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スーダン政治・経済情勢

平成22年11月

1.政治情勢概要

  • " スーダン独立前年の1955年にアラブ系の北部とアフリカ系の南部との間で内戦が勃発。
  • 1972年の「アジス・アベバ協定」により,南北内戦は停戦したものの,当時のヌメイリ政権が同協定を反故にしたことから,1986年に再び内戦が勃発。
  • 1989年6月に軍事クーデターによりバシール政権が発足。バシール政権は,イスラム原理主義を標榜する国民イスラム戦線(NIF)が翼賛団体として政治を主導する体制を確立し,欧米諸国との関係が悪化するが,次第に国際協調に転じ,1999年12月には,イスラム指導者ハサン・トラービー氏を政権与党から排除。
  • 2003年4月以来,スーダン西部ダルフール地方における紛争が激化。現在に至るまで,約30万人の死者,数百万人の難民・国内避難民が発生し,国際社会の大きな懸案事項となっている。
  • 2005年1月に北部と南部との間で包括和平合意(CPA)が成立し,南北内戦が集結。
  • 2010年4月には,CPAに基づき総選挙が実施され,バシール大統領,サルヴァ・キール南部政府大統領が当選。
  • " 2011年1月の南部住民投票実施に向けて,南北間協議,ダルフール和平協議が継続中。

(1)スーダンは,イギリス統治時代にアラブ系の多い北部とアフリカ系の多い南部の交流が制限されていたこともあり,独立前から南北間の溝は大きかった。英・エジプト共同統治からの独立を翌年に控えた1955年に,北部スーダンによる政治・経済・文化的支配が拡大することを恐れた南部と北部との間で,内戦が勃発。1972年に南部の自治権を認める「アジス・アベバ協定」により一旦停戦したものの,1983年に当時のヌメイリ大統領が同協定を反古にしたことから内戦が再燃。爾来20年以上に及ぶアフリカ最長の内戦が継続。

(2)北部政権内では,開発政策の失敗や南北内戦の激化等により,1985年4月にヌメイリ軍事政権が崩壊。1986年4月に選挙が実施され,一時民政化されるが,1989年6月にバシール中将(当時)による軍事クーデターが発生。バシール政権は,イスラム原理主義を標榜する国民イスラム戦線(NIF)が翼賛団体として政治を主導する体制を樹立し,内政面で引き締め策を強化したため,スーダンと欧米諸国との関係が悪化

(3)バシール大統領は1996年3月の総選挙で勝利し,再任された後,次第にイスラム原理主義的傾向を緩和させ,欧米諸国と協調を図る姿勢を見せ始める。1998年6月には新憲法を制定,同年12月には「政治結社設立に関する法」の制定により複数政党制を採用し,NIFは国民会議党(NCP)に改称。1999年12月には,NIF内でのバシール大統領とイスラム主義指導者ハサン・トラービー氏との間で権力争いが生じ,バシール大統領はスーダン全土に対して国家非常事態宣言を布告(国家非常事態は現在まで継続中)するとともに,トラービー氏が議長を務める国民議会を解散して,同氏を党から除名し,収監。2000年12月に行われた直接選挙でバシール大統領が再選した。トラービー氏は,その後釈放され,民衆会議党(PNC)を結成するが,2001年2月の南部反政府勢力のスーダン人民解放運動(SPLM)との了解覚書締結,2004年3月のクーデター未遂事件等に際し,度々逮捕,釈放を繰り返す等,バシール政権とは対立関係が続いている。

(4)2003年4月,スーダン西部のダルフール地方で,反政府勢力が北ダルフール州エル・ファーシル空港等を襲撃。これに衝撃を受けたスーダン政府が,反政府勢力の軍事制圧に乗り出し,現地において民兵の募集や空爆等を実施。これに対し,反政府勢力も抵抗を強めたため,紛争が更に激化し,現在に至るまで,ダルフールでは約30万人の死者,数百万人の難民・国内避難民が発生する等,国際社会の大きな懸念事項となっている。

(5)2005年1月に北部政権と南部反政府勢力のスーダン人民解放運動/軍(SPLM/A)との間で南北包括和平合意(CPA)が成立し,22年間に亘り,死者200万人,国内避難民・難民400万人を生んだ南北内戦が終結。7月には暫定憲法が成立し,同月,北部出身のバシールが大統領に,南部出身のジョン・ギャランが第一副大統領(兼南部政府大統領)に就任して暫定統一政府が樹立。(7月30日にギャラン第一副大統領が事故で死亡したため,後任としてサルヴァ・キール第一副大統領兼南部政府大統領が就任)。

(6)南北包括和平合意(CPA)に基づき,2010年4月に中央及び地方政府・議会の総選挙を実施し,バシール大統領,サルヴァ・キール南部政府大統領が当選。今後,CPA履行の最終段階に向けて,南北境界線の確定,2011年1月の南部独立を問う住民投票,同住民投票実施前のダルフール和平合意の成立等が課題となっている。

2.南北和平プロセス

  • 2005年1月のCPAは,南部への自治権付与,総選挙や南部独立を問う住民投票等の実施,南北境界線の画定,石油収入の配分等を規定。
  • 2005年3月,国連安保理が国連スーダン・ミッション(UNMIS)の派遣を決定。同年4月にオスロで開催されたスーダン支援国会合では,国際社会が45億ドルの支援実施を表明。
  • 2005年7月のジョン・ギャラン南部政府大統領の事故死や2006年11月の北部系民兵と南部SPLAとの衝突等もあり,CPA履行は遅々として進まず,南北双方は不信感を強めた。
  • 2007年10月には,南部側が出身閣僚を召還し,政権への参加を一時的に停止。同年12月にアビエ境界線画定問題以外のCPA履行に合意したことにより,南部は政権に復帰。
  • 2008年には,4月~5月の人口調査実施,7月の選挙法成立等,CPA 履行プロセスが大きく進展。同年5月にアビエ地域の民族間衝突が南北両軍を巻き込む武力衝突に発展し,停戦が破られる事態が発生するも,7月にアビエ境界線画定問題をハーグの常設仲裁裁判所(PCA)に委ねることで合意。
  • 2009年7月に,常設仲裁裁判所(PCA)がアビエ地域境界線問題についての裁定を発表し,南北双方が受け入れ。
  • 2009年5月に発表された人口調査結果については,南部が受け入れを拒否し,同結果に基づく総選挙実施に反対。南北間の協議の末,同年12月に,総選挙における南部の国民議会議席配分を増加することで合意。また,同時に南部住民投票についても,定足数を60%とすることで合意し,南部住民投票法やアビエ住民投票法が成立。
  • 現在,2011年1月の住民投票実施に向けて,同住民投票実施手続や南北境界線画定,住民投票後の南北関係等の課題について南北間で協議を行っている。

(1)2002年より,米国・英国・ノルウェー(トロイカ)と周辺アフリカ諸国(ケニア,ウガンダ等)の積極的仲介の下,中央政府と南部反政府勢力(SPLM/A)との間で和平交渉が進展し,2005年1月9日,南北包括和平合意(CPA)が成立。CPAにより,1)南部への自治権付与,6ヶ月の準備期間と6年間の暫定移行期間の設定,暫定移行期間の最後の年における南部独立を問う住民投票の実施,2)南北両軍の撤退・南北統合部隊の展開,武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)の実施,3)国民統一政府の設立,南北境界線の画定,人口調査・総選挙の実施,4)石油収入を初めとする富の配分,5)アビエ地域の南北いずれかへの帰属を問う住民投票の実施,6)南コルドファン州(ヌバ山地)及び青ナイル州における暫定統治等が定められた。

(2)2005年3月,国連安保理は,国連スーダン・ミッション(UN Mission in Sudan: UNMIS)の設立を内容とする決議第1590号を全会一致で採択。(現在,UNMISでは約1万名の軍事要員及び数百名の文民警察官が南部地域に展開中で,CPA履行の支援等を任務として活動している。)2005年4月,スーダンの復興支援のために,60以上の国,地域,機関が参加して,スーダン支援国会合(於:オスロ)が開催され,2005~2007年の3年間の支援要請額約41億ドルに対し,国際社会より総額約45億ドルの支援を表明。わが国は,同会合において約1億ドルの支援実施を表明した。(さらに、その後2008年5月に,オスロで行われたスーダン・コンソーシアム会合において,わが国は当面2億ドルの支援を実施することを表明し,CPA成立から現在までに約4億4千万ドル以上の支援を実施。)

(3)2005年7月には,スーダン南北暫定統一政権が発足する等,6年間の暫定移行期間が正式に開始。しかしながら,2005年7月末のジョン・ギャラン副大統領(南部政府大統領)の事故死もあり,南北境界線の確定,DDR(武装解除・動員解除・社会復帰),人口調査,総選挙準備,石油収入の配分といったCPAの履行は遅々として進まず,2006年11月,上ナイル州の州都マラカルにおいて親北部系民兵とSPLA(SPLMの軍事部門)との間で,CPA署名後初となる大規模な衝突が発生し,南北双方は相互に不信感を強めた。

(4)南部がCPA履行の遅れ(特に北部部隊の南部スーダンからの撤退,及び南北境界線画定作業の遅れ)に不満を募らせていた中,2007年9月,スーダン警察がハルツームのSPLM事務所を突如家宅捜査する事件が発生。更に同年10月,南部側が,ラム・アコル外務大臣等,一部南部出身閣僚の入れ替えを求めたのに対し,バシール大統領がこれを拒否したため,南部は,同政権に参画している南部出身閣僚全てを召還し,政権への参加を一時的に停止。双方が交渉を続けた結果,同年12月にアビエ境界線確定問題以外のCPA履行について両者が合意に達したことにより,SPLMは国民統一政府に復帰。

(5)2008年にはCPAの履行プロセスが実質的に大きく進展。1月にスーダン国軍(SAF)の南部からの撤退がほぼ完了。4月~5月にかけて,選挙実施のための全国人口調査が実施され,同7月には,2年以上審議された選挙法を国民議会が承認。同年5月に,アビエ地域において,アラブ系遊牧民であるミッサリーヤ部族とアフリカ系農耕民であるディンカ族との争いがスーダン国軍(SAF)とSPLAとの間の軍事衝突に発展し,CPA署名後初めて停戦が破られるという事態も発生したが,南北双方の話し合いにより7月にアビエ・ロードマップ(アビエ境界線の画定をハーグにある常設仲裁裁判所(PCA)に委ねる)が成立し,事態は沈静化。

(6)2009年に入ると,7月に常設仲裁裁判所が,アビエ地域境界線についての裁定結果を発表し,NCP及びSPLMがこれを最終かつ法的拘束力のあるものとして共同声明で受け入れを発表。一方,同年5月に発表された人口調査の結果については,SPLMは南部出身者の人口が少なく,不正があるとして受け入れを拒否し,同結果に基づく総選挙実施に反対を表明。NCPとSPLMは,人口調査結果及び総選挙の実施について,南部住民投票法案に係る定足数の問題や,国家治安法,アビエ住民投票法案の内容等とともに協議するも議論は難航。ようやく,同年12月末に,総選挙における南部の国民議会の議席配分を増加することで合意するとともに,南部住民投票の定足数を有権登録者の60%とすること等を定めた南部スーダン住民投票法及びアビエ住民投票法等が成立。

(7)2010年4月には,総選挙(大統領選挙,南部政府大統領選挙,国民議会選挙,南部議会選挙,州知事選挙,州議会選挙の6種類)が実施され,一部野党の選挙ボイコットがあったものの,バシール国民統一政府大統領,サルヴァ・キール南部スーダン政府大統領が大差で勝利。現在,来年1月の南部及びアビエ地域における住民投票実施に向けて,南部及びアビエ住民投票実施手続,南北境界線の確定,住民投票後の南北関係等の課題について南北間で協議を行っている。

3.ダルフール情勢

  • ダルフールでは,伝統的なアラブ系民族とアフリカ系民族による水や牧草地を巡る争いに加え,開発の遅れに中央政府が無関心であることについて現地住民が不満を抱いていた。
  • 2003年4月の反政府勢力によるエル・ファーシル空港襲撃に衝撃を受けたスーダン政府が,ダルフールで空爆を行うとともに,アラブ系民兵を募集して反政府勢力を攻撃し,紛争が激化。
  • 2004年4月にチャドのンジャメナで停戦合意が成立し,アフリカ連合(AU)が停戦監視団(AMIS)を派遣するが,停戦違反が繰り返され,現地情勢は改善しなかった。
  • 2004年7月にAU主導で,ナイジェリアのアブジャで和平交渉が開始されるも,協議は難航。
  • 2006年5月,スーダン政府と反政府勢力のSLM/Aミナウィ派が,ダルフール和平合意(DPA)に署名するが,SLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派やJEM等,他の反政府勢力が参加せず,和平合意の内容もほとんど実施されなかった。
  • アフリカ連合のAMIS部隊が現地治安を回復できないため,2006年5月,国連安保理決議1679号により,AMISの国連オペレーション移行を決定するが,スーダン政府が国連部隊の現地展開を拒否。
  • 欧米諸国による圧力や中国の説得により,2007年6月,スーダン政府が「AUと国連による共同展開(ハイブリッド・オペレーション)」受入に同意。同年7月末に「ダルフール国連・AU合同ミッション(UNAMID)」展開を決定する国連安保理決議第1769号を採択。
  • 政治プロセスにおいても,2006年11月のアジスアベバ・ハイレベル会合で,国連・AU主導による調停実施を打ち出し,エリアソン国連事務総長特使とサリムAU特使が調停活動を開始。
  • 2007年10月にタンザニアのアルーシャで,DPA署名以来のスーダン政府と反政府勢力との交渉が行われたが,主要反政府勢力であるJEMやSLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派が参加せず,停戦合意も実現しなかった。
  • 2009年3月にICCがバシール大統領に対し逮捕状発布を決定。スーダン政府はICCの決定に強く反発し,ICCに協力した容疑で国際NGO13団体を追放。
  • 2008年6月サリム特使及びエリアソン特使が退任し,バソレ国連・AU合同調停官が就任。アル・マフムード・カタール外務担当国務大臣とともに,カタールの首都ドーハで調停活動を開始。
  • 2010年2月に,スーダン政府とJEMとの間で,即時停戦等を定めた「ダルフール紛争解決のための枠組み合意」に署名。しかしながら,同年4月のスーダン総選挙後にJEMとスーダン政府との間で激しい武力衝突が生じたため,JEMは和平交渉から離脱。
  • 現在,明年1月に行われる南部住民投票実施までに,ダルフールにおける最終和平合意を達成すべく調停活動が継続中。

(1)スーダン西部のダルフール地域では,砂漠化・旱魃や気候変動等の影響もあり,伝統的なアラブ系遊牧民族とアフリカ系農耕民族(ともにイスラム教徒)の間の,水や牧草地を巡る争いが激化しつつあったことに加え,独立以来,同地域の開発の遅れに対し中央政府が無関心であることに現地住民が不満を抱いていた

(2)2003年4月,反政府勢力であるスーダン解放運動・軍(SLM/A)及び正義と平等運動(JEM)が北ダルフール州エル・ファーシル空港を襲撃し,国軍兵士数十名や航空機に被害を与える事件が発生。これに衝撃を受けたスーダン政府が反政府勢力の軍事制圧に乗り出し,現地を空爆するとともに,アラブ系民族から民兵を募集。アラブ系民兵は,反政府勢力のみならず,現地のアフリカ系住民に対しても攻撃を加えたため,多くの死傷者,難民・国内避難民が発生。反政府勢力は抵抗を強化し,逆に現地の支配地域を拡大したため,紛争が激化。

(3)2004年4月にチャドの首都ンジャメナでスーダン政府とSLM/A及びJEMとの間で停戦合意が成立。同年7月に,アフリカ連合(AU)の平和・安全保障理事会(PSC)が,同地域への停戦監視団(AU Mission in Sudan:AMIS)派遣を決定。しかしながら,広大な地域を有するダルフール(フランス国土とほぼ同規模)で脆弱な装備しか持たずに展開している同部隊は,治安改善の実行力に乏しく,その後も,双方の停戦違反が繰り返されるとともに,アラブ系民兵組織の地域住民に対する攻撃が継続。

(4)ンジャメナ停戦合意で調停役を務めたチャド政府は,2004年5月に同国においてクーデター未遂事件が発生したため,和平交渉の仲介役を辞退。停戦交渉はAU(サリム・アフメド・サリム特使:元タンザニア首相,元アフリカ統一機構(OAU)事務局長)が主催することとなり,2004年7月にナイジェリアのアブジャで交渉を開始。しかしながら,個人補償,政府機関におけるポスト配分等を巡り協議は難航。

(5)悪化の一途を辿るダルフール情勢を巡り国際社会の懸念が高まり,2005年3月,安保理決議第1591号により,スーダン政府に対する制裁措置(武器禁輸措置の拡大(2004年7月30日の安保理決議第1556号では非政府主体のみが対象であったものをスーダン政府も含めることとしたもの),渡航禁止,資産凍結)を導入。また,同月,ダルフールにおける事態を国際刑事裁判所(ICC)へ付託する安保理決議第1593号が採択され,ICC首席検察官による捜査を開始。2006年4月,安保理決議第1591号に基づき,元スーダン国軍司令官を含む4名をダルフール和平阻害等に関与したとして制裁対象者に指定することを決定する決議第1672号が採択。

(6)2006年5月,国際社会の強い圧力の下,スーダン政府と当時最大の武装勢力であったSLM/Aミナウィ派との間でダルフール和平合意(DPA)に署名。同合意に基づき,ミンニ・ミナウィSLM/A代表が大統領上級補佐官に就任するが,SLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派やJEM等他の武装勢力が同合意に参加せず,アラブ系民兵の武装解除等,和平合意の内容はほとんど実施されなかった。SLM/Aミナウィ派は,スーダン政府の代理となって反署名派に対する武力攻撃を行ったこと等により,現地住民や現場司令官の反感を買い,次第に影響力を失っていった。その結果,DPA署名後も依然として現地の治安・人道状況に改善は見られず,また,署名を契機に,現地反政府勢力が主導権争いによって無数に分裂していったため,その後の和平交渉を一層困難なものにした。

(7)装備・人員の不足や文民保護を含まない弱いマンデート等の問題を抱えていたアフリカ連合のAMIS部隊は,現地治安を回復することができず,ダルフール住民の信頼を失っていったため,国際社会からダルフールにおける国連PKOの展開を求める声が高まっていった。2006年5月,国連安保理は,決議第1679号により,AMISを国連オペレーションに移行する準備を促進することを決定。同年8月には,安保理決議第1706号により,国連スーダン・ミッション(UNMIS)のダルフールへの展開及びAMISへの支援強化,及びUNMIS展開に対するスーダン政府の合意を慫慂することを決定したものの,同政府が決議受入を拒否。同年11月,国連,AU,スーダン政府は,国連とAMIS部隊の共同でダルフールに3段階による平和維持部隊を展開することで原則合意に至るが,スーダン政府は合意内容に数多くの留保をつけ,事実上同部隊展開を拒否。

(8)国連部隊展開の膠着状態を打開するため,スーダン政府への経済制裁をも辞さない欧米諸国による圧力や,スーダンとの外交・経済関係の結びつきが強いため,これまで消極的な対応をとってきた中国が,翌2008年の北京オリンピック成功を期して同政府を説得した結果,2007年4月,スーダン政府が国連平和維持部隊展開に向けた第二段階であるAMIS部隊強化のための「重量支援パッケージ」の受入を表明。同年6月,スーダン政府は第3段階である「AUと国連による共同展開(ハイブリッド・オペレーション)の無条件での受入に合意。同年7月末,国連安保理は約2万6千人という大規模のPKOミッション「ダルフール国連・AU合同ミッション(UNAMID)」展開を決定する決議第1769号を採択。同年12月末を以てAMISよりUNAMIDに正式に指揮権が委譲され,アダダ・ダルフール問題AU・国連共同代表(元コンゴ(共)外務大臣),アグワイ司令官(ナイジェリア)の指揮の下,UNAMIDの展開が開始。しかしながら,スーダン政府の非協力的姿勢,地位協定の締結の遅れ,内陸部にあるダルフールへの物流の困難さ等から,UNAMIDの展開は遅々として進まなかった(2010年6月時点で,ようやく88%の軍事要員展開率を達成)。

(9)政治プロセスにおいても,2006年11月のアジスアベバ・ハイレベル会合において,国連・AU主導の下での調停実施を原則として打ち出し,国連はヤン・エリアソン国連事務総長特使(元スウェーデン外相)を任命し,サリムAU特使とともに調停活動を開始。一方,無数に分裂した反政府勢力(DPA非署名派)を再統一させようとする欧米諸国によるイニシアティブに加え,反政府勢力に影響力を有するエリトリア,リビア,エジプト等の近隣各国による働きかけも行われ,ダルフール和平を巡るイニシアティブは乱立状態となった。

(10)このため,2007年4月に欧米諸国,近隣諸国等が参加してリビアのトリポリで和平会合(第1回トリポリ会合)が開催され,地域諸国の関与の重要性を強調しつつ,全てのイニシアティブを国連・AUの下に収斂させることを確認。同年8月には,タンザニアのアルーシャで会合(アルーシャ会合)が行われ,SLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派を除くDPA非署名主要反政府勢力全てが参加し,和平交渉議題となる権力の配分,富の配分,治安,土地問題等について非署名派各派の立場を大枠で統一することに成功。同年10月には,DPA署名後初となる,スーダン政府と非署名派の交渉がリビアのシルテで開催(シルテ会合)。同会合は,わが国代表が初めて参加したダルフール和平交渉で,スーダン政府が一方的停戦などの前向きな姿勢を見せたものの,主要反政府勢力であるJEMやSLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派等が参加しなかったこともあり,具体的進展はなく,停戦合意も実現しなかった。

(11)反政府勢力のうち,SLM/Aが分裂を繰り返す一方,JEMは,民族的に近く,スーダンと関係が悪化したチャドの支援も得て,着実に勢力を強化し,2008年5月には,首都ハルツーム近郊のオムドルマンまで侵攻。政府軍に撃退されたものの,双方に100名以上の死者が発生。他の反政府勢力の移籍も相次ぎ,JEMはダルフールで最大の軍事力を有する反政府勢力となった。

(12)安保理決議1593号により,ダルフールにおける事態について捜査を行っていたオカンポICC首席検察官は,2007年2月,アフマド・ハールーン・スーダン人道問題担当国務大臣(元内務担当国務大臣),アリー・クシャイブ・アラブ民兵司令官を人道に対する罪及び戦争犯罪で訴追することを発表。これに対し,スーダン政府は,同国がICCの基本条約を締結していないため,ICCはスーダンに対する管轄権を有していないとして,両名の引渡を拒否。オカンポ首席検察官は,さらに2008年7月に,バシール大統領に対し,ジェノサイド,戦争犯罪,人道に対する罪の容疑で,ICC予審裁判部に対して逮捕状を請求。これを受け,ICC予審裁判部が,2009年3月にジェノサイドの罪を除いた戦争犯罪及び人道に対する罪について逮捕状発布を決定(ジェノサイドの罪については,2010年7月に逮捕状発布決定)。スーダン政府はICCの決定に強く反発し,ICCに協力したとの容疑でダルフールで活動する国際NGO13団体を追放したため,ダルフールにおける人道状況の更なる悪化が懸念される事態となった。

(13)2008年6月,サリムAU特使及びエリアソン国連特使が退任し,バソレ元ブルキナファソ外務大臣が国連・AU合同調停官に就任。バソレ調停官は,アラブ連盟の支持を受けたアル・マフムード・カタール外務担当国務大臣とともに調停活動を開始。2009年2月にドーハ(カタール)にてスーダン政府とJEMとの間で,捕虜の交換や停戦を含む枠組み合意を目指すこと等を定めた「善意と信頼醸成合意」に署名。その後,ICCによるバシール大統領訴追によって,スーダン政府が人道NGO団体を追放したことにJEMが反発したため,和平交渉が中断するも,2010年2月には,スーダン政府とJEMとの間で,即時停戦,JEM部隊のスーダン国軍・治安組織への編入等を定めた「ダルフール紛争解決のための枠組み合意」に署名。同年3月には,JEM,SLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派以外の主要反政府勢力が合流した「解放と正義の運動(LJM)」との間でも類似の合意に署名するものの,LJMの和平交渉参加にJEMが反発し,また,4月のスーダン総選挙後に,JEMとスーダン政府との間で激しい武力衝突が発生したため,JEMは和平交渉から離脱。

(14)現在,明年1月に行われる南部住民投票実施までに,ダルフールにおける最終和平合意を達成するよう,バソレ調停官及びアル・マフムード国務大臣による調停活動が引き続き行われているが,有力な反政府勢力であるJEM及びSLM/Aアブドル・ワーヒド・ヌール派の参加が依然として得られておらず,協議の行方は不透明なものとなっている。

参考:スーダンに関する主な安保理決議
決議 採択日 内容
第1556号 2004年7月30日 スーダン政府に対し、アラブ系民兵の武装解除、人権侵害行為の責任者処罰を要請。また、非政府主体に対する武器禁輸措置の発動を決定。
第1564号 2004年9月18日 スーダン政府が民兵の武装解除等やAU停戦監視ミッションへの協力を行わない場合、石油部門を含む制裁措置の発動を考慮。また、国連事務総長に対し、国際調査委員会(ICI)を設置し、ジェノサイドが発生したか否かの決定を含め報告を行うよう要請。
第1574号 2004年11月19日
(於:ナイロビ)
3320名に拡大されたアフリカ連合の停戦監視団につき、国連加盟国に対し、必要とされている支援を強く要請するとともに、スーダン政府及びダルフールの全反政府勢力に対し、AUと完全に協力することを要求。
第1590号 2005年3月24日 国連スーダン・ミッション(UNMIS)設立を決定。
第1591号 2005年3月29日 武器禁輸措置の適用範囲をスーダン政府に拡大。安保理メンバー国から構成される「制裁委員会」を設置し、決議採択より30日以内に紛争当事者が安保理決議の求めるコミットメントを遵守していると認定した場合を除き、同委員会により指定される個人に対し渡航禁止措置及び資産凍結措置を発動することを決定。
第1593号 2005年3月31日 ダルフールにおける国際人道法・国際人権法の重大な違反の事態を、国際刑事裁判所(ICC)に付託することを決定。
第1672号 2006年4月25日 4名(スーダン政府1名、アラブ系民兵指導者1名、スーダン解放軍(SLA)1名、改革・開発国家運動(NMRD)1名)を決議第1591号で規定した活動阻止・資産凍結措置の対象者に決定。
第1679号 2006年5月16日 アフリカ連合(AU)スーダン・ミッション(AMIS)の国連オペレーションへの移行準備を促進することを決定。
第1706号 2006年8月31日 スーダン南部に展開中のUNMISのダルフールへの拡大、及びダルフールで展開中の AMISへの支援強化、併せて、右展開に対するスーダン政府の同意を慫慂することを決定。(注:バシール大統領がダルフールにおける国連オペレーションの受入を拒否すると発言し、右決議後もその立場に変更はなく、UNMISの部隊がダルフールに展開することはなかった。)
第1769号 2007年7月31日 2004年以来、ダルフールに展開中のAMIS部隊(要員約7千人)を補強するため、約2万6千名規模のPKOミッションとなる「ダルフール国連・AUミッション(UNAMID)」展開を決定。

4.経済情勢

  • 20年に亘る内戦,経済援助停止,累積債務等が原因でスーダン経済は疲弊。
  • 近年は高い経済成長を達成しており,2003年から2008年にかけては平均約8%の成長率を記録。
  • 2008年の世界金融危機の直接の影響は受けなかったものの,その後の世界不況に伴う原油価格下落によりスーダン経済は減速。2009年の成長率は4.0%に低下。
  • 石油価格回復により,経済成長率や歳入は回復しつつあるものの,経済の石油依存脱却のため,農業分野等,産業構造の多様化が課題。
(1)実績

ア 20年に亘る内戦,西側諸国からの経済援助停止,巨額の累積債務(2009年末時点で約357億ドル)等により,スーダン経済は疲弊している。特に南北間の境界線付近の州やダルフール等の地方では,水,食糧,電気,保健医療,通信,交通等の基礎インフラが脆弱であることに加え,大量の国内避難民・難民を抱え国際人道支援活動なしには自活できない地域が大半を占めている。

イ 1990年代前半は年率150%に及ぶインフレが進み,生活物資や電力の不足が恒常化していたが,1996年からIMFの経済修復プログラムを受け入れ経済再建に努めている。1999年に産油地帯と紅海を結ぶパイプラインが完成し,石油生産量及び輸出量が急増したことや,湾岸諸国や中国をはじめとするアジア諸国からの投資が伸びていることにより,近年は高い経済成長を達成しており,2003年から2008年にかけては平均約8%の経済成長率を記録。

ウ 2008年の世界金融危機の直接の影響は受けなかったものの,その後の世界不況に伴う原油価格下落によりスーダン経済は減速。2009年の成長率は4.0%に低下。歳入の6割をしめる石油収入が大幅に落ち込み,財政収支が悪化するとともに,石油輸出額の減少で経常収支も悪化。外貨準備の減少により,外貨取引が制限され,これまで上昇を続けていたスーダンポンドの対ドル為替が約20%下落している。なお,インフレ率は経済の減速や世界商品価格の下落により,2009年は約11%となり,2008年の14%から低下傾向。

(2)今後の見通し

ア 2009年後半以降の石油価格回復により,経済成長率や歳入は回復しつつあり,物価上昇率も低下傾向にあるものの,経済の石油依存脱却のため,潜在的成長力の高い農業や畜産業等,産業構造の多様化を進めることが必要。また,政府のガバナンス能力向上,巨額の対外債務の解消,民間セクターの成長等が課題。

イ アフリカ最大の国土を有し,原油,鉄,銅,金等の鉱物資源,水資源,更には肥沃な耕地に恵まれており,スーダンの経済的潜在力は高い。特に農業分野は,現在でも,GDPで約3分の1,就業者数で労働人口の約8割を占めているが,アフリカ大陸最大の国土(250万平方キロメートル,日本の約7倍)の3分の1が耕作可能地であるにもかかわらず,その約15~20%しか利用されていないと言われており,農耕・灌漑技術の向上,農産物輸送のためのインフラ改善により,スーダンの経済発展,貧困撲滅に向けてその潜在的な成長力が期待される。

5.外交政策

  • スーダン外交は,アラブ・アフリカ諸国との友好関係の維持を基盤とし,非同盟,内政不干渉,アラブ・イスラム諸国との連帯等を主要原則としている。
  • バシール政権は,発足当初,各国のイスラム過激派に対する支援の疑いや,湾岸戦争におけるイラク支持により国際社会からの孤立を深めた。
  • " 1996年のバシール大統領再選後,次第にイスラム原理主義色を緩和させ,国際社会との関係改善・強化を図ってきた。特に2001年9月11日の米国における同時多発テロ事件を契機に,米国との間でテロ関係の治安情報協力を行うよう外交方針を転換。近隣国のエジプト,ウガンダ等との関係も改善。
  • しかしながら,ダルフールにおける紛争・人道状況の悪化により欧米諸国がスーダンに対する批判を強め,2009年3月にICCがバシール大統領に対して逮捕状を発布すると,スーダン政府は欧米諸国との対立を深めた。
  • 隣国チャドとの間では,ダルフール紛争の関係で,お互いの反政府勢力を支援していると批判して関係が悪化していたが,2010年1月にチャドの首都ンジャメナで反政府勢力に対する支援停止で合意し,関係が改善傾向にある。
  • 中国との政治的・経済的関係が強まっており,多数の中国企業が進出しているほか,中国はスーダンにとっての最大の貿易相手国となっている。
(1)基本的外交姿勢

ア スーダンは,アラブ・アフリカ諸国との友好的外交関係の維持を外交の基盤とし,非同盟,内政不干渉,アラブ・イスラム諸国との連帯,善隣,相互協力を主要原則としている。

イ スーダン外交は,同国が抱える諸問題の解決を迫る国際社会の圧力の前に,劣勢に立たされており,国連人権委員会(当時)でのスーダン人権決議案の審議,ダルフール情勢及び南北包括和平合意(CPA)を巡る累次の安保理決議案の協議における対スーダン制裁決議の回避が最優先課題となっている

(2)各国との関係

ア 1989年にクーデターにより発足したバシール政権は,各国のイスラム過激派に対する支援の疑いもあり,近隣諸国や欧米諸国との関係を悪化させた。それに加えて,1990年の湾岸戦争でイラクを支持したことや,1995年のムバラク・エジプト大統領暗殺未遂事件への関与を疑われたこと等により国際社会からの孤立を深めた。

イ 1996年の大統領再選後,バシール政権は,政権発足時に協力関係にあったイスラム指導者ハッサン・トラービー氏と対立を深めるに伴って,次第にイスラム原理主義色を緩和させ,国際社会からの孤立脱却のために,近隣諸国や欧米諸国との関係改善・強化を図っていった。特に2001年9月11日の米国における同時多発テロ事件を契機として,米国との間でテロ関係の治安情報協力を行うよう外交方針を転換し,同月に,国連安保理において対スーダン外交制裁措置が解除。隣国との関係でも,2003年4月には,バシール大統領とムバラク大統領が相互に相手国を訪問し,エジプトとの関係が改善。2004年4月,ウガンダとの間で14年振りに合同閣僚会議を開催し,協力関係を確立するとともに,ウガンダ反政府勢力「神の抵抗軍(LRA)」への支援停止を決定。同年7月にはエジプトとの間で「4つの自由」(移動,居住,所有,職業選択)に関する協定を締結。相互の反政府勢力に対する支援の問題等から緊張関係が続いていたエリトリアとの関係についても,同国の仲介で2006年10月にスーダン東部における紛争が和平合意に至ったことを契機に改善傾向にある。

ウ しかしながら,ダルフールにおける紛争・人道状況の悪化により,欧米諸国がスーダンに対する批判を強め,2007年5月には,米国が,スーダン国有企業等に対する追加制裁を発表。2009年3月にICCがバシール大統領に対して逮捕状発布を決定すると,スーダン政府はこれに強く反発し,ICCを支持する欧米諸国との間で対立を深めた。

エ 隣国チャドとの間では,ダルフール紛争発生当初は,チャド政府がスーダン政府とダルフール反政府勢力との調停を行っていたが,2004年5月のチャド国内でのクーデター未遂発生を契機に,双方がお互いの反政府勢力を支援していると非難合戦を繰り広げ,関係が悪化。2008年3月に両国首脳の間で,「ダカール合意」が成立するも,同合意内容は実施されず,同年5月にダルフール反政府勢力のJEMがハルツーム近郊のオムドルマンを襲撃すると,チャド政府がJEMを支援しているとしてスーダン政府が国交断絶を宣言。2008年11月にリビアの仲介で両国間の大使交換が実現したものの,2009年に入り双方の反政府勢力の活動が活発化し,両国関係は再び緊張。ようやく2010年1 月に,チャドのンジャメナにおいて,双方の反政府勢力に対する支援の停止及び追放,両国合同部隊による国境監視等に合意し,二国間関係が正常化。

オ その他の諸国との関係で注目されるのは,中国である。スーダンにとって中国は,輸出で約76%,輸入で約20%を占める最大の貿易相手国であり,石油分野を中心に多くの中国企業がスーダンに進出している。また,スーダンは,中国を国連安保理における非欧米諸国の代表と認識し,引き続き関係強化を図っている。