の日ソ漁業条約議定書によれば、漁業を禁止すべき湾のうちにピョートル大帝湾も掲げられていたが、同条約に定められている同湾の区域は、今次決定の区域よりも狭く、その区域内にすら公海の部分があることを認めていた。(三)戦前長期にわたり、日本の機船底曳網漁船は同湾内でソ連政府からなんらの抗議を受けることもなく自由に操業を実施していた。(四)一九四四年三月三十日付交換公文により両国は、同湾における日本漁船による漁業を合意により禁止した事実はあるが、これは戦時中の暫定措置であることが明示されている。以上により、ピョートル大帝湾は、一つの湾が国際法上歴史的湾として認められるための要件である国際的に承認された長期にわたる慣行をもつていない。

これに対して応対に当つたクズネツォフ外務次官は、わが方抗議内容を政府へ伝達する旨を約するとともに、前回同様ピョートル大帝湾はソ連の歴史的海湾であるとの従来の主張を繰返すにとどまつた。その後、ソ連側はこのわが方抗議に対し沈黙を守つていたが、本年一月九日に至り、ソ連外務省は同月七日付、在ソ大使館あて口上書をもつて、大要次のとおり回答してきた。

ピョートル大帝湾海域は、同湾の特殊な地理的条件ならびにその経済上および防衛上の意義により、歴史的にソ連の海域である。ピョートル大帝湾に対するロシアの歴史的権利は、ロシア政府が一九〇一年公布した黒龍江沿岸総督府の領海における海上漁業規則において認証された。同規制により、チユメニ・ウラ河口とパヴァロトヌイ岬を結ぶ線が、同湾におけるロシアの内水の境界となつていた。

ソ連大臣会議のピョートル大帝湾に関する決定は、そのステータスおよび半世紀以上前に定められた同湾における内水の境界を確認するものにすぎない。

深く陸地に湾入した同湾の全沿岸がソ連の国家領域であり、同湾の形状自体、それがソ連の陸上領域と不可分の一体をなすことを示していることは周知の通りである。ピョートル大帝湾に関する前記大臣会議決定も、また一九〇一年に公布された前述の規則と同じく特にこの点を出発点としている。

ピョール大帝湾がソ連の内水である事実は、ソ連の諸隣国たとえば中華人民共和国によつて承認されている。

一九〇七年にロシアと日本の間で結ばれ、さらに一九二入年にソ連と日本の間で結ばれた漁業条約ならびに一九二八年条約を五カ年有効とした一九四四年のソ・日議定書はピョール大帝湾のソ連帰属を出発点としている。これら条約により日本国民は他の外国人と同じく同湾の大部分における漁業を禁止され、一九四四年の議定書は右禁止を同湾全域に拡張した。一九〇七年条約と同じく、一九二八年条約に基き同湾の若干部分において数年間日本国民に対し漁業権が付与されていたという事実が、同湾のソ連帰属に関する事態を変更するものでなく、反対にソ連の同湾に対する権利を確認するものである。なぜなれば漁業権の付与はいうまでもなく公海に関しては行われるはずがなく、ソ連に属する海域に関して行われたことは自明であるからである。一九〇七年および一九二八年に日本政府は前記条約に明記されているように、日本国民の漁業権はソ連側から付与され、恵与されたものであることに明確に同意していることを指摘する必要がある。その一時的性質は、一九四四年に日本の同意の下に前記議定書により、同湾全域における日本国民の漁業が禁止されたことによつて確認された。

この禁止はまた同湾海域がソ連に帰属しているが故に行われた。さらに議定書の署名と同時に行われた両国全権の交換公文に基き、漁業禁止区域の境界は「現在の戦争の終了にいたるまでの期間」設けられはしたが、右公文および議定書のいずれにも戦争終了後この境界を一九二八年に定められた線に移すことを定めたいかなる規定もない事実に対し、注意を喚起する必要がある。

最近頻発化した外国漁船のピョートル大帝湾海域侵入および外国航空機の同海域上空飛行のため、ソ連政府は同湾海域におけるソ連内水の境界を指示し、同湾のソ連帰属を想起せしめる必要を認めた。

ソ連政府がピョートル大帝湾に関し行つた決定が、航行および漁業の自由を害するとの主張は、航行および漁業の自由が公海においてのみ存するものであり、ピョートル大帝湾がソ連の内水である限り、いかなる根拠も失つている。

以上述べたところにかんがみ、ソ連政府の採択したピョートル大帝湾におけるソ連内水の境界に関する決定についての日本政府のソ連政府に対する申入れ、およびこの問題をこれ以上ソ・日両国間で討議することには、いかなる根拠も見出すことができない。

しかし、このソ連の回答の内容は全く根拠を欠いている。そこで、政府は一月十七日在ソ門脇大使を通じ、このソ連側回答の論点を逐一反駁する口上書を、フェドレンコ外務次官に手交した。わが方の口上書は次の通りである。

一 ソヴィエト連邦政府は、ピョートル大帝湾に関する主張は、一九〇一年に公布されたロシア政府の黒龍江沿岸総督府の領海における海上漁業規則においてすでに明らかにされている旨のべているが、日本国政府としては、このような規則の存在を承知せず、いわんや公海の一部を一方的に内水化しようとするこのような規則の有効性をかつて承認したことはない。

二 ソヴィエト連邦政府は、いま一つの理由として、ピョートル大帝湾が陸地に深く湾入し、その全沿岸がソヴィエト連邦領域であり、かつ、その形状自体が同湾がソヴィエト連邦の陸地領域と不可分の一体をなすことを示していると主張している。しかしながら、ソヴィエト連邦が内水であると主張する問題の海域の湾口の長さは、百マイル以上に及んでいるのみならず、湾入の度合はソヴィエト連邦政府の主張に反してきわめて浅い。このような形状の湾入は、たとえその全沿岸が一国の領域に属する場合でも、国際法上沿岸国の内水たる湾として認められえないことは明白である。

三 ソヴィエト連邦政府は、さらに、問題の海域がソヴィエト連邦の内水であることは、同国の諸隣国によつて承認されている旨を述べているが、日本国政府としては、ソヴィエト連邦大臣会議のこの問題に関する決定に対して、世界の主要海運国を含む多数の国が抗議を行つているという事実を指摘しなければならない。

四 ソヴィエト連邦政府は、一九〇七年の日本国とロシアとの間の漁業条約、一九二八年の日本国とソヴィエト連邦との間の漁業条約、および一九四四年の日本国とソヴィエト連邦共和国との間の漁業条約の五年間効力存続に関する議定書を援用して、日本国も問題の海域がソヴィエト連邦の内水であることを承認していると主張しているが、このソヴィエト連邦政府の主張は、次の理由により、なんら根拠がないものであると考える。

(一) ピョートル大帝湾における日本国民に対する漁業の禁止は、前記の一九〇七年の条約の付属議定書においては、「領水の範囲内において」行われるものとしており、また、一九二八年の条約の議定書(甲)においては、「ただし公海を含まざるはもちろんとす」となつており、同湾内における公海の部分については、いずれの条約における漁業禁止に関する規定も適用がないことを明らかにしている。換言すれば、ソヴィエト連邦政府は、これらの条約において、同湾内に公海の部分があることを認めている。

(二) 一九四四年の議定書は、日本国政府がいかなる意味においても、問題の海域がソヴィエト連邦の内水であることを認めたことを意味するものでない。この議定書に基く漁業禁止が戦時中の暫定措置であることは、すでに一九五七年八月六日付日本国大使館口上書で指摘したとおり、今回のソヴィエト連邦外務省口上書に引用された一九四四年三月三十日付両国全権交換公文の「現在の戦争の終了に至るまでの期間」という字句よりみて疑をいれないところである。またこのように両国間で漁業を期限付で禁止することについて合意されたということは、ソヴィエト連邦が問題の海域に対してなんらの「歴史的な権利」をもつていないことの証拠となる。

五 以上述べたところにかんがみ、日本国政府は、冒頭のソヴィエト連邦外務省の口上書においてあらたにあげられたいずれの論点も、なんら根拠がないと考える。したがつて、日本国政府は、同国大使館の一九五七年七月二十六日付口上書および同年八月六日付口上書に明らかにされたその立場を再確認するものである。

なお、ソ連のピョートル大帝湾内海化については、この一方的閉鎖が国際法上の根拠なく、確立された海洋自由の原則に背くものであるとして、米、英をはじめとする各国政府がこれに厳重抗議している。すなわち、米国は八月十三日、英国は九月十日、フランスは十月十一日、イタリヤは十月十六日、ギリシャは十一月九日、スウェーデンは十二月六日、それぞれ対ソ抗議を行い、この内海化の措置の撤回方を求めた。

これに対し、ソ連政府は、英、米両国の在ソ大使館宛一月七日付口上書をもつて、わが政府あて回答とほぼ同様の回答を送つている。

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2 漁船拿捕問題

北洋においてはソ連によるわが漁船の不法拿捕がいぜん継続して後を絶たない。(第一号八三頁以下参照)

わが方は七月までに四回にわたり在ソ門脇大使および館員を通じて厳重抗議し、抑留漁船および漁民の即時送還を要求した。これにたいしてソ連外務省は八月二日門脇大使にたいし、日本漁船はすべて故意にソ連領海を侵犯して拿捕されたものであり、ソ連の領海を尊重しなければ、この種事件は今後も発生するであろうと回答した。そこで大使は、わが国は未だかつてソ連の十二カイリ領海を承認したことなく、ソ連が国際慣習となつている三カイリ領海を一方的に無視することは、絶対に承認し難いと強く反駁した。

ところがソ連側はさらに八月八日、わが在ソ大使館に対し従来の主張を繰返し、拿捕事件が続発しているのは、日本政府がソ連領海内の不法漁撈を禁じるために必要な手段を講じないためであると反論してきた。

わが方は九月十七日在ソ大使館を通じ、再び抑留漁船および漁民の返還を要求するとともに、新たに(一)個々の拿捕漁船、漁民にたいするソ連側の取調べ、裁判、刑罰、留置の場所等に関する資料の提出、(二)日本大使館員による漁民抑留所の訪問許可を求めた。しかし先方は、裁判等の実情についてはいずれ通報しうると思うが、館員の訪問については、抑留所が旅行禁止地域にあるため許されないと回答するにとどまつた。

その後十月九日、ソ連外務省は抑留中の日本漁民二五名のリストを在ソ大使館に交付したが、同月二十四日ザブロージン在京ソ連臨時代理大使は大野外務次官を来訪し、ソ連革命四十周年記念日に関連して服役中および取調中の日本漁民全員を特赦釈放するとのべ、十一月四日ナホトカにおいてこれらの漁民二八名がわが方に引渡された。なおこのさい、同代理大使は、今後の拿捕事件を防止するため、日本漁民がソ連領海に立入らないよう措置されたいと従来の主張を繰返したので、大野次官より、領海三カイリを侵犯しないよう措置することはできるが、日本側はまさにこの種の事件発生を防ぐために、近海漁業の安全操業問題をソ連側との間に至急解決したいのであるとのべた。

この間、ソ連外務省は八月十四日以降十月九日までに五回にわたり、没収した日本漁船名を通告して来たので、これを海上保安庁の調査結果と照合したところ、十月二十六日現在で、それまでにソ連側から没収通告のあつた九五隻のほかに、さらに一六隻がソ連側に拿捕されており、漁民についても、前述した特赦による二八名以外にまだ二名が抑留されていることが確実となつたが、さらにその後十一月二十八日以降新たに四隻(五〇名)が拿捕された。

そこで十二月十一日在ソ大使館を通じてこれらの即時返還を要求したところ、ソ連外務省は本年一月四日付口上書をもつて従来の主張を繰返すとともに、ソ連司法機関の決定をもつて没収されたものを再審する根拠なしとのべ、新たに没収した漁船の名称その他を通報してきた。また、この口上書によつて前述の二名が抑留中すでに死亡したことがはじめて判明した。

海上保安庁調査によれば、昭和三十二年十二月三十一日現在でソ連側に抑留されているものは、一一一隻、三名であり、このほかに終戦いらい一〇隻が抑留当時に破損のため船体を放棄し、または撃沈されており、抑留中の死亡者が合計九名にのぼつている。

なお、七月から十二月までの間にソ連に拿捕された漁船と乗組員数は、これを前年同期に比較表示すれぱ、つぎのとおりである。

                        (海上保安庁調)

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3 近海漁業問題

政府は昨年六月三日在ソ門脇大使を通じ、ソ連政府にたいし、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島および千島諸島の距岸十二カイリ以内の周辺水域において、北海道沿岸を基地とするわが零細漁民に小規模漁業とこんぶ採取の自由をみとめるよう申入れた。(第一号八三頁参照)

これに対し、ソ連側はわが方の再度にわたる督促の結果、八月十六日にいたり、「日本政府の要請を考慮し、かつ、日ソ間の善隣友好関係を発展させることの利益にかんがみ、日本側の覚書に掲げられた若干の水域のソ連領域における漁獲および海産物採取問題について、日本側と交渉に入る用意がある」旨を回答してきた。

そこで、わが方は八月二十九日、在ソ門脇大使を通じてソ連外務省に対し、わが方の協定案を提出した。

なお、この協定案においては、六月はじめ頃から、樺太方面におけるわが漁船の拿捕事件がひん発したことをも考慮し、対象水域として、北緯四十八度以南の樺太周辺水域を加え、北緯四十八度以北の千島諸島周辺水域を除外した。

このわが方提案にたいするソ連政府からの回答は、本年二月五日まで行われなかつたが、その間政府はモスクワおよび東京において十数回にわたり回答を督促した。すなわち

(一) 昭和三十二年九月十一日在ソ門脇大使よりクルジュコフ・ソ連外務省極東部長にたいし

(二) 同年九月十七日、在ソ大使館新関参事官よりカーピッツア・ソ連外務省極東部次長にたいし

(三) 同年九月二十三日および十月十日、在ソ門脇大使よりフェドレンコ・ソ連外務次官にたいし

(四) 同年十月十九日および十月二十三日大野外務事務次官より在京ザブロージン・ソ連臨時代理大使にたいし

(五) 同年十月二十一日在ソ大使館新関参事官よりソ連外務省クルジュコフ極東部長にたいし

(六) 同年十月二十九日在ソ門脇大使よりソ連外務省クルジュコフ極東部長にたいし

(七) 同年十一月十五日在ソ門脇大使よりフエドレンコ・ソ連外務次官にたいし

(八) 同年十二月六日在ソ門脇大使よりグロムイコ・ソ連外相にたいし

(九) 同年十二月二十七日金山外務省欧亜局長から来朝中のソ連外務省クルジュコフ極東部長にたいし

それぞれ、ソ連政府が速かにわが方提案にたいし回答を寄せ、正式交渉に入るよう要請し、このほかあらゆる機会をとらえ、ソ連側の注意を喚起した。なお、九月十二日から十二月六日にわたり東京において日ソ通商交渉が行われていたが、そのさいには、通商交渉においてわが方が示したと同様の熱意と誠意を、日ソ友好関係増進のためソ連政府においても本件近海漁業問題にたいし示すよう要請した。

これに対し、ソ連側は、最初から最後まで、「対案を準備中であり」、「近く」あるいは「近日中」に「意見の交換が可能であろう」とのべて正式回答を寄せなかつたが、十二月二十六日にいたり、フェドレンコ・ソ連外務次官は在ソ門脇大使にたいし、昭和三十三年一月からモスクワにおいて開催予定の北西太平洋日ソ漁業委員会第二回会議においてこの問題に関し、日ソ双方の意見を交換したい旨正式に回答してきた。

政府は、この回答にたいし、日ソ漁業委員会は公海における漁業の規制を目的とするものであるから、特定水域における特殊な魚種ないし海産物採取を目的とする近海漁業問題を討議することは不適当であることを十分認めつつも、問題の早急解決のため、一月二十七日在ソ門脇大使を通じ、日ソ漁業委員会第二回会議と平行して討議することを認める旨をソ連側に申入れた。

ところが、ソ連政府はこの申入れ後、わが方の督促にもかかわらず、なんら正式話合開始の意思を示さなかつたが、突然二月五日にいたり、イシコフ・ゴスプラン漁業部長から在ソ門脇大使に対し、

「昨年六月、日本政府はソ連政府に対し、千島列島付近のソ連領海における日本人の漁獲、水産物採取問題を申入れた。ソ連政府においては、日本政府が日ソ外交関係上の諸問題を解決する措置、特に平和条約の締結措置をとるものと考え、千島列島付近の領海の一定区域における日本人漁業につき、日本政府と交渉に入る用意があることを表明した。しかるに、日本政府は日ソ共同宣言の署名より相当の時日を経過せるにもかかわらず、今なお、平和条約を締結する用意を表明しない。これにかんがみ、ソ連政府は本件漁業問題を審議する条件が未だ熟していないと認める」

旨を回答し、また二月七日フエドレンコ・ソ連外務次官は在ソ門脇大使に対し、右イシコフ部長の回答をソ連政府の意向として確認した。

これにたいし、門脇大使は、従来の経緯からみて、ソ連側の今回の回答は全く了解できないところであり、零細漁民の生活問題である本問題を平和条約締結という政治問題にからませることは不都合であると反駁し、ソ連側が国後、択捉の返還を求めてやまぬわが国民の要望を容れないため、領土問題の未解決のまま共同宣言により国交の正常化をはかり、わが国は共同宣言後対ソ関係においてつねに友好的精神をもつて接しておるのであるからソ連側でも誠意ある態度を示すよう要望した。

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4 日ソ間の漁業についての学識経験者交換の問題

昭和三十一年十二月十二日日ソ共同宣言の発効に伴い、同年五月両国間に締結された「北西太平洋の公海における漁業に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の条約」が効力を発生し、同条約第三条の規定に基き、北西太平洋日ソ漁業委員会第一回会議が、昭和三十二年二月十五日から四月六日まで東京で開催された。会議においては特にさけ・ますの年間総漁獲量の決定をめぐつて彼我の間に種々接衝が重ねられ、けつきょく委員会外で、政治的に解決された。(第一号七九頁以下参照)

日ソ漁業委員会第一回会議終了後わが方は、委員会第一回会議でも議事録で基本的合意をみた日ソ漁業条約第五条に規定してある学識経験者の交換を行うこととし、六月十日在ソ門脇大使を通じて、その具体案をソ連側に申入れ、ソ連側でも同様の学識経験者の派遣を希望する場合は、わが方としても受入れの用意ある旨を通報した。

ソ連側はこの申入れに対し、ようやく八月二日にいたり、わが方視察団の構成について詳細の情報を求めてきたので、わが方はソ連側の回答遅延により視察団派遣の時期を失せざるよう注意を喚起しつつ、八月八日わが方の団員リストを手交した。

これに対しソ連側は九月中旬にいたり、わが方の視察希望個所であるカムチャッカ方面はすでに漁期を終了した現在、同方面に赴くことは意味を失つたので、ハバロフスクおよび沿海地方を視察してはどうかと示唆してきたが、わが方は原案通りの視察実現を九月中に実現するよう九月二十五日再びソ連に申入れを行つた。

十月二十一日、ソ違側は年度中に七名からなる日本代表団が樺太、沿海州、ハバロフスク地方の漁業企業、学術機関を三十日間に亘り視察することを回答してきた。

しかし、この回答はわが方の申入れから約四カ月を経てようやく、漁業資源上第一義的重要性をもたない地方のみの視察を認めたものであり、しかも時期もすでに漁業適期を失していたので、わが方は視察をとりやめ、次年度においてはカムチャッカその他の方面における適期の視察が実現できるよう希望する旨をソ連側に申入れ、一応この問題を打切つた。

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