世界一周「何でもレポート」

省員エッセイ


(写真)谷口智彦副報道官

JET二世の誕生
The Japan Exchange and Teaching Program発足20周年に寄せて

広報文化交流部参事官・副報道官 谷口智彦


JETプログラム20周年

 今から20年前、JETなるものが始まると新聞だか何かで知った時、とっさに抱いた不安感――「大丈夫なのだろうか」という――を、いまだに思い出すことができる。しばらくして、黒人のJETが不当な扱いを受けて憤っているとか、案の定と思わせる事態がわずかではあったが幾度か報道によって伝えられた。

 それ以来、ぷっつり関連記事を見なくなった。実はその間にすっかり巡航速度を得たJETは、「報せの無いのは良い報せ」といえる状態になっていたのである。

 はっきりそのことを知ったのは、1997年春英国ロンドンへ行き、欧州取材の拠点となる支局を開いたときだ(筆者は当時記者稼業をしていた)。
 秘書についてくれたのが、サマンサという若い女性だった。日本語・日本研究の英国におけるメッカ、シェフィールド大学を出た彼女は、JETになって青森市役所に雇われた経験の持ち主だった。英語の指導助手(ALTと呼ぶ)でなく、国際交流のコーディネーター(CIR)としてである。
 「わたしの名前、青森のみんなすぐ覚えてくれました。あ、『奥様は魔女』のサマンサですね、って言って」――。

 ほどなくして出会ったのが米軍三沢基地の存在であり、そこへ来ていた米海軍の若い将校である。2人が恋に落ちたのは、いかにもという感じがする。イングランドの田舎で育った素朴な娘が潜水艦乗りのアメリカ海軍将校と出会うその場所が、遠い日本の、そのまたはるかな青森だったということ。成り行き自体の非日常ぶりはそれだけで、運命の赤い糸を若い二人に感じさせただろう。

 JETとは、と問われたら、筆者はいつもこの話を持ち出して、ロマンスさえ期待できるものなのだと言うことにしている。サマンサはその後将校をハワイまで追いかけていき、確か今はカリフォルニアに住んでいるはずだ。まさしくJETが生んだ、地球を結ぶ恋だった。

 平成18(2006)年11月22日、制度創設20周年を祝う日が近づくにつれ、JETのどこがすばらしいのか改めて思いをめぐらすことがあった。というのは20年も続けてくると、さすがにマンネリ感が出てくる。もっと切実な悩みとしては、JETの報酬が、とりわけ英国や米国で競争力を失った事実がある。アングロアメリカ経済は数年来好調で、初任給が上昇し続けたためだ。
 JETの募集を始めると日本の某有名駅前英語学校がどこかからやってきて、ていよくお客をさらっていくといった語るに落ちる場面すら、米国の募集現場では現れ始めている。ブランドの失墜を予見させる事態であって、看過し難いものだ。またJET関連実務は現場に多大の負荷を強いる。在外公館の限られた戦力からすると、過重に思えることがままあるのも事実である。

 しかしたとえこれらすべてが真実であろうとも、筆者はJETこそ、日本外交のcrown jewelだと信じて疑わない。

 第一にJETは「Class of 06」というような同期意識を参加者に植えつけるところが良い。第一波、二波と新規採用JETたちがやってくる初秋のレセプションなどへ行くと、若い男女の人いきれに頭がクラクラする。その瞬間から彼らの中に目覚め始める同期意識が、日本を離れた後、互いに絆を維持しあう動機になる。
 第二にJETは外国の若者を、文字通り日本の津々浦々へ送り込む。ノン東京の原(げん)日本には独特の面白さがあるだろうから、これが日本に強い興味を抱かせる結果になる。
 第三は第二の延長として、日本の表裏、えくぼとあばた、美しい面と醜い面を、JETは隔てなく見るだろう。対日観はそれだけ均整の取れたものとなり、つまりは落ち着いた、長持ちするものになると期待できる。日本の制度的強みとは社会の透明性であるとするなら、JETくらいそれを支持し強化して、かつは証してくれるものはない。こんな仕掛けを持つ国は、世界に稀だろう。

 そして最後の点として最も強調したいことがある。JETはほとんどが大学を出たばかり、二重三重の意味で「ぽっと出」の若者である。親元を離れたことはあっても、長い外国暮らしの経験ナシ。子供を教えた経験ナシ。なにより社会経験がほとんどナシ。つまりは子供なのである、彼ら彼女らの多くはまだ。
 だからダメなんだという声は、昔からある。使い物にならないしかえってお荷物だ、と。しかし筆者はそれらに問題を確かに認めつつも、だからいいのだと開き直りたい。

 なぜなら一言にして、JETとは、5万人にナンナンとする外国人の若者を「大人にしてきた」制度にほかならないからである。少なくない数の元JETたちは恐らく何年か経って日本生活を振り返るとき、ある固有の感慨を抱くに違いない。自分は日本で、大人の入り口を通過したという感慨である。自分を大人にした場所と機会、人々の集団を、人は一生忘れない。だからこそJETの多くは、日本に愛着もしくは執着を持ち続けるのである。

 最近聞いたエピソードに、こんなものがあった。あるアメリカ人母娘をめぐるものだ。
 母親の方は、ごく初期のJETとなりアメリカから日本へ来た黒人女性である。日本という異国へ行ってみる気にはなったものの、自分がどう見られ、周囲のどんな態度にさらされるか、当然ながら当初は不安だった。彼女はただ黒人だったというだけでなく、幼い娘の手を引くシングルマザーでもあったからだ。
 けれども結果は、彼女から一切の不安や危惧を吹き払うものだった。幼い娘は好奇と愛情の混ざった目に囲まれつつ日本生活を送り、多くの人々に抱きしめられて日本を後にした。
 このことが母と娘にとって繰り返し振り返る掛け替えのない共通体験となり、娘はいつしか、自分も大きくなったら母親のようにJETになって、日本へ行こうと固く思うに至った…。

 JETはついに、このようにして二世を生みつつある。40年目を祝える日に、JETが日本内外に織った人生のタペストリーは一体どれほどの重み、厚さを加えていることか。想像するだに、軽い興奮をおさえることはできない。

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