2. 東欧地域

(1) 内外情勢

84年から86年にかけ相次いで東欧各国で党大会が開かれたが,各国とも指導部に大きな変更はなく,政策面でも基本的に従来の路線が踏襲されることとなった。ゴルバチョフ政権が推進する改革路線は,その反応振りは各国の置かれた政治及び経済状況により異なるも,いずれの国に対しても少なからぬ影響を与えており,また,経済面を中心とするソ連・東欧圏内統合強化の動きにより,各国とも自国経済の活性化のために効率的な政策運営を求められている。

東欧各国において作成された新5か年計画(1986~1990)においては,かかる事情を反映し,科学技術の開発・導入,経済改革推進等に重点が置かれているが,86年に計画成長率を達成したのはポーランド,ブルガリアの2か国のみであった。

外交面では東欧諸国と中国との要人往来が相次ぎ,東欧各国とも対中関係改善に対する積極的姿勢が示された。

(イ) ワルシャワ条約加盟諸国

(a) ドイツ民主共和国(東独)

(i)  ホネカー議長は,74歳の高齢ながら,86年4月の第11回党大会において党書記長に,また同6月の人民議会で国家評議会議長に再選されたほか,指導部の主要人事にも大きな変更はなく,ホネカー体制が引き続き維持されることとなった。

(ii)  経済面では,86年は生産国民所得成長率が計画(4.4%)には及ばなかったものの4.3%と依然好調であり,また,穀物収穫量も史上最高の1,170万トンに達した。貿易収支は黒字幅が縮小したものの依然黒字を続け,対外債務も順調に減少している。

(iii)  外交面では,東独党大会へのゴルバチョフ書記長の出席,ホネカー議長の訪ソ(86年10月,11月)等により,ソ連との意思疎通を図るとともに,ホネカー議長のスウェーデン訪問等対西側対話政策を積極的に推進した。

86年10月には,ホネカー議長が,60年代の中ソ対立以来ルーマニアを除くWP加盟国首脳として初めて中国を公式訪問し,同国との関係改善を図った。

(b) ポーランド

(i)  86年6~7月,第10回党大会が開催され党指導部の人事異動によりヤルゼルスキ第一書記は党内権力基盤を一層強化するとともに,同年9月には,政治犯全員を釈放し,国内情勢安定化への自信を示した。

(ii)  同国の最大の課題は経済困難の克服であるが,対西側諸国累積債務総額は86年末で335億ドルとなり,経済回復の重荷となっている。86年度の経済実績は生産国民所得約5%増(対前年度比)であり,「ほどほどに満足すべきもの」(メスネル首相の国会演説)であったが,住宅建設,適切な価格水準維持等十分と言えず,国民の生活改善は遅々としたものにとどまっている。

(iii)  外交面ではポーランド党大会へのゴルバチョフ書記長の出席,ルイシコフ首相のポーランド訪問(86年10月)等対ソ関係緊密化が目立った。同時に上記政治犯釈放を契機に西側諸国との関係改善が一段と進み,87年1月,ヤルゼルスキ議長はイタリアを公式訪問した。さらに同2月には米国が対ポ経済制裁措置の解除を発表した。また86年9月ヤルゼルスキ議長は訪中し対中関係改善を図った。

(c) チェッコスロヴァキア

(i)  86年3月に開催された第17回党大会ではフサーク書記長以下の指導部に変更はなく,フサーク体制の継続が確認された。政情は表面上安定しているが,フサーク書記長は74歳の高齢であり,後継者問題も絡み,ゴルバチョフの改革路線への対応をめぐり党内で論争が進行している。

(ii)  経済面では86年は計画を僅かに下回る3.4%の成長率となったが,硬直的な経済メカニズム,科学技術・設備投資の立ち遅れなどの問題は深刻であり,党大会で打ち出された長期経済政策においてもかかる問題に対する抜本的な解決策は示されていない。

(iii)  外交面では,従来どおりソ連との協力関係に重点を置いた政策がとられた。ただし,沈滞した経済の活性化のため西側諸国と資本・技術協力を促進する動きも見られている。

(d) ハンガリー

(i)  一昨年の完全複数立候補制の導入以来公的機関による情報公開の促進を定めるプレス法の成立,言論の自由化ほか国内民主化が進展している。なお86年はハンガリー動乱30周年に当たるところ,政府の対応振りが注目されたがマスコミを動員し,ソ連軍による反乱鎮圧は正当であったとする対ソ配慮のキャンペーンが展開された。

(ii)  経済は,交易条件の悪化,チェルノブイリ原発事故及び干ばつの影響等により依然として不振が続いており,工業生産伸び率は対前年比1.1%増にとどまり,農業生産は同0.6%減となっている。経済改革の分野では,不採算企業を整理し補助金を削減するため破産法が9月に制定され,本年1月から銀行制度の改革が行われた。

(iii)  外交面では86年6月ゴルバチョフ書記長の同国訪問において同国が推進している経済改革に対する理解が表明されたことに満足するとともに,ゴルバチョフ書記長の改革路線に対する支持を表明している。また,西側との対話外交も,ヴァイッゼッカー西独大統領(86年10月)及びハウ英外相(87年3月)の訪洪等引き続き活発に進められた。

(e) ルーマニア

(i)  国内政情は,表面的には安定しているが,順調な発展を示す経済統計数字とは裏腹に対外債務返済のための輸出優先・輸入抑制政策等により,実際の生活水準は低迷が続き,国民は耐乏生活を強いられている。

(ii)  86年の国民所得は対前年比7.3%増,工業生産7.7%増を示し,また農業は穀物生産が初めて3,000万トンを超え史上最高の豊作となった。貿易収支は輸出(11.6%減),輸入(5.6%減)とも減少したが,81年以来の黒字を保った。しかるに食料,エネルギー,日用品の不足が長期化し,また,西側銀行団との間で債務(8.8億ドル)の再リスケを行う等,債務支払のペースも鈍化している。

(iii)  ルーマニアの自主外交は引き続き維持されているが,他方エネルギー不足,対外債務問題等の経済困難もあり,ソ連等コメコン諸国との貿易,経済関係の比重が高まっている。

(f) ブルガリア

(i)  内政は基本的に安定しており,治政30周年に当たる86年4月の第13回党大会ではジフコフが74歳の高齢ながら引き続き党書記長に選出された。ただしトルコ系少数民族の同化政策をめぐる問題は依然としてくすぶり続けており,内政面における不安定要因となっている。

(ii)  86年の国民所得は対前年比5.5%増で,ブルガリア経済は前年の不振(同1.8%増)からかなり持ち直したということができよう。「自主管理」を中心とした新たな経済改革が推進されているが,改革を急ぐあまり,現場ではかなりの混乱も見られている。

(iii)  対ソ関係は経済を中心に緊密の度を強めており,ゴルバチョフの改革路線には原則支持の立場をとっている。西側との関係ではここ数年悪化していた伊との関係が改善され,また87年2月にホワイトヘッド国務副長官が訪問する等,米国との関係にも進展が見られた。

(ロ) その他の諸国

(a) ユーゴースラヴィア

(i)  86年5月に内閣改造が行われ,プラニンツに代わり,強力な指導力を期待されてミクリッチが首相に就任した。また同年6月には党大会が行われ,党・政府両指導部人事が一新された。内政問題として,コソヴォのアルバニア系民族問題が依然として深刻であるが,集団輪番指導体制に動揺は見られない。

(ii)  経済の再建を最大の課題とする新内閣は輸出促進,インフレ抑制のため種々措置を打ち出し,経済困難乗り切りに努めている。86年は計画を上回る3.6%の成長率を記録したが,相変らずインフレが激しく,輸出も停滞気味であり,いまだに困難な状況が続いている。

(iii)  外交の基本である非同盟・独立路線を一貫して維持しており,86年9月のハラレ非同盟首脳会議でも参加諸国の利害の調整役として活躍した。また欧州における安全保障に強い関心を示しているユーゴーは,欧州の非同盟・中立諸国との協力を維持する一方,非同盟地中海諸国会議開催のイニシアティヴを打ち出した。

(b) アルバニア

(i)  86年11月には党大会が,また87年2月には総選挙があったが,ホッジャの死去(85年4月)に伴いその後継者として第一書記に選出されたアリア人民議会幹部会議長(元首)は,党首及び国家元首の地位を保持した。ホッジャ路線を継承する現政権は基本的に安定しているとみられる。

(ii)  対外面においては依然として米ソ非難を繰り返しており,両国との関係修復の徴候はみられない。ユーゴー・アルバニア間鉄道開通(86年9月)に象徴されるようにユーゴーとは実務関係を維持しつつもコソヴォのアルバニア系住民問題をめぐり緊張関係は継続している。近隣諸国,西側諸国ならびに中国等との経済を中心とする関係改善はゆっくりであるが,引き続き進展しつつある。

(2) 我が国との関係

(イ) ワルシャワ条約諸国

(a) 86年には,ドイツ民主共和国(東独)からミッターク政治局員兼国家評議会副議長(7月),ブルガリアからドイノフ副首相及びマルコフ第一副議長(11月),ポーランドからオジェホフスキ外務大臣(11月),さらに87年には,ハンガリーからハヴァシ政治局員(1月),また,東独からは,ジンダーマン人民議会議長(3月)が訪日した。他方,我が国からは,87年1月中曽根総理大臣が我が国総理として初めて,東独及びポーランドを公式訪問し,それぞれホネカー議長,シュトフ首相及びヤルゼルスキ議長,メスネル首相と会談を行い,我が国との二国間関係発展につき合意するとともに,東西間の政治対話の発展に寄与した。

(b) 経済面では,86年の我が国の対WP東欧諸国貿易総額は前年比16.7%増の10億2,655万ドルとなった。ブルガリア及びルーマニアとの間でそれぞれ政府間経済混合委員会を行った。

(ロ) ユーゴースラヴィアとの関係

86年にはマティッチ科学技術開発委員長(閣僚)(11月)及び,ブーチン社会主義同盟議長(12月)が訪日した。他方,我が国からは87年1月に中曽根総理大臣が日本の総理として初めてユーゴースラヴィアを公式訪問し,ハサニ大統領及びミクリッチ首相と会談を行い,両国関係発展のため一層努力することにつき意見の一致をみた。経済面では,86年11月に政府間経済混合委員会を開催するとともに87年3月には,86年5月から87年5月の間に支払い期限の到来する公的債務の繰延に関する二国間取極を締結した。

<要人往来>


<貿易関係>

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