外務本省

外交史料 Q&A
大正期

Question
 大正天皇の即位を記念してハワイのホノルル市に設置された「鳳凰噴水塔」に関する記録はありますか。

Answer

 大正天皇の即位式は1915年(大正4年)11月10日に予定されており、ハワイの在留邦人はこれを記念して製作した建造物をホノルル市に寄贈し、永久保存することを希望しました。そこで「御即位大礼奉祝会」の委員長を務めた在ホノルル領事有田八郎(ありた・はちろう/後の外務大臣)が中心となって、同市公園内に記念噴水塔を設置する計画が同年夏頃に持ち上がりました。当初の計画では、東京日比谷公園内にある「鶴の噴水」(現存)がモデルとされましたが、奉祝会においてそれ以上のものを希望する声が出たため、外務省を通じて東京美術学校(現・東京芸術大学)に設計を依頼し、その結果、上部に鳳凰を戴いた噴水塔とすることに決定しました。この鳳凰噴水塔の設計は同校出身の建築家・和田順顕(わだ・じゅんけん)が担当し、鳳凰の高さが6尺(約1.8m)、台座を含めた全体の高さは43尺3寸(約13.1m)という巨大な噴水塔の製作が計画されました。
 噴水塔の製作が東京美術学校に正式発注されたのは、即位式典後の1916年(大正5年)4月のことでした。製作費用(9,700円)はハワイ在留邦人の寄付によって賄われ、製作は日本で行い、完成した部品を輸送して現地で組み立てることとなりました。噴水塔は石造部分と金属部分に分けて製作され、先に完成した石造部分は同年11月に春陽丸で現地へ届けられました。しかし、水盤など金属部分の製作は難航し、また製作者の病気により作業が中断するなどしたため、すべての部品が現地に届けられたのは、それからさらに2年後の1918年(大正7年)11月になってからのことでした。こうした紆余曲折を経て、鳳凰噴水塔はホノルル市内のカピオラニ公園に設置され、1919年(大正8年)3月に除幕式が行われました。
 これら鳳凰噴水塔の設置をめぐる外務省と在ホノルル総領事館および東京美術学校とのやり取りに関する史料は、外務省記録「大正天皇御即位関係一件 記念事業関係」に含まれています。
 なお、カピオラニ公園の鳳凰噴水塔は太平洋戦争勃発後に撤去されました。

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Question
 1917年(大正6年)から翌年にかけて、米国に経済関係の使節団が派遣されたという記録はありますか。

Answer

 外務省記録「日本帝国政府海外特派財政経済委員設置並渡来一件」に関係記録が残っています。
 1917年9月の勅令により、財政・経済事項処理のため外国へ派遣する人員が必要な場合、「特派財政経済委員」という政府の臨時職員を設置する制度が開始されました。当時の寺内正毅(てらうち・まさたけ)内閣は、その委員長に目賀田種太郎(めがた・たねたろう)男爵を任命するとともに、大蔵省・農商務省の高級官吏や実業家から8名の委員を選出し、第一次世界大戦中の戦時財政の調査のため、米国へ派遣することにしました。
 同年10月15日に米国へと出発した特派委員一行は、主目的である戦時財政の調査以外にも、中国への投資や幣制改革をはじめとする経済問題や、日本人移民排斥問題など両国間の懸案について、米国政財界の名士と意見交換を行いました。特に、目賀田委員長はタフト(William Howard Taft)及びローズヴェルト(Theodore Roosevelt)両元大統領や、ルート(Elihu Root)元国務長官といった有力者とも会談しました。そして、日本銀行とニューヨーク連邦準備銀行との連絡協定を締結し、日米銀行や在米日本人商業会議所の設立に向けた予備交渉を行うなど、日米経済関係促進のために尽力し、1918年(大正7年)2月4日に帰朝しました。
 上記外務省記録ファイルには、目賀田委員長と米国要人との会談録や、外務省経由でやり取りされた大蔵省と特派委員との連絡電報といった関係文書が収録されています。

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