3.中国大陸

 

(1) 中  国

 

 (イ) 中国の内外情勢

  (a) 国 内 の 動 向

 (i) 十 全 大 会

73年の中国は,外交よりもむしろ内政を中心に展開したといえるが,最も重要な出来事は4年4カ月ぶりに同年8月開催された中国共産党全国代表大会(第10回目にあたるので十全大会と云われる)であつた。この大会は,いわゆる「林彪事件」に一応の決着をつけ,前回の党大会(69年)で決められた「路線」の正当性と文化大革命継続の必要性を強調し,これを契機としてその後国内運動の新たな盛上がりがみられることとなつた。

十全大会は8月24日から28日まで北京で開催され,2,800万党員の代表1,249名が出席し,政治報告(周恩来),党規約改正報告(王洪文),第十期中央委員会の選出の3つの議題がとりあげられた。大会は上記2報告を採択し,195名の中央委員(大会以後4名が病死したので現在数は191名)および124名の候補委員を選出したほか,林彪と陳伯達の党籍剥奪を決定した。

8月30日,新たに選出された中央委員会の全体会議(一中全会)が開催され,党の主席(1名),同じく副主席(5名),政治局常務委員会委員(9名),政治局委員(21名),同候補(4名)を選出した。

この新指導都の特色は,副主席複数制の導入,「老・中・青三結合」原則による若手・中堅幹部の抜擢,各勢力間のバランスの平均等にみられ,また,中央委員会全体を通じての特色としては,軍関係者の比率が大幅に減少し,これに代つて大衆組織を背景として文革以来抬頭してきた労働者,農民,婦人代表等の大量進出,および文革以来姿をみせず最近復活した旧幹部や現職高級官僚の進出等があげられる。

周恩来首相が行なつた政治報告は,はじめて公式に「林彪事件」について説明し,十全大会路線が九全大会路線を継承したものであること,文革のような政治路線闘争は今後も何十回となく行なわねばならないこと,誤つた潮流には敢然として逆らう精神をもつべきこと,「上部構造」の改革を推進すべきこと,等を強調した。

王洪文副主席の党規約改正報告は,従来の党規約から林彪に関する部分を全部削除したことを明らかにするとともに,「継続革命」の堅持,「反潮流」精神高揚,後継者養成,「党の一元化指導」強化等を強調した。

 (ii) 批林整風運動

73年元旦3紙誌共同社説は「批修整風」運動を「第一の重要事」として推進すべきことを強調し,十全大会までは前年と同様「劉少奇のたぐいのペテン師」を批判する運動が展開されていた。十全大会以降は林彪を名指しで批判することが行なわれるようになり,さらに74年1月以降は,十全大会前後から開始された孔子批判と一本化され,「批林批孔」運動として一層の深化,発展をみせるに至つた。

孔子批判は従来も時々行なわれていたが,今回の孔子批判運動は8月上旬から始まり,最初は儒教尊崇に対する批判,秦始皇帝擁護や「焚書坑儒」の再評価等をめぐる学術論争的色彩が強かつたが,次第に中国社会の伝統的考え方や習慣を具体的に批判する方向へとひろがつていつた。また,同じころ始まつた反潮流運動は,主として教育改革と結びついた形で展開された。

 (iii) 旧幹部復活と大軍区司令員の異動

文革時に批判され一時姿を消していた旧幹部の復活は72年にもみられたが,73年に入ると副総理クラスの要人の復活が目立つた。

また,74年1月初め,地方11大軍区のうち8大軍区の司令員の異動が明らかにされたが,失脚乃至格下げは1人もなく,数年間空席であつた北京軍区司令員が補充されたほかは,それぞれ軍医間を異動するに止まつた。

 (iv) 大衆組織の再建

73年元旦社説によつて呼びかけられた大衆組織の再建は,2月に上海市の共産主義青年団が成立して以来,年末までに全国1級行政区において共青田,労働組合,婦女連合会(山東省のみ未成立)の再建を完了した。また,11月からは貧農下層中農協会の再建がはじまり,74年1月までに5省で成立した。

  (b) 外  交

 (i) 概  況

73年8月に開かれた中共党十全大会で,周恩来首相は,当面の国際情勢の特徴は「天下が大いに乱れていることである」と総括するとともに,「米ソ両核超大国が覇権を争つており,互いに結託もし,争奪もし」「毎日軍縮をとなえながら,軍拡に狂奔している」と非難し,これが第三世界諸国の強い抵抗にあつているとのべた。

このように中国の外交活動は,「超大国」に対する闘争姿勢と第三世界との連帯強化ならびに西側諸国との関係改善等の現実的かつ柔軟な姿勢の両面をあわせもつものである。73年の中国外交の特徴は,米国よりもソ連を「第一の敵」とする姿勢をより一層明確にするとともに,前年以来の対米関係改善,「西側諸国」への一層の接近,第三世界との協調等,現実外交路線展開のための着実かつ活発な「訪問」外交を展開した点にあつたと言えよう。即ち,中国が73年に世界各国に派遣した各種代表団(個人を含む)は400近く,外国からの訪中は900余にのぼり,このうち外国の元首・政府首脳の訪中は約50,アジア,アフリカ,中近東などの「第三世界」からの訪中は380前後と全体のほぼ4割を占めた。

なお,73年中に中国は,スペイン(3月9日),オートボルタ(9月15日)の2カ国と国交を正常化し,外交関係を結んだ国の数は91カ国に達した。

 (ii) 対 米 関 係

72年のニクソン大統領訪中によつて,"対決"から"対話"へと実質的転換をとげた両国関係は,73年2月にキッシンジャー補佐官が訪中して,相互に外交特権をもつ連絡事務所の設置を含む関係正常化促進のための具体的計画が合意された。これに基づき,米国から9月にフィラデルフィア交響楽団が訪中したのをはじめ,各分野での人事交流が活発に行なわれた。

一方,10月以降,米ソ協調ぺースにより中東停戦,和平工作が進められてからは,「米ソが中東を覇権争奪の場としている」といつた中国側の非難論調が増加し,このようななかで11月,キッシンジャー国務長官が再度訪中し,両国が上海コミュニケの精神を再確認する共同声明を発表し,ニクソン大統領訪中以来の米中外交の基本路線に変更のないことを内外に印象づけた。

 (iii) 対 ソ 関 係

対ソ関係では,国境交渉の停滞,国境地帯における緊張の継続が伝えられ,特に関係改善のきざしは見られなかつた。十全大会の政治報告の中で,林彪事件とソ連との結びつきについて初めて公式に非難がなされ,その後「批林整風」運動の中で林彪批判が高まるにつれて中国の対ソ非難も激化していつた。

しかしながら,このような激しい対ソ非難にもかかわらず,他面において十全大会の政治報告は「中ソ間の原則的な論争は平和共存五原則を基礎とする両国関係の正常化を妨げるべきではない」と述べており,対ソ関係を二足限度以上に悪化させないよう配慮しているともみられる。

中ソ両国間の実務関係では7月16日に中国民航のモスクワ乗入れを決めた中ソ航空協定交渉が妥結し(1番機は74年1月に就航),また8月1日に中・ソ73年バーター支払協定が調印された。

 (iv) 対 ア ジ ア 関 係

中国の東南アジア諸国に対する近年の外交政策は,基本的には,これら諸国が米国のアジア政策の転換に伴つて,ソ連あるいは他の第三国の影響下に置かれるのを防ぐことに大きな力点をおいているように見受けられる。このため中国は,(あ)インドシナ3国の左派勢力に対する支援の継続,(い)ASEAN諸国との関係正常化促進を主なる柱として,活発な動きを見せた。とくに,ASEAN諸国との関係正常化を打診する動きが漸次顕著となつており,これまで積極的に支援していた反政府ゲリラ活動に対しても,これを大々的に評価することを控えるとともに,これら諸国の政府に対する非難の調子を落しているやにみられる。また,12月にタイ政府貿易代表団が訪中して,中国から石油輸入の契約を取決めたことは,中東石油戦争を背景とした動きとして注目された。

 (V) その他の外交動向

第三世界諸国に対しては,国連等の場で中南米諸国の領海200カイリ説の支持,中来非核地帯化への支持,中東戦争での全面的アラブ側支持等により,中国が,これら開発途上国の側に立つ立場を強く印象づけたほか,タンザン鉄道援助にみられるように,アフリカに対する積極的な経済援助,アジア・アフリカ首脳の招待外交等, 第三世界一般に対して中国の外交的働きかけは年々高まりを見せている。

国連での外交活動では,中東安保理での米ソ共同決議案に反対しながら,投票に参加せず,結果飾こ拒否権の行使を避けたり,カンボジア問題,朝鮮統一問題等でも,慎重に対処する態度がみられた。

西欧諸国に対しては,姫鵬飛外相が6月,初めて公式にイギリス,フランス,イランを訪問し,また9月,ポンピドー大統領が欧州の国家元首として初めて訪中した。

  (c) 経  済

 (i) 経済政策については,引続き自力更生・刻苦奮闘を基調としながらも,現実的・合理的な政策が進められた。とくに従来,消極的であつた外国技術の受入れも,平等互恵の原則にもとづくものは拒否しないこと,工場における老幹部・熟練労働者の再登用,人民公社における生産隊の自主性尊重,自留地存続,同一労働に対する男女の報酬の均等,等の政策が行なわれた。また技術革新の提唱,生産競争および農業機械製造,セメント,化学肥料,鉄鋼,エネルギー(炭坑または発電所)など5種類の小規模工業の建設が強調された。もつともかかる動きと並行して,生産を刺激するための物質的奨励は修正主義の道であるとして,「批林批孔」(林彪・孔子批判)のスローガンのもとにこのような傾向をいましめる大衆運動が展開された。

 (ii) 生産面では,工業はかなり順調で,73年に石油5,000万トン(対前年比68.3%増),粗鋼2,500万トン(対前年比8.7%増)の生産のあつたことが公式ないし非公式に表明された。また農業は比較的天候に恵まれ,食糧は従来最高の71年の2億5,000万トンを超え,綿花(対前年比20%増),糖料作物,麻類,葉たばこなどが史上最高の収穫を記録し,工農業総生産額が前年比8%以上増加したと発表された。

 (iii) 一方,貿易は,生産財,食糧等の輸入が増加し,食糧,軽工業品等の輸出が増加したと見られ,73年の貿易総額は約90億米ドル,対前年比約60%の増加と見られている。

 (ロ) わが国との関係

  (a) 政府間の関係

 (i) 大使館の開設

日本側の在中国大使館は73年1月11日に,また中国側の在日大使館は同年2月1日に,それぞれ開設された。これを受けて同年3月27日陳楚駄日大使が,また同31日小川駐中国大使が,それぞれ着任し,日中共同声明にうたつた両国大使の交換が実現した。

 (ii) 各種実務協定の進捗

    (あ) 航 空 協 定

72年11月,日本側草案が提示されたのに対し,中国側草案は73年2月に提示された。双方の草案に関する予備交渉のため,同年3月8日から17日まで,中江アジア局参事官を団長とする政府代表団が,また,4月29日から5月2日まで,東郷外務審議官を団長とする政府代表団が,相次いで訪中し,中国側との間で話し合いを行つた。

これ等の話し合いをうけて74年初頭大平外務大臣訪中の際,日中航空協定についても日中両国首脳の問で意見交換が行なわれた。(大平大臣訪中については下記(iii)参照)

    (い) 貿 易 協 定

73年6月中旬,日本側から草案を提示し,中国側はこれに応じ,同月末中国側の草案を提示した。双方の草案を基礎に,同年8月17日から30日まで東京で,高島アジア局長を団長とする日本政府代表団と奚業勝中国対外貿易部第四局長を団長とする中国政府代表団との間で交渉が行われた。

東京交渉で,双方は協定の大筋につき合意,その後在中国日本大使館と中国対外貿易部の間で,条文の表現等技術的問題のツメが行われた結果,73年12月12日北京で仮署名が行われ,74年1月5日,大平外務大臣と姫外交部長との間で署名された。またその際交換された交換公文により,本協定は1月10日から暫定実施された。

    (う) 海 運 協 定

協定草案は,73年4月から5月にかけて双方の間で交換され,その後相手側草案に対する照会等が外交ルートを通じて行われた。また74年1月の大平外務大臣訪中の際,本協定の早期締結につき日中間で意見の一致をみた。

    (え) 漁 業 協 定

協定交渉の地ならしのため,73年6月17日から7月2日まで安福農林省水産庁次長を団長とする政府漁業専門家代表団が訪中,中国側と話し合つた。(その間,民間漁業協定は,一年間単純延長された。)

    (お) 記 者 交 換 取 極

従来日中間の記者交換は,日中覚書貿易取決めに基づいて行われていたが,73年末で失効することになつたため,両国政府間で,これに代る取極を締結することに合意した。その結果,本件に関する交換公文は,74年1月5日,在中国日本大使館橋本参事官と王珍中国外交部新聞局副局長との間で交された。

 (iii) 大平外務大臣の訪中

大平外務大臣(松永条約局長他随員11名)は,74年1月3日から6日まで,姫外交部長の招待により中国を訪問した。中国では,2回にわたり周総理と,また3回にわたり姫外交部長と,それぞれ会談をした。その間,1月5日には,北京中南海の毛沢東中国共産党主席私邸で,同主席の接見を受けた。     戻る

 (iv) その他の事象

(あ) 中曾根通産大臣は,73年1月17日から21日まで訪中し,周総理ら中国要人と会見した。

(い) 鐘夫翔中国電信総局長は,73年3月22日から4月6日まで,久野郵政大臣の招待により来日し,日中間の海底ケーブル敷設問題を話し合つた。その後4月30日から5月7日まで,久野大臣が答礼のため訪中,その際5月4日,同大臣と鐘総局長との間で 「日中間海底ケーブル建設に関する取極」が署名された。

(う) 73年6月16日から23日まで,遠藤農林省大臣官房技術審議官を団長とする政府裏林技術交流代表団が訪中した。

(え) 73年6月23日から27日まで,山口厚生政務次官を代表とする遺骨送還訪中団が訪中し,中国人遺骨11柱を中国側に引き渡すとともに,日本人遺骨899柱を中国側より受領した。

(お) 外務省は,73年6月28日,中国の核実験に対し,在中国日本大使館を通じて抗議した。

  (b) 民間交流および各種の関係

 (i) 両国間の人的交流

(あ) 73年4月16日から5月17日まで,慶承志中日友好協会会長を団長とする同協会代表団が来日し,わが方要人と会見した他,わが国各地を参観した。

(い) 73年9月11日から10月10日まで,劉希文中国国際貿易促進委員会責任者を団長とする中国経済貿易友好代表団が来日した。

(う) 73年11月22日から12月7日まで,岡崎嘉平木氏を団長とする日中覚書貿易代表団が訪中し走。

   (ii) 経 済 関 係

(あ) 73年の日中貿易は総額20億1,350万4千米ドル(対前年比83.0%増)に達した。そのうち,輸出は10億3,949万4千個米ドル(同70.7%増),輸入は9億7,401万米ドル(同98.3%増)であり,わが国の対中出超額は,約6,548万ドルに縮少した。

(い) 中国は,73年3月以降「友好商社」の指定を行なわないこととし,また同年末をもつて覚書貿易取決めが終了したことにより,従来の覚善貿易と友好貿易による二本立ての貿易方式は消滅することとなつた。

 

(2) モンゴル

 (イ) 内 外 情 勢

  (a) 内  政

6月24日第8期人民大会選挙が実施された。次いで,7月2日第8期第1回人民大会で,ツエデンバル氏が引続き閣僚会議議長(首相)に選出された。なお,空席であつた人民大会幹都会議長(元首)は選出されなかつた。

  (b) 外  交

モンゴルは73年にフィリピン(10月11日)およびカナダ(11月30日)と,また74年に入り,西ドイツ(1月31日)と外交関係を樹立した。モンゴルと外交関係を有する国は63カ国となつた。

モンゴルと中国は3月23日,中国の対モンゴル経済・技術援助協定の残務処理に関し合意に達し,中国政府は7件の未完成建築物を現在の価格でモンゴル側に引渡すことに同意した。上記協定は58年および60年に調印され,64年以来中断していたものである。

6月フサーク・チェッコスロヴァキア党書記長がモンゴルを訪問し,両国間の友好協力条約が締結された。また,10月ホネカー・東独党第1書記,同月末ジフコフ・ブルガリア党第1書記がそれぞれモンゴルを訪問した。

ツェデンバル首相は2月にインド,11月にキューバおよびイランをそれぞれ公式訪問した。

  (c) 経  済

10年来最高の好天に恵まれ,農業は穀物生産51万6,400トンと史上最高を記録した。牧畜は,家畜頭数が43万頭増加し,総家畜頭数約2,340万頭になつた。工業総生産は8.3%増で約678.8百万米ドルとなつた。

 (ロ) 日本・モンゴル関係

わが国は,6月15日ウランバートルに大使館を開設し,8月7日柘植大使を任命した。同大使は10月19日信任状を奉呈した。

モンゴルは12月24日わが国に大使館を開設し,74年1月31日,ダンバダルジャ駄日大使が信任状を奉呈した。

わが国は71年以来日本赤十字杜を通じ,モンゴル赤十字杜に対し救急車の援助をしてきたが,73年も引続き12台の救急車を贈与した。

73年の日本・モンゴル問貿易は,日本の輸出672千ドル,同輸入936千ドルで計1,608千ドルであつた。

 

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