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平成21年8月
1999年10月、ムシャラフ陸軍参謀長(当時)は、無血クーデターによりシャリフ首相(当時)を解任して自ら行政長官に就任、続いて2001年6月には行政長官のまま大統領に就任した。ムシャラフ大統領は、無血クーデターから3年以内の民主化復帰を求める2000年5月の最高裁判決に従い、2002年10月に総選挙を実施、11月にムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)を中核とする民主政権を樹立して議会の支持基盤を固めた。
2007年3月、ムシャラフ大統領は職権乱用等を理由にチョードリー最高裁長官を職務停止処分とした。この超憲法的措置に対し司法関係者と野党等が一斉に反発し、順調に見えたムシャラフ体制に陰りが見え始めた。更に同年7月のラールマスジッド(赤いモスク)立て籠もり事件でムシャラフ大統領兼陸軍参謀長が強行突入を命じ多くの犠牲者が出たことで、ムシャラフ大統領に対する不満は一気に高まった。この様な中、同年10月6日に行われた大統領選挙で、再選を目指すムシャラフ大統領は圧倒的多数票を獲得した(注1)。しかし、軍に籍を置くムシャラフ大統領の再選資格を巡って複数の訴訟が最高裁に提起され、選挙結果の確定はこれらの判決が出るまで留保されることなった。審理が続く中、11月3日、陸軍参謀長名で非常事態宣言が発出され、憲法停止、約60人の最高裁・高裁判事が解任される事態となった。当該最高裁の審理は、新たに任命された判事の下で再開され、すべての訴えが取り下げられた結果、11月22日、ムシャラフ大統領の再選が確定した。これを受けて、同大統領は、11月28日に陸軍参謀長を辞任、29日に文民として二期目の大統領宣誓を行い、12月15日には非常事態宣言を解除して憲法秩序を回復した。
(注1)大統領選挙は上下両院及び州議会議員による間接選挙。憲法規定上、任期満了日(下院第一招集日である2002年11月16日から5年目に当たる2007年11月15日)の30-60日前に実施。
ムシャラフ大統領は、同年11月16日、スムロ上院議長を選挙管理内閣首相に任命、20日、下院及び州議会議員の選挙を2008年1月8日に実施する旨発表した(注2)。総選挙に向けて、野党指導者の動きも活発化した。10月18日にブットー元首相(人民党=PPPの領袖)が、また、11月25日にシャリフ元首相(ムスリム連盟シャリフ派=PML-Nの領袖)が、それぞれ亡命先から相次いで帰国し、総選挙に向けた政治活動を開始した。こうした中、10月19日、カラチにおいて帰国直後のブットー元首相を狙った爆弾テロ事件が発生し140人以上が死亡、続いて12月27日、首都近郊のラワルピンディで開催されたブットー元首相の政治集会でテロ事件が発生し、同元首相を含め少なくとも20人が死亡した。ブットー元首相の暗殺を受けて、同元首相の地盤であるシンド州を中心にパキスタン各地で暴徒による破壊行為が発生、38人が死亡した。こうした混乱の中、2008年1月2日、パキスタン選挙管理委員会は、総選挙の日程を2月18日に延期する旨発表した。
(注2)総選挙は憲法規定上、任期満了日(下院第一招集日である2002年11月16日から5年目に当たる2007年11月15日)から60日以内に実施。
2月18日に行われた総選挙の結果、PPPが121議席を獲得して大勝し、続いてPML-Nが 91議席を得て第2党に躍進した。一方、PML-Qは改選前の169議席から54議席へと大きく後退し、野党に転じた(議席数は5月7日時点でのパキスタン選管発表)。3月17日には下院が招集、3月19日には、ファフミーダ・ミルザ氏(PPP)が女性初の下院議長に就任した。また、3月25日、下院多数により首班指名を受けたギラーニ元下院議長(PPP副総裁)がムシャラフ大統領の下で宣誓、3月31日には閣僚24名が就任宣誓を行った。ギラーニ内閣には、PPP、PML-N、大衆国民党(ANP)、イスラム聖職者党ファズルル・ラフマーン派(JUI-F)が閣僚を輩出したほか、連邦直轄部族地域(FATA)選出議員も含まれている。
8月7日、連立与党のPPPとPML-Nが、2007年11月の非常事態宣言の下で宣誓を拒否し解任された判事の復職問題、大統領の権限縮小を含む憲法改正問題などの諸課題の解決に向けた道筋を示す形で、ムシャラフ大統領の弾劾手続を開始し、弾劾直後に解任判事を復職させるとの共同コミュニケを発出した。これを受け、各州議会もムシャラフ大統領弾劾支持を議決した結果、同月18日、ムシャラフ大統領は弾劾に対峙することなく辞意を表明した。
しかし、コミュニケで合意された解任判事の復職の遅れを理由に同月25日、PML-Nは連立与党から離脱し、翌月の大統領選挙では自党の候補者を擁立した。9月6日に行われた大統領選挙では、ザルダリPPP共同議長がPML-N他の候補を押さえ圧勝した。
2007年2月の総選挙時から争われてきたPML-N領袖のナワズ・シャリフ元首相とその実弟のシャーバーズ・シャリフ・パンジャブ州首席大臣の議員資格を巡る裁判で、2009年2月25日、最高裁は両者の議員資格は無効との判決を下した。こうした事態を受け、PML-Nは、ザルダリ大統領が同判決に関与したなどと厳しく非難し、解任判事復職を求めるロングマーチを開始したが、3月16日にギラーニ首相が国民向けにテレビ演説を行い、チョードリー前最高裁長官を含む全ての判事の復職を発表し、ロングマーチが終結した(その後、2009年5月、シャリフ元首相及びシャリフ・パンジャブ州首席大臣の被選挙権を認める判決が出された)。
なお、両党が対立する最中の3月4日に上院選挙が行われたが、間接選挙であり、また事前に政党間で大方の議席につき調整がなされていたため大きな混乱は生じなかった。結果としてPPPが上院100議席の内27議席を確保し上院でも第一党となり、これに連立与党を含めると定数の3分の2を超えるに到った。
(注3) 上院の定数100の半数に当たる50議席が3年ごとに改選される(任期6年)。上院議員は、4州の各州議会議員と下院議員による間接選挙で選出される。
パキスタンは、アフガニスタンとの国境付近に約12万人(国境警備隊も含めると約16万人)を派兵し、1,000ヶ所のチェックポストを設置して軍事作戦を実施している。
PPP政権は対話・開発・軍事作戦の「3叉戦略」によるテロ対策を実施している。2008年10月の治安情勢に関する上下両院合同会議は全会一致で決議を採択して、政府の「3叉戦略」に与野党議員の全面的な支持が与えられた。2008年2月の政権発足後、パキスタン・タリバーン運動(TTP)等の武装勢力との和平を図ろうとし、この結果テロ件数は昨年前半に減少したが、この機会にTTP等は勢力の回復を図った。またアフガニスタン側でのNATO軍等に対する襲撃が増大し、米等からテロ撲滅の強い圧力を受けることとなった。このため政府は昨年夏以降、TTP等に対する軍事作戦を強化したが、これに対する報復として都市部を含む各地でテロ事件が増加している。
2009年4月末より、パキスタン政府軍はスワート等において武装勢力の掃討作戦を開始した。一定の成果を収めるも、一時は350万人以上の国内避難民が発生した。現在、国内避難民の帰還が進む一方、掃討作戦が終結した地域の復旧と復興が当面の主要課題となっている。
パキスタンは、従来からの経済基盤の弱さに加え、政治的混乱に伴う外国投資の減少や、国際的な食糧・燃料価格高騰による外貨準備高の激減、財政赤字の拡大等により2008年夏から秋にかけて深刻な経済危機に陥った。同年11月にIMFによる総額約76億ドルの融資が合意され、(2009年8月には32億ドルの追加融資を承認)、また、その後食糧・燃料価格が下がり始めたこともあり、外貨準備高は回復し、ひとまずは危機的水準を脱した。しかし、経済不振による経済成長率の減速、財政赤字を削減すべく開発予算や補助金の削減など緊縮財政を敷いていることから、貧困層の拡大や社会開発分野への中長期的な悪影響が懸念される。
※経済指標については「基礎データ」参照
(i)対インド関係
パキスタンは、カシミール問題(カシミール地方の帰属問題)や東パキスタン(現在のバングラデシュ)の独立等をめぐり、インドとの間で1947年、1965年、1971年に三度の戦火を交えている。
1998年の印パ核実験、1999年のカルギル紛争を経て、2001年のインド国会議事堂襲撃事件を契機に緊張が高まり、大規模な軍事動員を行った。更に2002年5月にはインド側カシミール陸軍駐屯地に対する襲撃事件が発生し、一触即発の状況にまで至った。しかし、国際社会の説得等が奏功し、軍事衝突の危機は回避され、2002年10月以降、両国は国境付近に展開した兵力を縮小させた。2003年11月にはカシミール地方を分割する管理ライン(LOC)における停戦が発効した。
2004年1月、イスラマバードで開催された南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会合で、印パ首脳会談が2年半ぶりに実現、カシミール問題を含む様々な懸案事項に並行的に取り組む「複合的対話」の開始が合意された。「複合的対話」は、第1ラウンド(2004年2月〜8月)、第2ラウンド(2004年12月〜2005年9月)、第3ラウンド(2006年1月〜6月)までで、弾道ミサイル実験の相互通報等の信頼醸成措置、両国間のバス・鉄道ルートの増加等の成果を挙げた。
2005年10月に発生したパキスタン等大地震に際しては、インドは空軍機や鉄道により食糧や毛布、医薬品等の救援物資をパキスタンに輸送した。また、印パ両国は、カシミール地域での救援復旧活動のため、LOC上の5か所を人の往来のために開放することに合意した。
2006年7月、ムンバイで死者180人以上を出す列車連続爆破テロが発生し、同月開催予定であった外務次官協議は延期された。しかし、関係改善の努力は継続され、同年9月のハバナ(キューバ)における非同盟諸国運動(NAM)首脳会合の際に印パ首脳会談が実現、「複合的対話」の再開、テロ対策合同メカニズムの設置等が合意された。2007年1月にはムカジー印外相がパキスタンを訪問し「複合的対話」第4ラウンドの開催等に合意、同年2月にはカスーリ外相がインドを訪問し核兵器に関する偶発事故の危険性を減ずるための合意等が成立した。2007年3月からは「複合的対話」第4ラウンドが開始され(〜10月)、またSAARC関連会合の機会を捉え、4月に首脳会談、12月に外相会談が実施された(いずれもニューデリー)。
2008年2月の総選挙後に就任したギラーニ新首相は、施政方針演説で、インドとの関係でカシミール問題の解決を最優先とするとの従来の立場を維持した。ギラーニ政権発足後、両国は4月の外務次官協議及び外相会談で複合的対話第4ラウンドの成果をレビューした上で、7月から第5ラウンドを開始した。8月にはSAARC首脳会議(コロンボ)の機会にギラーニ新首相とシン印首相との会談が実現した。
しかし、11月にインド・ムンバイのホテル、駅等を武装勢力が襲撃するテロ事件が発生し、両国関係は再び緊張した。インドはパキスタンに拠点を置くカシミール過激派組織の犯行を裏付ける証拠等をパキスタンに提示し、容疑者の引き渡しやテロ組織の取締りを要求。また複合的対話の一時停止を表明した。一方、パキスタンは、容疑者の拘束、関連施設閉鎖等の措置を取った他、自身の捜査に基づき容疑者の訴追手続を開始するとともに、インドに更なる情報・証拠の提供を求めた。事件後、双方から挑発的な発言が交わされる等印パ関係の緊張が懸念されたが、全体としては両者とも自制的な対応を取っている。2009年6月、エカチェリンブルグの上海協力機構首脳会合の際、ムンバイ連続テロ事件以降初となる印パ首脳会談が行われた他、7月のシャルム・エル・シェイク(エジプト)におけるNAM首脳会合の際にも印パ首脳会談が行われ、二国間の対話が印パ関係を前進させる唯一の手段であることが確認された。
(ii)対アフガニスタン関係
1979年のソ連(当時)によるアフガニスタン軍事介入以降、パキスタンにはアフガニスタン難民が大量に流入し、ソ連製武器や麻薬の拡散が社会問題化するなどパキスタンに大きな傷跡を残した。アフガン難民は、パキスタン国内に約220万人いるとされ、現在、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)による帰還支援が進められている。
パキスタンは、1990年代後半からアフガニスタンを実効支配していたタリバーン政権を承認していたが、2001年同時多発テロ事件後、タリバーン政策を転換し、アフガニスタンにおける新国家建設を支持・支援していくと表明した。しかし、アフガニスタンは、タリバーンの影響力が強かった同国南部及び東南部において治安の悪化が顕著になると、武装勢力がパキスタンから越境してくるためであるとしてパキスタンを非難し、両国関係は悪化した。
2006年9月、両国は、テロ対策に部族を関与させるべく、国境地域の部族長老が一同に会する「合同和平ジルガ」の開催に合意した。2007年8月、カブールで第1回和平ジルガが両国大統領を含む700名の参加により開催された。ムシャラフ大統領は、タリバーンの活動拠点を巡って行われてきた相互非難の終結を求め、相互信頼醸成とテロに取り組むための合同対策の必要性を強調した。
その後も、2007年12月にカルザイ大統領がパキスタンを訪問し、さらに2008年3月のギラーニ新政権発足後は、7月の在カブール印大使館に対する自爆テロ事件を巡り一時関係が悪化するも、翌月のSAARC首脳会議(コロンボ)の機会での首脳会談や9月のザルダリ大統領就任式へのカルザイ大統領の出席等を通じ両国の信頼関係が強化された。引き続き11月には和平ジルガの下部組織である小ジルガがイスラマバードで開催され、また2009年1月にはザルダリ大統領がアフガニスタンを公式訪問した。同訪問時には、和平ジルガや様々なレベルでの交流、対テロ政策、中央アジアの資源にも着目した経済関係強化など包括的な協力強化を謳う共同声明が発出された。
(iii)対米関係
1998年の核実験後の経済制裁により停滞していた米・パキスタン関係は、2001年米国同時多発テロ事件を境に大きく改善した。米国が、テロとの闘いにおける協力をパキスタンに要請したのに対し、パキスタンは、タリバーンとの訣別及びテロ対策での協力を表明してこれに応じた。この「テロとの闘い」を通じて、両国の関係は強化され、米国はパキスタンを「テロとの闘いの協力国」及び「非NATO主要同盟国」に指定している。
2008年3月の新政権成立後、7月にギラーニ首相が、また9月にはザルダリ大統領が訪米し、ブッシュ大統領他米政府首脳とテロとの闘いや経済協力等につき協議した。また同月末にはネグロポンテ米国務副長官とクレーシ外相との間で第3回米・パキスタン戦略的パートナーシップ会議が開催された(ワシントン)。2009年に入りオバマ政権の発足後は、アフガニスタン・パキスタン担当代表ポストが新設され、ホルブルック元国連大使が任命された。また、米国は今年3月、「対アフガニスタン・パキスタン政策」を発表するとともに、5月には、ワシントンにおいて、オバマ大統領、カルザイ大統領及びザルダリ大統領出席のもと、米・アフガニスタン・パキスタン3カ国協議を開催し、アフガニスタン・パキスタンとの首脳・閣僚レベルの意思疎通の円滑化を図っている。
(iv)対中関係
伝統的に緊密な関係にある中国とは、軍事、経済、経済協力等、幅広い分野で協力関係を維持している。2005年4月には、温家宝首相がパキスタン訪問し、戦略的協力パートナーシップの発展・強化を確認した「中国・パキスタン善隣友好協力条約」及び原子力発電所建設協力や戦闘機の共同開発を含む様々な分野での協力を確認した22の条約・協定が署名された。2006年11月に国賓として胡錦濤国家主席が訪パした際には、共同声明の中で、自由貿易協定、経済協力5か年計画、グワダル国際空港建設計画等18件の合意文書に署名した旨表明。また2008年8月の北京オリンピック開会式に合わせてギラーニ首相が訪中した他、10月にザルダリ大統領が就任後初の外国公式訪問として訪中した。経済、国防等の分野で協力を強化し、中・パキスタン戦略的パートナーシップを深化させることに合意した他10件以上の合意文書が署名された。ザルダリ大統領は、2009年2月には湖北省や上海、8月には浙江省や広州をそれぞれ視察した。
(i)核政策
パキスタンは、インドが1998年5月中旬に2度にわたり地下核実験を実施したことへの対抗措置であるとして、同月下旬2度の地下核実験を行った。日本は、新規円借款及び無償資金協力を停止する等の経済措置をとった。日本は、パキスタンに対し、様々なレベルにおいて、パキスタンのNPT加入、CTBT署名・批准等を求めている。
パキスタン政府は、核兵器及びその運搬手段については、専らインドの脅威に対抗するためのものであり、インドからの攻撃を防ぐために「最低限の抑止力」を保有して「最大限の抑制」を以て、責任ある態度で対応することを核政策の基本方針と説明している。また、核実験のモラトリアムを継続し、さらに2004年6月の核の信頼醸成に関する印パ共同声明で、究極の事態にならない限り、双方が核実験のモラトリアムを継続することに合意した。
(ii)不拡散
大量破壊兵器関連技術等の拡散に関する国際的な地下ネットワークを通じた核技術流出問題に関して、パキスタン政府は、パキスタンの「核開発の父」と呼ばれるカーン博士が関わった核技術流出は、博士個人の行動であり、軍や政府の関与はないとの立場。政府としては、再発防止体制の整備及び管理の徹底を引き続き図っていると説明。日本は、北朝鮮への核技術流出は、日本の安全保障に直結する重大な問題としており、引き続き全容解明に向けた協力を行うよう要請している。
また、印パ両国は、繰り返しミサイル実験を行っており、近年特に巡航ミサイル開発の面で懸念されている。一方でパキスタンは、2005年10月に印パ両国間で弾道ミサイル発射実験の事前通報に関する協定が署名され、2004年9月に輸出管理法(「核・生物兵器及びその運搬手段にかかる物品、技術、資材及び装置に関する輸出管理のための法律」)を制定し、同法に基づき「戦略輸出管理局(SECDIV)」を置く等、輸出管理の実施に当たる体制を整える等の努力を行っている。