第2部

各説

 

第1章 各国の情勢及び我が国とこれら諸国との関係

第1節 アジア地域

1.朝鮮半島

(1) 朝鮮半島の情勢

(イ)韓国の政情

(a)内政

3月~5月にかけて政局を揺るがす事件が相次いだが,全斗煥政権は内閣及び与党の人事刷新によって,これらを乗り切り,国民和合のための政治環境改善に向けて政治活動規制の一部解除等を行い,内外から評価を得るとともに国政運営の安定度を高めた。

82年初頭から83年3月までの主な内政動向は次のとおりである。

(i) 夜間通行禁止の解除

韓国政府は1月5日に,戦後37年間続いた夜間通行禁止令(午前0時から4時まで)を全面的に解除した。

(ii) 米国広報センター放火及び手形詐欺事件

3月18日米国の対韓姿勢を不満とする大学生グループが釜山にある米国広報センターに放火した。同学生グループはキリスト教関係者であったこともあり,政府とキリスト教会の対立に波及した。

また,5月中旬には巨額の手形詐欺事件が表面化し,その資金の使途に疑惑が持たれたことから政治問題に発展した。

(iii) 与党執行部の更迭内閣改造       

政府は手形詐欺事件の捜査の結果,「本事件の資金が政治資金に流れた痕跡は見当たらない」と発表したが,他方「政治的,道義的責任は免れない」として,5月20日全斗煥大統領は与党民主正義党の権正達事務総長,同党政策委議長ら執行部6名を解任した。

翌5月21日には,劉彰順国務総理以下全閣僚が辞表を提出し,このうち国防,農水産,商工等の11閣僚が更迭された。次いで6月24日には,国務総理・財務等4名の閣僚が交替した。

(iv) 金大中氏等の釈放

清州矯導所に服役していた金大中氏は12月16日,ソウル大学付属病院に移され,同23日,刑の執行停止により,家族と共に米国に向け出国した。また,24日には,全政権発足以前の政治犯全員(金大中氏の内乱罪関係者,光州事件関係者等計48名)が釈放された。

(v) 政治活動被規制者の解除

韓国政府は83年2月25日,朴政権下の政治家で80年11月以来政治活動を規制されていた者(82年末現在555名)のうち250名の規制を解除した。今回の解除者には,李孝祥元国会議長,金周仁元国会議員らが含まれている。

(b)外交

(i) 基本方針

全斗煥大統領は,82年1月22日の国政演説の中で,外交基本方針を次のとおり明らかにした。

(あ)同盟国,友好諸国との友好協力関係の拡大

(い)成熟したパートナーシップとしての米韓関係の発展

(う)相互尊重と理解に立脚した日韓善隣友好協力関係の発展

(え)アジア,欧州,中東,アフリカ及び南米諸国などとの関係の拡大と新しい関係の確立

(お)共産国家との対話の構築に努力

(か)南北双方の最高責任者による相互訪問の実現(資料編参照)

(ii) 対米関係

韓国にとっては,安定した米韓関係の発展がとりわけ重要である。

5月22日の米韓修交百周年記念日を中心に各種行事が行われた。他方,3月の釜山米広報センター放火事件があったが,大事には至らず,4月にはブッシュ副大統領の訪韓,7月には李範錫外務部長官の訪米,さらには,83年2月のシュルツ国務長官の訪韓によって,米国との強固な関係が再確認された。

(iii) 欧州等先進諸国との関係

韓国は対外関係多様化の見地から欧州等の先進国との関係強化に力を入れ,5月のフレーザー=オーストラリア首相の訪韓,8月の全大統領のカナダ訪問,8月のシェイソン=フランス外相の訪韓等の首脳,閣僚レベルの交流が行われた。

(iv) 非同盟諸国等との関係

韓国はアジア,アフリカ等の諸国との関係を北朝鮮との外交競争の場ととらえ,また86年のアジア競技大会,88年のオリンピックのソウル開催の成功に向けてこれらの国々に対し活発な外交活動を展開した。全大統領は8月アフリカ4か国を歴訪し,また,83年3月にはスーダン大統領が訪韓した。アジアでは10月にスハルト=インドネシア大統領が訪韓した。また,12月には金国務総理がラテン・アメリカ諸国を訪問した。

社会主義国との関係では,10月にソ連の政府関係者とジャーナリストが国際会議出席のためとはいえ訪韓したのが注目された。

更に,83年開催予定の列国議会同盟(IPU)総会のソウル誘致成功は,同国の国際的地位の向上を反映するものであった。

(v) 環太平洋諸国首脳会談構想

全斗煥大統領は7月31日の鎮海での記者会見において,環太平洋諸国の首脳が共通の関心事及び協力方法に関し協議するための定期的な首脳会談を開くという太平洋首脳会談構想を発表した。

(c)韓国の経済

60年代から70年代にかけて輸出主導型の工業発展を遂げ実質経済成長率10%台の高度成長を持続してきたが,79年の第2次石油危機を契機に経済的諸困難に直面し80年には6.2%のマイナス成長となるなど厳しい経済調整局面を迎えた。

韓国経済は,高度成長期に慢性化したインフレ,輸出依存過多,エネルギー多消費など体質面の問題が指摘されており,韓国経済が成熟するにつれ国際経済の変動の影響を受けやすい経済構造になったことが指摘されている。

こうした中で,82年から第5次経済社会発展5か年計画が発足した。

同計画は経済的,社会的不均衡を是正し,安定成長を達成するための基盤の確立を目標としている。初年度たる82年の上半期には,物価安定を最優先課題とする金融引締策が維持されたが,下半期には一転して金融緩和策・景気刺激策がとられた。しかしながら,長期化した不況のため民間消費及び民間設備投資は伸びず,また,韓国経済の原動力である輸出も前年比2.8%増の218億ドルと過去20年間で初めて一桁の伸びとなった。この結果,実質成長率は5.3%と当初計画を下回った。

他方,国内景気の不振を反映して輸入が大幅に減少したため,貿易収支・経常収支の赤字幅は各々24億ドル,25億ドルと改善した。また,物価上昇率も一桁台と大幅に改善した。

(ロ)北朝鮮の情勢

(a)内政

金日成主席を中心とする指導体制が堅持されており,82年は主体思想を基本指針とし,社会主義制度の強化を図る三大革命(思想,技術,文化)路線を推進する動きが引き続き展開された。

党の主要人事面では,金日成主席の子息金正日氏が2月の第7期最高人民会議代議員選挙において代議員に選出された。

また,労働新聞,平壌放送等を通じて金正日氏の業績称賛と同氏に金日成体制を継承すべき正統性があるとのキャンペーンが行われた。これらの動きは,金正日氏が主席の後継者としての地位を固めつつあることを示すものと一般に見られている。

(b)外交

(i) 北朝鮮の外交の基調は,北朝鮮を友好的に遇するすべての国々との間で完全な互恵平等,相互尊重と内政不干渉の原則に基づき国家的,政治的,経済的及び文化的関係を結ぶことにあるとされている。

(ii) 北朝鮮は,77年以来非同盟諸国との要人の往来に積極的に取り組んできた。82年中には,朴成哲副主席,李鐘玉総理,金永南党政治局委員,許ダム副総理兼外交部長など政府及び党の要人がアフリカ,東南アジア諸国などを訪問したほか,アジア,アフリカなどから要人が北朝鮮を訪問した。

(iii) 北朝鮮は,82年を通じ,ナウル,マラウィ及びスリナムと外交関係を新たに樹立した。この結果,82年末現在で外交関係を有する国は106か国である(このうち韓国とも外交関係を有するのは69か国)。

(iv) 中国及びソ連との関係については,北朝鮮はバランスの保持に留意する態度を維持している。中国との関係は,4月にトウ小平・胡ヨウ邦両首脳が,また,6月に耿ヒョウ国防相が北朝鮮を訪問し,北朝鮮側からは,9月金日成主席が中国を訪問した。他方,ソ連との関係についても,11月ブレジネフ書記長の逝去に際し,朴成哲副主席を団長とする朝鮮労働党・政府代表団が訪ソしたほか,各種レベルの人的往来が行われた。

(c)経済情勢

(i) 83年の金日成主席の「新年の辞」では大部分が経済建設問題に費やされていながら,穀物生産で950万トン,工業総生産高で前年比16.8%増を達成したと発表しているにすぎない。この他は具体的な生産実績についての言及がなく,総じて生産活動は前年に引き続き不振であったものと推測されている。

(ii) 北朝鮮は82年末現在西側諸国を含む諸外国に対し,なお推定で20~30億ドルの未払債務を抱え,その返済は順調に行われていないと言われている。対日債務は約600億円であるが,6月末返済分について約4か月遅延し,また82年12月末の支払分から向こう3年間の支払については債務返済計画の繰延べが行われていることから,北朝鮮の外貨事情は更に悪化しているものと見られている。

(ハ)南北関係

(a)南北対話

全斗煥大統領は1月南北代表が参加する「民族統一協議会」による統一憲法の起草・制定,統一実現までの措置としての「暫定協定」締結等を内容とする南北統一構想を明らかにした。しかし北朝鮮側は,協定締結は南北分断を法的に固定するものである等非難するとともに,「高麗民主連邦共和国」の樹立,在韓米軍撤退等の従来の主張を繰り返した。同時に南北の政治家による百人連合会議の招集を呼びかけたが,これは韓国の政府当局,政党,団体を排除し,韓国側からの参加メンバーを一方的に指名するなど韓国側にとって到底応じられないものであった。これに対し韓国側は,上記の南北双方の提案につき協議するため,南北双方9名の代表からなるハイ・レベル代表会談の開催を提案したが,何ら進展はなかった。

その後83年1月,北朝鮮が韓国からの米軍撤退問題を討議するための「南北諸政党・社会団体合同会談」及び同予備会談の開催を提案したのに対し,韓国側は,南北当局最高責任者会談開催問題及び平和統一実現に関連するすべての問題を討議するため「南北当局及び政党・社会団体代表会談」及び同予備会談の開催を呼びかけたが,北朝鮮側の応ずるところとなっていない。

(b)軍事情勢

82年も朝鮮半島では非武装地帯の銃撃戦(5件),武装スパイ侵入事件(1件),漁船拉致事件(1件)等が,ほぼ前年度並みに発生し厳しい緊張状態が持続した。北朝鮮は装備の近代化,国産化を進めるとともに中国から戦闘機を導入するなど依然として軍事力の増強に努めており,これに対応して韓国も第2次戦力増強計画(82~86年)に基づき軍事力の向上を図っている。初年度に当たる82年には戦闘機の国産化にも成功した。また,米国は,韓国軍の近代化のために対韓軍事援助を継続して行ったほか,在韓米軍の質的戦力の向上を図り,朝鮮半島の軍事バランスの維持に努めた。

これら軍事バランス維持のための施策と並行し緊張緩和と信頼醸成を図るため81年同様,在韓国連軍司令部は朝鮮半島における主要演習の相互通告制を提案し,更に米韓合同演習「チーム・スピリット83」の参観招待を行ったが,北朝鮮はこれらの提案に応ぜず,本演習に呼応して準戦時態勢を宣言した。

なお,在韓米軍兵士の亡命(8月),中国空軍機の韓国着陸(10月)及び北朝鮮パイロットの亡命(83年2月)等に見られるごとく,相互の亡命事件が,81年同様散発的に発生した。

(2)我が国と韓国との関係

(イ)概観

65年の日韓国交正常化以来,日韓関係は,着実な発展を見てきており,両国間で広範な分野にわたって交流と協力が行われている。

82年には,81年以来の懸案となっていた経済協力問題の解決が長引いたことに加え,教科書問題に端を発して厳しい対日批判が行われたことから日韓関係全体としても大きな前進は見られなかった。しかし,83年1月の中曽根総理大臣の訪韓を契機として両国間に国民的基盤に基づく交流を一層活発化しようという気運が盛り上がっている。

(ロ)中曽根総理大臣訪韓

中曽根総理大臣は,83年1月11,12日の両日,韓国政府の招請により,夫人と共に韓国を公式訪問した。日本の総理大臣が首脳会談を目的として韓国を公式訪問したのは初めてのことであり,同訪問には安倍外務大臣及び竹下大蔵大臣他が随行した。

中曽根総理大臣は,訪韓中2度にわたり全斗煥大統領と会談し,両国関係及び国際情勢等にっき幅広い意見交換を行った。12日には両首脳による共同声明が発表された(資料編参照)。

(ハ)経済協力問題

81年8月の外相会談において韓国側から要請のあった経済協力問題は,その方法,内容などにつき両国間の考え方に大きな隔たりがあり,82年中も引き続き両国間の大きな懸案の一つとなった。

しかしながら,82年末の我が国新内閣の発足を契機として,本問題を互譲の精神で解決すべきであるとの考え方が両国で強まり,83年1月の中曽根総理大臣訪韓の際,我が国は韓国の第5次経済社会発展5か年計画を中心とする経済社会開発プロジェクトに対し,我が国の経済協力の基本方針の下に可能な限りの協力を行うこととし,具体的内容は各年ごとの両国間の実務者レベルの協議などを通じて決定することとなった。

(ニ)教科書問題

7月初め,韓国の新聞報道をきっかけに,韓国内において我が国の歴史教科書に対する批判が高まり,8月初めには韓国政府がこの問題を外交ルートを通じて日本側に提起するに至った。これに対し,日本政府は,8月26日「アジアの近隣諸国との友好,親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け,政府の責任において是正する」との官房長官談話を発表し(資料編参照),これを韓国政府に伝えるとともに,11月には文部大臣談話の発表,教科書検定基準の改正等一連の措置をとったことにより,この問題は外交的に収拾された。

(ホ)通商関係

日韓両国間の貿易は基本的には順調に拡大しているが,82年は両国の景気低迷を背景に前年に比し輸出入とも減少した。

<要人往来>


<貿易関係>(1982年,単位:百万ドル,( )内は対前年比増加率%)

(出所:大蔵省通関統計)


<民間投資>(単位:百万ドル)

(届出ベース)


<経済協力(政府開発援助)>(1982年,単位:百万円,人)

(約束額ベース)(DAC実績ベース)

我が国の貿易相手国として韓国は82年で輸出は4位,輸入は8位となっている。

なお,国交正常化以来,日本側の出超が続いているが,往復貿易額に占める出超幅は縮小し,徐々にではあるが,日韓貿易は均衡に向かっている。

(へ)日韓大陸棚共同開発

大陸棚共同開発区域では,79年以降毎年物理探査が実施されており,80年に2か所,81年には1か所の試掘が実施されたが,いずれも微量の油・ガスの徴候はあったものの商業的発見には至らなかった。82年1月には,ソウルにおいて日韓大陸棚共同委員会第4回定例年次会議が開催された。

(ト)漁業問題

西日本水域における韓国漁船の操業問題について,政府は韓国漁船の領海・専管水域侵犯操業の中止及び日韓漁業協定合意議事録の尊重を働きかけてきている。韓国政府としても対策を講じているが,なお問題の抜本的解決を見るに至っていない。

北海道周辺における韓国漁船の操業問題については,83年10月まで韓国側の自主規制措置が定められているが,83年1月に違反操業が行われたため,政府は韓国政府に対し右自主規制措置の遵守を働きかけた。

竹島周辺水域の安全操業を確保する問題については,政府は引き続き努力を払っている。

(チ)竹島問題

我が国は,韓国による竹島不法占拠に対し,従来繰返し抗議しており,10月末の海上保安庁巡視船の調査結果に基づき抗議を行ったほか,各種会議の機会にも,この問題を韓国側に提起している。

(3)我が国と北朝鮮との関係

我が国と北朝鮮との間には国交はないが,貿易,経済,文化などの分野で交流が行われている。82年における主な動きは次のとおりである。

(イ)漁業関係

我が国漁船は,77年9月に日朝双方の民間関係者間で結ばれた日朝民間漁業暫定合意に基づき,北朝鮮が定めた暫定操業水域で漁業活動を行ってきたが,同取極は6月30日をもって失効し,同水域での漁業活動は中断のやむなきに至った。その後,同水域での操業の再開に向けて,日本側の民間関係者は話合いを開始すべく努力を続けているが,未だ実現には至っていない。他方,4月から7月にかけて,我が国漁船11隻が北朝鮮により連行ないし拿捕される事件が発生した。

(ロ)人的交流

(a)82年中の邦人の北朝鮮への渡航者数は,755名であり,81年の844名に比し11%減少した。渡航目的のうち最も多いのは商用であり,このほか親善交流等があった。

(b)一方,同期間中の北朝鮮からの入国者数は246名であり,81年の270名に比し9%減少した。入国目的の大部分は商用であった。

(c)さらに同期間中の在日朝鮮人に対する北朝鮮向け再入国許可数は4,215件であり,81年の4,101件に比し2%増加した。渡航用務の主なものは,親族訪問,学術・文化・スポーツ交流,観光,商用であった。

(ハ)日朝貿易

82年の日朝貿易は,81年の落込みから回復し,80年の過去最高額に次ぐ水準に達した。

対北朝鮮輸出は機械類が,輸入は魚介類を中心とする食料品,くず繭などの原材料,非鉄金属などが中心である。

<貿易関係>(1982年,単位:百万ドル,( )内は対前年比増加率%)

(出所:大蔵省通関統計)

 目次へ