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インド話題集

平成18年12月

1.インドという国

インド国旗

(1)国旗

 サフラン色は勇気、犠牲、自制、白は純粋さと真実、緑は信仰と繁栄を示す。中央の輪は真理と活力を示す。

(2)人口

 インドの総人口は約10億2,700万人(2001年国勢調査)で、世界人口の約16%。中国に次ぎ世界第二位。人口増加率は1.95%であり、国連の推計では2050年までにインドの人口は約15億人に達し、中国の人口を超えるとされている。

(3)多様性に富んだ国

宗教:ヒンドゥー教徒(80.5%)、イスラム教徒(13.4%)、キリスト教徒(2.3%)、シーク教徒(1.9%)、仏教徒(0.71%)、ジャイナ教徒(0.4%)、ゾロアスター教徒など。

人種:アーリア系、ドラヴィダ系、モンゴル系など多様。

言語:連邦公用語はヒンディー語。他に憲法で公認されている州の言語が21。

面積:日本の9倍弱、ロシアを除く欧州の広さに匹敵。熱帯から氷雪地帯まで。

(4)ゼロの発見

 インド人は、抽象的思索に卓越した能力を持つと言われ、4〜6世紀のグプタ王朝時代にはアラビア数字、十進法に加え、「ゼロ」という画期的な概念を編み出した。こうした数字概念はアラブ世界を経由して12世紀頃欧州に伝わったとされている。

サリーの着方を示す図

2.文化・スポーツ

(1)伝統的衣装・サリー

 幅1.2メートル、長さ5〜11メートルの1枚の長い布で、ブラウス、ペチコートの上から体に巻き付けて着用する。素材は木綿、絹、化学繊維など。スパンコールや金銀糸を織り込んだものもある。サリーは成人女性が着用する。一方、結婚前の女性はゆったりとしたワンピースとズボン及び長いスカーフからなるパンジャビ・スーツを着用。また最近都市では洋服を着る女性も見かけられる。

(2)インド映画

 映画は、インドの庶民の娯楽として親しまれており、製作本数も世界一を誇る(年間約800本)。ストーリー展開は単純明快で歌や踊りを取り込んだ独特のスタイルを有し、海外でもハリウッドや香港映画とは異なるタイプの映画として人気がある。ムンバイ(旧名ボンベイ)は映画製作の一大拠点であり、ハリウッドをもじって「ボリウッド」映画と呼ばれている。

クリケットのバッター

(3)クリケット

 クリケット、テニス、サッカーが一般的に普及。インドの国民的スポーツと言えば、クリケット。クリケットの話題は新聞の一面を飾ることも多く、試合中はテレビ観戦のため交通量も少なくなる程。

3.わが国皇室との関係

(1)皇太子同妃両殿下(当時)の御訪印

 皇太子同妃両殿下(当時。今上天皇皇后両陛下)は、1960年11月にインドを訪問され、折から、テニスが縁で結ばれたカップルとして、インド国民の関心を引いたこともあり、盛大な歓迎を受けた。当時の御足跡をしのぶものとしては、両陛下御臨席のもとに定礎式が行われたインド国際センター(India International Centre:東京の国際文化会館を模して設立された)の礎石、日本大使館公邸庭園内の御手植えの2本の菩提樹等が残されている。

(2)徳仁親王殿下及び文仁親王同妃両殿下の訪印

 1987年3月には、徳仁親王殿下(皇太子殿下)が訪印され、デリーの他、タージマハルで有名なアグラ、石窟寺院で有名なアジャンタ・エローラなどを御視察。1992年11月には、日印平和条約締結40周年を記念し、文仁親王(秋篠宮)同妃両殿下が訪印された。

(3)大喪の礼・即位の礼

 1990年2月の昭和天皇の大喪の礼には、ヴェンカタラーマン大統領夫妻が、インド代表として出席し、またインドは異例の3日間の喪に服した。同大統領は1990年11月の即位の礼にも参列した。

4.仏教伝来と日印関係

(1)仏教伝来

 日印関係の起源は6世紀の仏教伝来にさかのぼる。仏教は、日本の文化、言語、芸術等に大きな影響を及ぼしたが、法隆寺金堂の壁画とインド・アジャンタ石窟寺院の壁画(蓮華手菩薩像)との類似性がその良い例となっている。

(2)菩提僊那

 752年の東大寺大仏開眼の導師を努めた南インド出身のバラモン僧菩提僊那(Bodisena)は来日したインド人の第1号と云われている。同僧は遣唐使派遣の際、中国より来日し奈良の大安寺に約25年間にわたり滞在したと云われている。

(3)天正遣欧少年使節団

 1582年ローマに向かった九州の三大名の少年使節(伊東マンショ等)がゴア(当時ポルトガル領)に立ち寄り、日本人として最初にインドを訪問したとされている。

(4)インドの神様と日本の神仏

 仏教の伝来とともに、インドの神様も、主に仏教の守護神という形で伝来している。その主なものをあげれば次のとおり。

5.日印貿易の礎:綿花と鉄鉱石

(1)綿花

 日本が明治時代に産業の近代化を進める上で綿織物業の発展は重要な役割を果たしたが、これを支えたものにインドの綿花、綿業があった。明治末年にはインドとの貿易額は総貿易額の約10%を占め、輸入(綿花が80%以上)は総輸入額の15%に達した。このようにインドは日本の近代資本主義経済の基盤作りに貢献した。

(2)日本の高度経済成長とインドの鉄鉱石

 戦後、1950年代半ばより始まる日本経済の高度成長を支えたのは、鉄鋼業の発展であったが、そのためにインドからの鉄鉱石の安価・安定供給は大きな役割を果たした。日印貿易は、戦前から戦後の1950年代半ば以降、日本が高度経済成長期に移行するに従い、主流が綿花から鉄鉱石に移り、1959年には鉄鉱石がインドからの輸入全体の40%と急増し(綿花は30%)、更に1965年には鉄鉱石が57%となり、綿花(10%)に完全に取って代わることとなり、日印間の貿易も飛躍的に伸びることとなった。1950年代後半から1960年代にかけての鉄鉱石に支えられた日印経済関係は、ひとつのピークをなすものであったといえる。

 なお、2005年度においても、鉄鉱石がインドの対日輸出に占める割合は16.7%であり、石油製品(17%)に続く第2位の上位品目となっている。

6.明治時代の知識人の交流:岡倉天心とタゴール

 明治の有識者の中で注目すべきは、インドの宗教家ヴィヴェカーナンダや詩人でノーベル文学賞受賞者のタゴールと親交のあった岡倉天心である。岡倉は「アジアは1つなり」ではじまる著書「東洋の理想」の中でヨーロッパの力に対し、アジアの伝統的文化を守り対応することがアジアの課題と論じ、彼のインド文化、美術、宗教への敬意は、その後の日本におけるインド文化への関心、理解に大きな影響を及ぼした。またタゴールは、1916年に訪日し、岡倉天心との交流を深めるなど、計5回日本を訪れている。

7.インドの独立への闘い、第2次世界大戦

(1)日露戦争

 1905年の日露戦争での日本の勝利にインドも熱狂し、アジア人に対するヨーロッパの優位性という神話が崩壊したこと、日本の例はインドにとっても可能であることなどがインド国内で説かれることがみられた。また、特に日露戦争を境として、多くのインド人青年が留学生として、あるいはインド国内でのイギリスからの弾圧を逃れて日本に入国した。

(2)ラーシュ・ビハリ・ボース

 インド東部ベンガル地方出身の独立の志士ラーシュ・ビハリ・ボースは、1915年来日。国外退去を命じられたビハリ・ボースは、新宿の中村屋にかくまわれ、1918年中村屋の娘相馬俊子と結婚。中村屋のカリー・ライスはビハリ・ボースの紹介と言われる。

(3)チャンドラ・ボース

 インド独立の志士チャンドラ・ボースは、1897年ベンガル地方の生まれ。1943年シンガポールにて自由インド仮政府を樹立し、インド国民軍を率いてインパール作戦を日本軍と共に戦った。

(4)パール判事

 国際法学者パール判事もベンガル地方出身。1948年の極東国際軍事裁判では、戦勝国が戦敗国を裁くこと自体に反対し、被告人全員無罪を主張。

(5)原爆記念日における黙祷

 例年、インド国会では、会期中の場合、8月6日に広島、長崎の原爆の犠牲者に対して黙祷を行っている。

「インディラ」とネルー首相(左から二人目)

8.上野動物園とインド象

(1)戦後の寄贈

 ネルー首相が1949年、東京の小学生の要望に応えて上野動物園にインド象(ネルー首相の令嬢の名をとり「インディラ」と命名)を贈ったことは有名。敗戦のショックが癒えぬ日本人、とりわけ子供達にとって明るいニュースであった。上野動物園には戦時中、軍部の命令により三匹の象を含む動物達が餓死或いは毒殺に追いやられたという悲痛な過去がある。心ある人は、「象」という動物を介して戦争の悲惨さ、平和の有難さを痛感したに違いない。象の寄贈自体は小さな出来事でも、それがその時代に持っていた意味には極めて重いものがあった。

(2)現在も続く交流

 「インディラ」は老衰のため1983年8月に死亡したが、その死は新聞等で大きく報じられ、多くの人々により悼まれた。1984年中曽根総理訪印を機に、インディラ・ガンジー首相よりインディラに代わるものとして2頭の子象「アーシャー」(希望)と「ダヤー」(慈悲)が上野動物園に寄贈された。

 また、2000年1月のフェルナンデス国防相の訪日に際し、新たな子象「スーリヤ」(太陽)の寄贈の申し出がなされた。「スーリヤ」は、2001年4月に上野動物園に到着した。

9.急成長するインド経済

(1)BRICs

 今後50年の間に大幅な経済の成長が見込まれる国として、ブラジル、ロシア、インド、中国からなる、いわゆるBRICs諸国が注目を集めている。現在、インドは、アジアにおいて、日本、中国に続き、第三位の経済規模であるが、米国のゴールドマン・サックス社調査によれば、インドが今後発展を継続する場合には、2032年までに日本のGDPを超え、米国、中国に続く経済規模となるとされている。

(2)IT産業・アウトソーシング

 インド政府は、情報技術省という独立した省の設立、教育機関の設立、免税措置の導入、ITパークの開設等を通じ、IT産業育成に努めている。インド南部のバンガロールは、世界のIT関連企業が進出した結果、インドのシリコンバレーと呼ばれるに至り、2005年度、インド国内のソフトウェア・サービス企業に雇用されている技術者は約130万人に達している。インドにおいては優秀な技術者を極めて安い給与で確保できることから、先進国、特にアメリカのIT企業のアウトソーシング先となっている。IT産業の進展は、インド国内に雇用を創出したのみならず、インドから海外への新たな移民も促進しており、カリフォルニアのシリコンバレーの技術者の3割から4割が中国人かインド人と言われる。

 また、通信技術の発展の他、インド人の語学力、安い賃金などを利用して、欧米企業系のコールセンター(製品・サービス等に関する電話での問い合わせ、苦情への対応を行う機能)をインド国内に設置する動きが加速している。

(3)日本企業のインド進出成功例

 スズキは1980年代前半にインド政府との合弁でマルチ社を設立。2005年度の乗用車販売台数は、約57万台に達し、インド乗用車市場(約114万台)で約55.1%のシェアを有する。ホンダは、インドのヒーロー社との50:50の合弁でヒーロー・ホンダを設立。2005年度には、ヒーロー・ホンダ社、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター社を合わせたオートバイの販売数は年間337万台(約46%のシェア)に達した。

 また、三菱化学は、1997年にインド東部西ベンガル州に進出。インドの財閥系石油化学会社リライアンス社の独占体制にあったテレフタル酸(ポリエステルの原料)市場に対して戦略的に投資を行い、4年目にして創業以来の塁損を一掃し、配当を開始するに至った。

デリーメトロ

(4)デリーメトロ

 首都デリーにおける人口と自動車数の急増にともない深刻化する交通渋滞及び大気汚染に対処するため、地下鉄建設のための円借款(これまでの累計1,628億円)を行っている。2003年12月に一部開通。その後、徐々に延長され、現在3路線、総延長約59キロが完成。市民の足として親しまれている。

 また、シン・インド首相をはじめインド側の強い要請を受け、現在、インドを東西に結ぶムンバイ・デリー・コルカタ間の貨物輸送力強化に関する開発調査も進んでいる。

(5)海外居住インド人

 現在の海外居住インド人の総数は約2,500万人。昨今では、インドの経済発展に伴い、IT技術者、弁護士といった知識階級が米国を中心に移住する傾向が見られ、現在米国には200万人以上のインド系住民が居住している。また、米国への外国人留学生としては、インド人学生が8万人と第一位となっている。こうした海外居住インド人のネットワークはインド及び当該居住国にて影響力を増加させており、インドと当該居住国との関係の架け橋ともなっている。

10.最近の日印関係における話題

(1)インド産マンゴウの輸入解禁

 本年6月、日本は、病害虫の感染のおそれがないとして、インド産マンゴウの輸入を解禁。インドは世界最大のマンゴウ生産国で、2005年の生産量は約1千万トン。また種類も100種類以上あるという。

(2)2007年日印交流年

 2005年4月、小泉総理がインドを訪問した際、日印文化協定締結50周年にあたる2007年に日印両国がそれぞれの国において周年記念事業を実施することを決定。この決定を受け、両国の官民関係者が協力し、お互いの国において文化・学術、観光等様々な分野での交流事業を実施すべく準備を進めている。

 インド側はシン首相来日中の14日に当地で、また日本側は2月にニューデリーにてオープニング式典を開催予定。

(3)2007年日印観光交流年

 2006年7月に北側国土交通大臣がインドを訪問し、ソニ観光文化大臣と会談した際、2007年を日印観光交流年として設定することが合意された。これを受け、2006年12月のシン首相訪日時に「日印観光交流拡大のための共同文書」を作成するとともに、観光交流の促進を図るため、2007年に日印双方で様々な事業・イベントを実施する予定。

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