-北米地域-

 

第3節 北米地域

 

1. 概観(日米関係)

 

1971年は日米関係において画期的な一年であつたと言えよう。1969年11月の佐藤総理大臣とニクソン大統領との間の共同声明発出以来行なわれてきた沖縄返還協定交渉が進捗した結果,沖縄返還協定は6月17日,東京およびワシントンの双方において,愛知外務大臣とロジャーズ国務長官との間で同時署名が行なわれ,その模様は宇宙時代にふさわしく衛星中継により放送された。ついで同協定は米国においては11月10日上院本会議で圧倒的多数(賛成84,反対6)により承認され,また,わが国においては,11月24日の衆議院本会議および12月22日の参議院本会議でそれぞれ可決された。これにより戦後の日米間の最大の政治的懸案であつた沖縄返還問題は,1969年の共同声明において合意されたとおり,核抜き,本土並みの原則の下に解決されることとなつた。

この間,日米経済関係は繊維問題を中心に困難な問題を露呈するとともに,わが国の通商政策につき自由化等を求める米国の主張が日ましに強まつていたが,かかる背景の下に第8回日米貿易経済合同委員会が2年振りに9月9日および1O日の両日ワシントンにおいて開催され,日米両国が共に関心を有する政治,経済等の諸問題につき率直かつ真撃な討議が行なわれ,日米関係の一層の促進の必要性が確認された。1971年において日米関係に大きな波紋をなげかけた出来事が起つたことも特記されよう。7月15日突然発表されたニクソン大統領の中華人民共和国訪問,さらに8月15日一方的に発表されたドルの金兌換停止,輸入課徴金賦課等を内容とする新経済政策は日本国内の多方面に多大の反響を呼び起し,日米関係を再検討すべきであるとの声が一般に聞かれるにいたつた。かかる事情を背景に1972年1月にサン・クレメンテにおいて日米首脳会談が開催され,佐藤総理大臣およびニクソン大統領との間で直面する諸問題について率直かつ隔意なき意見交換が行なわれたが,この会談で沖縄の施政権が同年5月15日に返還されることが決定されるとともに,相互理解と相互依存を基礎とする日米関係の重要性が確認され,緊密な日米関係を一層増進することが合意された。

このように,1971年から1972年初頭にかけての日米関係は特記すべき様相を呈したと言えようが,日米関係の維持促進が西太平洋地域の平和と安定のために緊要であるとの基本的認識においては何ら変化はなく今後ともかかる認識の下に日米関係の促進がはかられるものと期待される。

なお,1971年10月26日の天皇・皇后両陛下のアンカレッジお立寄り(ニクソン大統領夫妻が出迎えられ,短時間会談)は,日米友好関係史上において画期的な出来事であり,その意義は高く評価された。

 

2. 日 米 首 脳 会 談

 

佐藤総理大臣は1972年1月6日および7日,米国カリフォルニア州のサン・クレメンテにおいてニクソン大統領と2回にわたり会談した。日本側より福田外務大臣,水田大蔵大臣,田中通産大臣が,また米国側よりロジャーズ国務長官,コナリー財務長官,スタンズ商務長官がそれぞれ参加し,首脳会談と並行して福田外務大臣・ロジャーズ国務長官会談および水田大蔵大臣・田中通産大臣とコナリー財務長官・スタンズ商務長官との間の日米経済4閣僚会談が行なわれた。

今回の日米首脳会談は,ニクソン大統領の1972年2月の訪中,5月の訪ソに先立ち,西側同盟諸国と協議するため1971年末に行われた一連の会談(米加,米仏,米英,米独各首脳会談)の一環として開催されたものである。

日米首脳会談においては,国際情勢全般,中国を含むアジア情勢,日米両国関係など広範囲にわたり意見が交換された。さらに沖縄の本土復帰日を1972年5月15日とすること,日米両国は今後ともアジア政策について密接に協議すること,緊密な日米関係をさらに増進すること,日米文化交流を拡大することなどが合意され,これらを骨子とする共同発表が7日発表された。

(資料編参照)

 

3. 沖 縄 問 題

 

 (1) 施政権返還問題

(イ) 返還協定の署名

1969年11月の佐藤総理大臣とニクソン大統領との会談の結果,沖縄の「核抜き,本土並み,1972年中」返還という,沖縄の施政権返還の基本的大綱について日米間の合意が成立した。(「わが外交の近況」第14号125頁参照)

沖縄返還協定交渉については,1970年6月5日の愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との会談を起点として,その後原則として毎月1回上記会談を行なうほか,日米双方の事務当局において,鋭意かつ密接に協議を進めてきた。

その結果,1971年6月17日東京(総理大臣官邸)およびワシントン(国務省)の双方において,愛知外務大臣とロジャーズ国務長官との間で,沖縄返還協定-正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」-の同時署名が行なわれ,その模様は宇宙時代にふさわしく衛星中継された。

(ロ) 協定の主な内容

沖縄返還協定は,前文および9ヵ条から成つているが,その主な内容は以下のとおりである。

前文 総理大臣および大統領が1969年11月に沖縄の地位について検討し,その日本国への早期復帰を達成するための具体的な取決めに関して両政府が直ちに協議に入ることに合意したこと,両政府がこの協議を行ない,沖縄の復帰が佐藤・ニクソン共同声明の基礎の上に行なわれることを再確認したことなど,この協定の締結に至る経緯を述べている。

第1条 米国が,沖縄に関し平和条約第3条によつて与えられた施政権を同協定発効の日に日本国に返還する旨を規定している。返還される地域は,平和条約第3条地域のうち,未返還地域のすべてであり,その地理的範囲は,合意議事録で経緯度をもつて確認しているので,尖閣諸島がこの地域内に含まれていることは,疑念の余地がない。

第2条 日米安保条約および関連諸取決め等日米間の条約は,協定発効の日から沖縄に適用されることが確認されており,いわゆる「本土並み」がはつきりと規定されている。

第3条 日本政府は,日米安保条約および関連諸取決めに従い,協定発効の日に米国に対し沖縄における施設・区域の使用を許すことを規定している。

なお,この点に関連し,6月17日付愛知外務大臣とマイヤー大使との間の了解覚書は,(A)復帰の日から米軍に提供する用意のある施設・区域(88カ所),(B)復帰後日本側に返還されることとなる施設・区域(12ヵ所)および(C)米国政府が現に使用している基地で復帰の際またはその前にその全部または一部が使用解除されるもの(34ヵ所)のリストを掲げている。

第4条 本条は請求権に関する規定であるが,まず日本国は,米国の施政期間中沖縄において生じた対米請求権を放棄するが,この放棄には同期間中に適用された米国の法令または沖縄の現地法令により特に認められる日本国民の請求権の放棄を含まない旨規定されている。そして放棄されない請求権の主なものは,合意議事録に掲げられている。

また,米国政府は,高等弁務官布令第60号によつて原状回復のための支払いの対象となつた土地と同様の損害を受けながらその対象とならなかつた土地の所有者に対し,前記支払いとの均衡を失しないよう自発的支払いを行なうこととなつた。更に,交換公文において,米国政府は日本政府と協議の上,米国政府が沖縄で保有している埋立地を必要な限度で処分することにより,那覇軍港内の土地の海没から生じた問題を解決するためできる限りすみやかに必要な準備を完了することになつた。

第5条 日本国は,民事事件に関し,原則として沖縄における裁判所が行なつた最終的裁判の効力を認め,また,民・刑事事件とも,これらの裁判所に係属中の事件について原則として裁判権を引き継ぐこと等を規定している。この裁判所とは,琉球政府裁判所および米国民政府裁判所であつて,軍法会議は含んでいない。

第6条 琉球電力公社,琉球水道公社および琉球開発金融公社(所謂3公社)の財産は日本政府に引き継がれること,および復帰の日に米国に提供される施設・区域外にある米国政府の財産は,原則として日本政府に移転される旨を規定している。このような財産には,那覇空港施設,行政用建築物,道路構築物,航空保安施設,航路標識などが含まれている。更に,米国政府が保有している埋立地は,日本政府の財産となる。

第7条 日本政府は,米国の資産が日本に移転されること,米国政府が沖縄返還を共同声明第8項にいう日本政府の政策に背馳しないよう実施すること,米国政府が復帰後に雇用の分野等において余分の費用を負担することとなること等を考慮し,協定発効の日から5年間に3億2千万ドルを米国政府に支払うことを規定している。本条項に関し最も注意すべきは,佐藤・ニクソン共同声明の核抜きに関する部分の骨子が条文化されたことである。

第8条 日本政府は,協定発効の日から5年間,沖縄におけるVOA中継局の運営継続に同意し,両政府は同日から2年後にVOAの将来の運営について協議に入ることを規定している。なお,交換公文において,周波数その他中継局の活動に関する技術的事項のほか,米国政府は中継局の活動に関する請求を解決する責任を負うこと,中継番組の責任は米国政府にあるが,同政府は日本政府が表明した見解を尊重すること等を定めている。

第9条 効力発生について,東京で行なわれる批准書交換の後2ヵ月で,本協定は発効することを規定している。

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なお,沖縄返還協定と直接関連はないが,沖縄の復帰に伴う(a)外国人および外国企業の取扱い,および(b)航空運送業務の取扱いについても,前者については愛知外務大臣の書簡により,後者については了解覚書により,それぞれ次のとおりとなつた。

(a) 外国人および外国企業の取扱い

日本政府は,現に沖縄において適法に事業を営んでいる外国企業および個人営業者に,外資法に基づく認可および業種に応じ関係業法等に基づく免許または許可を受けるための申請を復帰後に行なわせることとし,若干の企業については日本政府の要請した調整を要するが,所要の認可,免許または許可はすみやかに与える旨を,6月17日付外務大臣発駐日米国大使あて書簡で明記している。

また,自由職業者については,沖縄において昭和46年1月1日前から継続して業務を行なつている外国人弁護士,琉球政府の免許を有する外国人医師および歯科医師等については,一定の条件のもとに,従前通りの活動ができるよう所要の措置をとる旨を前記書簡において述べている。これらはいずれも日本政府の政策として,米側へ通報したものである。

(b) 航 空 企 業

6月17日付吉野外務省アメリカ局長とスナイダー駐日米国公使との間の了解覚書により,復帰後米国航空企業は日本国本土と那覇との間の国内航空運送(カボタージュ)を行なう権利を有しないこと,および国際運輸については,5年の暫定期間中引き続き運航が認められるとの趣旨が合意されている。

(ハ) 国会における協定の承認

沖縄返還協定は,10月16日召集された第67臨時国会に,召集と同時に提出され,衆議院においては,11月17日沖縄返還協定特別委員会において,また11月24日本会議において,それぞれ可決された。また参議院においては,12月22日沖縄返還協定特別委員会および本会議においてそれぞれ可決され,沖縄返還協定はここにその締結につき国会の承認を得るに至つた。

(ニ) 沖縄復帰日の決定

1972年1月6日および7日の両日,米国カリフォルニア州サン・クレメンテにおいて佐藤総理大臣はニクソン大統領と会談を行なつたが,その際両首脳は同年5月15日を期して沖縄の日本への返還を実施することを決定した。

(ホ) 批准書の交換

前述のとおり,沖縄返還協定第9条は,この協定が批准書交換の日の後2ヵ月で効力を発生する旨規定している。従つて,サン・クレメンテ会談で決定された5月15日の沖縄返還実施のためには,3月15日に批准書交換を行なう必要がある。

かくて,3月15日東京(総理官邸)において,佐藤総理大臣出席のもとに,福田外務大臣とマイヤー駐日米国大使との間で,沖縄返還協定の批准書の交換が行なわれた。

 (2) 復 帰 準 備

(イ) 復帰準備委員会

1970年3月3日,愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との間で交換された沖縄の復帰準備に関する書簡により設置された沖縄復帰準備委員会は,大使級の日本国代表と米国代表たる高等弁務官によつて構成され,琉球政府行政主席が顧問としてこれに参加している。委員会の主な任務は,(イ)復帰準備のための原則および指針にしたがい,現地でとられるべき措置および実施計画の確定,(ロ)必要な調査および研究の実施,(ハ)復帰準備についての日米両国政府に対する必要な勧告の作成および委員会の活動につき,随時報告すること等とされている。

本委員会の代表会議は1970年3月24日の第1回会合以来現在まで8回の会合が持たれているが,復帰準備に関する日米間の細部にわたる具体的諸問題等については,これまで日米の代表代理の間で話合われてきており,この代理会議は,本年2月4日までに134回を数えるにいたつている。

(ロ) 民政機能の移行

(a) 前述の如く,沖縄の本土への返還日が決定されたことに伴い,復帰のための諸準備が一段と急がれているが,現地,復帰準備委員会においては,この準備作業の一環として,米国民政府の機能の一部を復帰前に琉球政府に委任し,これに対し,日本政府が助言と援助を与えるという,いわゆる「民政機能の移行」について,これまで米側と話合いを行なつてきており,1970年11月には14項目に上る機能の移行につき合意をみ,すでにこれが実施に移されてきている。

(b) 昨年6月の沖縄返還協定署名後,米側より,さらに追加的な機能移行の提案が行なわれ,現在,準備委員会において,専門家による小委員会を設置して,入管行政(出入国管理関係―施政権小委員会),合同石油審議会の機能(ガソリン・スタンド新設認可権限―産経小委員会),米軍用自動車の登録(黄色ナンバー・プレートの発給権限―地位協定小委員会)等の引継ぎ準備につき,話合いを進めている。

(c) その後,昨年12月,沖縄返還協定の国会承認(12月22日)後に米側より,返還協定上その財産の日本政府への移転が明らかにされている3公社の引継ぎ準備および本来の民政機能としての土地の管理,郵便,検疫,税関,出入国管理,麻薬管理業務等17項目に上る移行準備につき提案越した。関係各省庁においては,右米側提案を検討の上,日本側の具体的提案等,引継準備の細目につき順次各項目毎に米側と詰めていくこととしている。

 (3) 対沖縄財政援助

昨年1月に開催された第21回沖縄に関する日米協議委員会において,琉球政府の1972会計年度(昭和46年7月1日から47年6月30日まで)に支出される日本政府の昭和46会計年度沖縄復帰対策費につき,日米間で合意されたが,47年度においては,本土復帰の前日である5月14日までに見合う援助額として,財政投融資を含め,総額489億2,400万円を計上した。この対沖縄援助額は,47年度予算が国会において承認され次第,正式に確定することとなる。

なお,上記47年度対沖縄援助額に関する日米間の合意手続きについては,本年は,復帰日までの短期間の援助計画であることにも鑑み,沖縄に関する日米協議委員会を開催することなく,外務省(吉野アメリカ局長)と在京米国大使館(スナイダー公使)間の書簡の往復により,1月24日付をもつて合意された。

 (4) 沖縄現地の情勢

(イ) 行政主席等の任期延長

「琉球列島の施政に関する行政命令」(1957年6月5日行政命令第10713号)は,琉球政府行政主席および立法院議員の任期を3年と定めており,現在の行政主席および立法院議員は1971年11月30日に任期満了となる予定であつたが,同年9月10日米国政府は,前記行政命令を改正し,現に行政主席および立法院議員である者の任期を,沖縄の本土復帰の日まで延長することとした。

(ロ) 毒ガス兵器の撤去,毒ガス兵器の第2次以降の撤去に際しては第1次撤去に使用された移送ルート(知花弾薬庫から具志川市,石川市を経て天願桟橋に至る経路)を基礎とするとの1971年2月5日付米側発表に対し,沖縄現地住民は,第一次移送時における安全対策は不十分であつたとし,また第一次移送に関しての補償問題が未解決であるとして,同ルートを使用することに強く反対し,その使用に対しては実力をもつて阻止する動きをみせた。このため琉球政府は第2次移送に際し,同政府に従来より設置されていた毒ガス撤去対策本部に加え,4月1日毒ガス撤去対策米琉合同委員会および同対策幹事会を設置し,現地住民の説得に努めるとともに,米側に対しては移送ルートの変更をも含め移送作業についての安全対策等に万全を期することを要請した。

前記米琉合同委員会において協議が重ねられた結果,琉球政府は米側が同政府が要請した安全対策を受け入れることを確認したので,4月30日第2次以降の毒ガス移送ルートについては,事態が切迫していることにもかんがみ,米側提案の新たな移送ルート(知花弾薬庫より瑞慶山ダム北岸を迂回し池原に至る経路を米軍が建設する)を使用することを了解した旨を明らかにすると共に,5月6日同政府は日本政府に対し,第2次移送ルートの建設および補償等を含む諸経費につき協力方要請越した。日本政府は毒ガス兵器に対する沖縄現地の感情をも考慮し,同ルートの建設に必要な経費20万ドルを負担することとし,6月2日琉球政府を通じ前記額を米側に送達した。

7月上旬第2次移送ルートの建設工事は完了したので,移送作業は同15日早朝より開始された。作業開始に先立ち,同13日ランパート高等弁務官は屋良主席に対し,米側は毒ガス兵器の撤去完了後,移送に関する琉球政府および関係市町村の行政上の人件費として4万ドルを支出することにつき,米国政府の許可を得たと伝えた。

爾来9月10日までの間,沖縄の毒ガス兵器の第2次撤去は5回にわたりのべ5隻の米国輸送船により実施され,第1次分150トンを含め総計16,243.7トン(内訳HD2,715.0トン,GB8,322.1トン,VX2,056.6トン)のジョンストン島への移送を完了した。翌10日早朝日米琉代表13名(日本側高瀬大使他,米側ランパート高等弁務官他,琉球政府側屋良行政主席他)は,毒ガス兵器が貯蔵されていた知花弾薬庫内の61の弾薬庫を点検し,同兵器が完全に撤去されたことを確認した。

なお,毒ガス兵器の移送作業に従事した米軍第267化学中隊は,9月27日午後解団式を行なつた後その大部分は嘉手納空軍基地よりジョンストン島へ移駐した。

 

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