北 米 地 域

1 日米関係の概観

日米両国は、国際社会における多くの分野で共通の目的と利害を有することに基づいて緊密な関係を維持している。とくに近年に至って、両国は、世界特にアジア太平洋地域の安定と福祉のために、それぞれの立場から積極的に貢献しており、この面での協力を通じて両国の友好関係は一層意義あるものとなりつつある。

すなわち、わが国は、東南アジア開発閣僚会議、農業開発会議、アジア太平洋協議会閣僚会議、アジア開発銀行等に象徴される東南アジア諸国を中心とするアジアの安定と開発のための努力を積極的に支援し、あるいは進んで、そのためのイニシァティヴをとっている。これに対し、米国も、このようなアジア諸国の動きを「アジアの新風」として歓迎し、これに域外から援助し協力する姿勢をとっている。

また、両国政府は中国問題、ヴィエトナム問題、核兵器拡散防止問題をはじめとする広範な国際問題についても、率直かつ緊密な意見交換を続けている。さらに、かかる日米協力関係の重要な一部をなす安全保障面での協力関係も、ますます緊密の度を加えている。

このような密接な日米関係の現われとして、椎名外務大臣の訪米(一九六六年九月)、ラスク国務長官の来日(同年七月及び一二月)等の機会に、両国政府首脳間で有意義な意見交換が行なわれた。また、両国間の高い次元での常設協議機関である日米貿易経済合同委員会第五回会合(一九六六年七月)、日米医学協力委員会第二回会合(同年八月)及び科学協力に関する日米委員会第六回会合(同年一〇月)が開催され、それぞれの分野で成果を挙げた。

両国間には、漁業問題、沖繩小笠原問題等困難な懸案もあるが、これらについても現実的解決にむかって地道な努力が続けられている。

すなわち、漁業問題については、一九六六年一一月、日米たらばがに取決めが向う二年間更新され、また米国の漁業水域設定法の制定に伴う問題についても、六七年五月両国政府間の取決めが成立する等、両国は、現実的な立場から相互の利害を調整し、両国間に調和のとれた漁業関係を樹立すべく努力している。

また沖繩小笠原問題については、日米協議委員会等を通じて、いくつかの問題について進展が見られた。すなわち、沖繩における日本旅券の発給、在外沖繩住民の保護に関する日本政府の第一義的責任、沖繩からの移住、沖繩船舶旗の改訂等について、米側との間に合意が成立し、また日本航空の沖繩諸島間運航への参加も決定を見た。

日本政府からの沖繩援助も質量ともに飛躍的に充実、強化された。小笠原問題については、六五年に引きつづき六六年五月には第二回墓参が実現され、六七年五月第三回が実施されることとなっている。政府は国民の強い願望である沖繩小笠原の施政権返還問題については、わが国を含む極東の安全保障の問題をも念頭におきながら検討を続けるとともに、この問題が出来る限り早期に解決するよう米国との間に絶えず協議を続けている。同時に、政府は沖繩の祖国復帰の日にそなえて住民の民生福祉等あらゆる分野で本土との格差を縮少し、本土との一体化を図るための努力を続けている。

経済貿易面における日米関係も、従前どおり緊密な関係を保っている。一九六六年の対米輸出は、米国経済が拡大基調を維持したことに支えられ順調な伸びを示したが、同時に対米輸入もわが国経済の順調な回復を反映して増大した。この結果一九六五年に見られた輸出の激増に対する輸入の停滞という状態は改まったが、対米貿易収支尻は、前年に引続きわが国の出超を記録したのみならず、出超幅も約三億一千万ドルと大幅に拡大した。貿易外収支は一九六二年以来四年ぶりに僅かながらもわが国の受超となったが長期資本収支では、米国における金融逼迫等から受取りが減少した上に支払いの増加をみたため、二億七千万ドル余の払超となった。この結果、対米収支は、前年に引続き、黒字の大幅な拡大を伴ないつつも、資本収支の赤字を経常収支の黒字でカバーするというパターンをとることとなった。

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2 日米科学委員会

「科学協力に関する日米委員会」は、一九六一年に設置(「わが外交の近況」第六号一一四頁参照)されて以来、毎年一回開催され、これまで五回の会合が行なわれてきたが、その第六回会合が、一九六六年一〇月一〇日より一三日まで、ワシントンにおいて開催された。日本側からは兼重寛九郎委員代表ほか一〇名が、米側からはH.C.ケリー委員代表ほか一三名がそれぞれ出席した。

本会合においては、(1) 本委員会の発足以来過去五年間の活動の全般をとりまとめた報告書案を検討し、これを承認した(この五年報告書は近く出版される予定である)、(2) 従来と同様、人物交流、科学情報及び資料の交換、太平洋地域の地球科学、生物科学、医学、科学教育、ハリケーンと台風に関する研究、農薬に関する研究の八つの専門分科会からそれぞれ提出された報告と勧告を検討し、所要の勧告を両国政府に提出することが合意された、(3) 従来の共同研究計画に加えて、物性物理学、数理経済学、都市工学、細胞生物学、及び日本とペルーとの間の古代における接触の研究を新しい協力分野として取り上げる可能性について検討することに合意し、そのいずれを政府に勧告するかは、両国委員代表に委託された。

なお、同委員会は今回の会合の期間中に、本計画の下で実施された重要な研究の一部について、その研究者(日米各三名)による学術講演会を開催した。

次回会合は、一九六七年七月上旬に東京で開催される予定である。

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3 日米医学協力委員会

一九六五年一月佐藤総理訪米の際、ジョンソン大統領との間で、医学面における協力計画を大いに拡大すること、並びに、その実施のため日米両国の第一級の医学者からなる会議を招集することが合意された(「わが外交の近況」第九号資料編二四頁参照)ことに基づき設置された日米医学協力委員会の第二回会合は、一九六六年八月一八、一九日の両日、箱根で開催された。日本側よりは、黒川利雄委員長ほか一二名が、米側よりは、コリン・M・マクラウド委員長ほか一〇名が出席した。

本会合において委員会は、(1) コレラ、結核、らい、寄生虫疾患(日本住血吸虫及びフィラリア症)及び新しく承認された「低栄養」の各専門部会長から、前回会合以降の研究活動の報告と将来の計画について説明を受け、(2) 研究者の交換について検討するよう両国政府に勧告することに合意し、(3) 専門部会へのWHO及び第三国の科学者の参加が有益であると認め、かつ、委員会はWHOの日米両政府代表の間に緊密な連絡を保ってゆくことを再確認し、(4) 次回会合を一九六七年七月に米国西海岸で開催することを両国政府に勧告することに合意した。

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4 沖繩、小笠原問題

(1) 沖繩に関する協議委員会

一九六六年四月から、一九六七年三月までの間に、沖繩に関する協議委員会は、四回開催された。すなわち、第九回(一九六六年五月九日)、第一〇回(同年一〇月一八日)、第一一回(一九六七年一月二五日)及び、第一二回(同年三月一日)である。これらの会合を通じて日米間に合意の成立した事項は、以下(2)~(6)のとおりである。

(2) 対沖繩援助問題

協議委員会の第一二回会合で合意された日本政府の沖繩に対する予想援助計画は、総額一〇三億五二七六万八千円で前年度当初額より四五億五一七九万七千円の増額になっており、全額琉球政府の一九六八会計年度(昭和四二年七月~昭和四三年六月)中に支出されることとなっているが、日琉間の会計年度の相違を考慮して八二億一七五六万九千円は日本政府の昭和四二会計年度予算に計上され、残額二一億三一五一九万九千円は昭和四三会計年度予算に計上することが予定されている。

以上の援助計画額のうち新規事業は教育研修センターの設置、水泳プール、こどもの国及び学生文化センターの建設費援助、結核検診班の派遣、極超短波電話回線、水産資源調査、漁業海岸無線局等一八項目に及んでいる。

また義務教育職員給与費の半額援助、教科書無償配布のための援助、生活保護費の八○%援助等、国土保全、社会保障、教育等の事業について本土府県及び市町村に政府が与えている国庫負担分と同様の考え方に基づく援助も次第に増加してきている。

なお、前記の第一〇回会合では、米側より昭和四二会計年度日本政府対沖繩援助及び宮古島台風による被害に関する日本政府対沖繩災害対策援助が提案され、このうち日本政府の昭和四一年度補正予算に沖繩災害対策援助のための一般住宅建設費三億六千万円が計上された。

(3) 旅券発給問題

従来、沖繩住民は、日本本土及び外国においては、日本旅券の発給を受けることができたが、沖繩では発給を受けられなかったため、多くの沖繩住民が外国に渡航する場合に民政府の発給する身分証明書を所持していた。そこで日本側よりかかる状態を是正し、沖繩においても日本旅券の発給が可能になるようにすることを協議委員会の第九回会合で提案し、米側は沖繩からの出入域管理権を米側が留保することを条件に、在那覇日本政府南方連絡事務所をして日本旅券を発給せしめることに原則的に合意し、本土と沖繩との間の渡航のための文書も同様の条件で南方連絡事務所に発給せしめることに同意した。その後、日米間で協議しつつ諸般の準備を進めているが、これが実施されれば、沖繩住民はすべて沖繩出発のときから日本旅券の発給を受けることができ、沖繩住民が日本国籍を有し、第一義的に日本政府の保護を受けることが第三国に対しても明らかとなるばかりでなく、日本との間に査証免除協定を締結している国との関係では査証を免除される等実際的便宜も多くなる。

(4) 在外沖繩住民の保護

協議委員会の第九回会合で、今後海外にある沖繩住民に対しては、わが国が第一義的な保護の責任を引き受けることが合意された。

(5) 沖繩住民の海外移住計画の作成と実施

従来、沖繩住民の沖繩から海外への直接移住は、民政府及び琉球政府の下に琉球海外移住公社及び沖繩海外協会が実施し、日本政府は関与していなかった。しかるに、協議委員会の第九回会合において沖繩からの移住については、日本政府及び海外移住事業団が民政府、琉球政府等と協力してその計画の作成及び実施にあたることが合意された。その後の事務的な日米間の協議により、日本政府が民政府、琉球政府とも協議しつつ、沖繩における移住関係広報、移住者の選抜、指導、渡航費支給等についての年次計画を作成し、これらの事務を海外移住事業団事務所と琉球政府とが分損実施し、南方連絡事務所が調整、連絡の任にあたるとの方向で諸般の準備が進められている。この結果今後事務的手続が整い次第、沖繩住民の海外移住も日本政府が益たる責任をもつことになる。

(6) 沖繩船舶旗問題

従来、沖繩船舶旗は、琉球船舶規則により国際信号籏"D"(デルタ)旗の旗端から等辺三角形を切取った特別な旗を船舶旗として掲げることになっていた。ところが、沖繩住民の間に沖繩船舶に日章旗の掲揚を許可してほしいとの強い願望があったので協議委員会の第九回会合で日本側より沖繩籍船舶旗を変更して日章旗の上に沖繩を示すなんらかの標識を重ねて掲揚したものを新しい沖繩船舶旗として採用することを提案した。これに対し、協議委員会の第一二回会合で米側は、日章旗の上に白地に赤くローマ字及び漢字で「琉球」と書いた細長い三角形の旗を掲げたものを新沖繩船舶旗とすることに同意した。この合意に基づいて近く沖繩において、新たな船舶旗を定める法的措置がとられれば、日章旗を含む沖繩船舶旗がすべての沖繩船舶に掲げられることになる。

(7) 日航の沖繩諸島間運航

従来、沖繩諸島間(沖繩本島と先島等離島との間)の航空運送には、琉球列島米国民政府がチャーターした米国のエア・アメリカ社が従事していたところ、一九六六年六月、民政府より、日本航空をはじめとするいくつかの航空企業に対し、エア・アメリカ社に代わって沖繩内の運航を行なう意志の有無につき打診があり、これに対し、日本航空を初め、米国のアロハ航空、エア・アメリカの三社が、同運航業務を行なうための申請を行なっていた。しかるところ一九六七年三月三一日、米国民政府は、日本航空の申請を正式に採用することを決定した旨発表した。

日本航空の申請は、沖繩に、日航が資本の過半数を所有する合弁会社を設立し、その新会社により運航を行なうもので、七月一日実施の予定である。これが実現すれば、日本の航空企業が沖繩諸島間の運航に参加してほしいとの住民の願望も実現されることとなる。

(8) 小笠原墓参

旧小笠原島民の墓参問題は一九六五年一月佐藤総理訪米の際、ジョンソン大統領との会談で取り上げられ、その結果、同年五月及び六月、旧島民の代表による父島・母島及び硫黄島への第一回墓参が実現したが、これに引続き、翌六六年五月及び六月に、米側の同意を得て、第二回墓参が実施された。すなわち、硫黄島については、一〇名の島民代表と政府関係者、報道関係者など計二三名からなる墓参団が、同年五月一八日、日航特別機をもって日帰りで硫黄島を訪問し、現地で慰霊祭を行なった。父島・母島については、二〇名の島民代表と政府、報道関係者など計三三名からなる墓参団が、海上保安庁巡視船「宗谷」で、同年五月二〇日より六月二日までの二週間にわたり、父島・母島を訪れた。その間、一行は大根山、小曲、衣館、静沢の各墓地において墓地の清掃ならびに慰霊祭を行なった。

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5 日米安保条約関係資料の発表

外務省は、これまで国会等で明らかにされてきた日米安保条約の主要問題点に関する政府の見解を整理し、国民一般の安全保障問題に対する理解に資する目的をもって「日米安保条約の問題点について」と題する文書を作成し、一九六六年四月一六日発表した(資料篇参照)。

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6 要人往来

(1) 椎名外務大臣の訪米

椎名外務大臣は、一九六六年九月国連総会に出席のため訪米し(九月二一日より同二四日)、その間、ラスク米国務長官と会談を行なった。

(2) ラスク米国務長官の来日

ラスク米国務長官は、パリで開催された北大西洋条約機構閣僚理事会に出席の途次、一九六六年一二月五日来日した。同六日、同長官は、佐藤総理大臣及び三木外務大臣とそれぞれ会談し、対中国政策、ヴィエトナムをめぐる諸情勢等につき意見を交換した。

(3) ロストウ米国務次官の来日

ユージン・ロストウ米国務次官(政治問題担当)は、インドの食糧問題解決のための緊急国際援助について、日本政府と協議するため、一九六七年一月一六日来日し、同一七日、佐藤総理大臣及び三木外務大臣と会談を行なった。

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