第3章 各地域情勢及びわが国との関係
第1節 アジア・太洋州
1概 観
欧州での変化はアジア・太平洋地域にも一定の影響を及ぼしてきている。ただ、この地域における地政学的、戦略的環境は極めて複雑であり、かつ、政治的対立や紛争も未解決であるため、欧州における変化が今後、この地域に対して与えていく影響には多様なものがあろう。
朝鮮半島においては、南北の軍事的対峙という基本的な状況には未だ変化は見られないが、90年6月の韓ソ首脳会談の実現に象徴される韓国とソ連・東欧等の社会主義諸国との関係の進展は、朝鮮半島の分断の背景にあった東西対立という基本的図式が大きく変化しつつあることを示している。
中国では、89年の「6.4事件」以後、困難な局面を迎えている中で、国内的には安定を強調しつつ一部には引締めを緩和する動きも見られ、対外的には対ソ関係の維持、先進民主主義諸国との関係改善への期待、第三世界との関係を重視する姿勢が見られる。
インドシナ半島においては、カンボディア問題が引き続き不安定要因としてこの地域の発展を制約してきているが、その早期包括的解決を目指して関係国による積極的な努力が続けられた。
フィリピンにおいては、89年12月に大規模なクーデター未遂事件が発生して以来、政情は流動的であるが、その他のASEAN諸国は安定的に推移している。
南西アジア地域では、インドがスリ・ランカがら軍隊を完全撤退させたほか、ネパールとの間でこじれていた通商・通過問題が解決されるなど、安定化に資する動きがある。他方、一時期改善の兆しを見せたインドとパキスタンの関係は、カシミール問題をめぐり再び緊張しており、その進展は予断を許さない。
大洋州地域では、豪州、ニュー・ジーランドは難しい国内経済問題の解決のための努力を続けるとともに、アジア・太平洋地域の一員として同地域への協力を積極的に推進している。また、太平洋島峡国においては、フィジー、パプア・ニューギニアの内政面の動き等については、今後、注目していく必要がある。
東アジアを中心とする経済発展は、世界経済の活性化に貢献している。特に、ASEAN諸国は顕著な経済発展を続けている。
2. ソ連、東欧情勢がアジアに与える影響
89年以来のソ連・東欧情勢及び東西関係の急激な変化は、戦後の国際秩序の基本的枠組みに変化をもたらす大きな出来事であった。この変化は当然グローバルな意味合いを持つものであり、いずれアジア地域にも種々の影響をもたらすことになると思われる。ソ連・東欧情勢がアジアに対して与える影響には、2つの側面がある。
第1は、東欧における民主化、脱社会主義の動きが、アジアの社会主義諸国に及ぼし得る変化である。
モンゴルでは、東欧の動きに連動して、共産党一党独裁は放棄され、指導者は交替し、自由選挙が行われた。韓国では、東欧情勢の変化をとらえて東欧諸国と外交関係を樹立し、韓ソ首脳会談を実現し、南北対話を再開させようとしている。また、米ソ関係の改善を背景に国連安保理5常任理事国やその他の関係諸国によってカンボディア和平の実現に向けての真剣な努力が続けられている。
しかし、一部のこのような動きを別にすれば、アジア地域全体としては、現在までのところ、ソ連・東欧情勢の変動、東西関係の変化に連動した形での変化はあまり認められない。むしろ、中国、北朝鮮、ヴイエトナムでは、改めて社会主義の道や党の主導性が強調されていて、イデオロギー面での保守的な動きが目立っている。
第2は、東西関係の変化がアジアの地域紛争に与える影響である。南北が厳しく対峙する朝鮮半島でも緊張緩和の目立った動きは認められず、カンボディア紛争も、様々な和平への努力にもかかわらず、和平実現への動きは依然として進んでいない。
アジア地域は欧州とは地政学的状況、戦略的環境も異にしている。したがって、昨今のソ連・東欧情勢、東西関係の急変が、アジアにも一定の影響をもたらすことはありえても、東欧の状況をそのまま引き写したような変化が起こることはありえず、また、変化があったとしても、決して一様なものではない。
3アジア・太平洋協力
経済的活力にあふれるアジア・太平洋地域は、21世紀に向けて世界経済の牽引力の役割を果たすことが期待されている。今日、その潜在力を更に引き出し、世界経済全体の発展に貢献し、ひいては同地域の平和と安定に寄与するため、緊密な協力関係の構築の必要性が真剣に検討されてきている。
89年1月に豪州のホーク首相は、この地域における閣僚会議を提唱したが、これはその後の関係国間の調整を経て、同年11月6日及び7日の両日、キャンベラでアジア・太平洋経済協力(APEC)閣僚会議として日本、韓国、豪州、ニュー・ジーランド、米国、カナダ及びASEAN6か国の参加を得て開催された。同会議にはわが国から中山外務大臣及び松永通商産業大臣が出席した。
同会議では、(あ)世界及び地域の経済発展、(い)世界的な貿易の自由化、(う)個別分野における地域協力の可能性、(え)今後のアジア・太平洋経済協力の取り進め方について討議が行われた。その結果、この会議の継続開催、ウルグァイ・ラウンドの推進のための閣僚会議の開催、今後の協力を進める上での諸原則(あ)協力は開放的なものであること、(い)多様性の尊重及び協力の漸進性、(う)参加国の平等及び互恵性)について、合意が得られた。
90年7月30日及び31日の両日、第2回APEC閣僚会議がシンガポールで開催された。同会議にはわが国から中山外務大臣及び武藤通商産業大臣が出席した。
同会議では、今後の協力プロジェクトとして、貿易・投資データの整備、貿易促進、投資・技術移転の拡大、人材養成、エネルギー、海洋資源保全、通信の7件を実施していくことが採択されたほか、この協力は開放的なものであり、世界経済の更なる発展に貢献するものであることが再確認された。また、ウルグァイ・ラウンド交渉の90年内の妥結に向けての決意を表明する共同声明が発出されるとともに、中国、香港及び台湾の参加問題に関し、第3回閣僚会議に向けてこれら3者と協議を開始することで合意が見られた。
第3回APEC閣僚会議は91年ソウルで、また、第4回、第5回は各々タイ、米国で開催される予定であるが、このほか、APEC参加国によるウルグァイ・ラウンドに関する閣僚協議が90年9月(ヴァンクーヴァー)及び同年12月(ブラッセル)に開催される予定である。
わが国は、アジア・太平洋地域の一国として、同地域の安定と発展のためにこの協力に対し今後とも積極的な貢献を行っていく方針である。その際、アジア・太平洋地域は、域内諸国の経済発展の段階では依然として大きな格差があり、文化的、社会的にも多様性に富んでいるので、このような状況に配慮しつつ協力を着実に進めていくことが必要である。
1.概 観
朝鮮半島では、軍事休戦ラインをはさんで南北間で厳しい政治的、軍事的対峙が続いているという基本的枠組みには依然として変化が見られない。他方、88年7月の盧泰愚
2韓 国
(1)内 政
89年後半は、全斗煥
88年4月の国会議員総選挙の結果、過半数の議席を占めることができなかった与党民主正義党は、「与小野大」と称されるほど国会、政局運営が容易でない状況に置がれていたが、90年1月6日、統一民主党(金泳三
大多数与党は誕生したが、党の内紛もあり、3党合党への非難が高まり、民主自由党は4月初め、忠清北道の補欠選挙に敗れ、同月末の世論調査では同党への支持率が野党をも下回る水準に急落した。民主自由党は、5月9日、党大会を開催し、盧泰愚総裁(任期2年)、金泳三代表最高委員(総裁が指名)を選出した。
韓国経済は、86年から88年にかけてウォン安、原油価格安及び国際金利の低下を背景に、輸出主導により3年連続して12%台の高成長を記録していたが、89年の経済成長率は6.7%に低下した。また、貿易黒字も88年の116億ドルから89年の45億ドルへと縮小し、90年に入って貿易収支は赤字傾向にある。これは、民主化の過程で活性化した労使紛争が深刻化し、賃金の高騰及びストライキ等による生産の停滞を招き、さらには、ウォンの対ドル切上げにより輸出価格競争力が低下したことによる。加えて、地価の高騰、株価暴落といった問題が山積し、政局の難航と相まって、5月初頭には、政府が「総体的難局」と呼ぶほど困難な状況が生じた。ただ、その後、政府は大統領の訪日及びゴルバチョフ・ソ連大統領との首脳会談の実現等を通じ、また、「不動産投機抑制と物価安定のための特別補完対策」や「証券市場安定対策」等の経済面における諸措置により難局の克服に努めている。
(2) 外 交
盧泰愚大統領の「北方外交」の下で社会主義諸国との交流拡大、国交樹立の進展が目覚ましい。ソ連との間では、89年12月、実質的な領事関係の設置に合意し、90年3月、金泳三民主自由党最高委員一行がソ連を訪問した際には、ソ連側と近い将来の国交正常化に原則合意した模様である。さらに、6月、サン・フランシスコで、盧泰愚大統領とゴルバチョフ大統領との首脳会談が実現した。東欧圏では、89年2月にハンガリーと国交を結んだのを始め、その後ポーランド、ユーゴースラヴィア、チェッコ・スロヴァキア、ブルガリア、ルーマニアと、また、90年3月には初めてアジアの社会主義国であるモンゴルとも国交を樹立した。韓中関係については、中国側は「6.4事件」以降、同事件における中国当局の措置を北朝鮮がいち早く支持したことを配慮して慎重な姿勢をとっているが、韓国側は、90年9月の北京におけるアジア大会の開催を契機に関係改善の進展に意欲を示している。
盧泰愚大統領は、89年11月に欧州を訪問し、同年10月及び90年6月に訪米するなどにより、貿易摩擦を始め韓国の経済発展に伴う問題はあるものの、自由主義諸国との関係を着実に強固なものとしている。在韓米軍の駐留をめぐっては、90年1月に若干の削減が発表されたが、同年2月のチェイニー国防長官の訪韓時等に米国のコミットメントは不変であることが確認されており、今後、在韓米軍駐留経費の負担及び基地移転を含みその再調整が焦点となろう。
(3) わが国との関係
90年5月24日~26日、わが国の事情により2度にわたって延期されていた盧泰愚大統領の訪日(国賓)が実現した。韓国からの元首の訪日は84年9月の全斗喚大統領の訪日以来6年ぶり2回目であった。今回の大統領訪日は、日韓両国が、過去の歴史について区切りをつけ、21世紀へ向けて世界的視野に立って協力していけるような日韓新時代を構築していく上で大きな成果を挙げた。
過去の歴史の問題については、天皇陛下より、宮中晩餐において、「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」とのお言葉が述べられ、海部総理大臣は、「過去の一時期、朝鮮半島の方々がわが国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持」を表明した。
海部総理大臣主催の盧泰愚韓国大統領歓迎晩餐(90年5月)
また、今後、日韓両国がアジア・太平洋地域ひいては世界の平和と繁栄のために、アジア・太平洋協力、ウルグァイ・ラウンド交渉、開発途上国に対する支援に共に貢献し、世界の新秩序構築に協力して参加すべきことが確認された。また、大統領訪日を機に、原子力平和的利用協力取極が署名され、また、日本が新素材特性評価センター及び勤労者職業病予防の分野で技術協力を行うことを始めとして日韓の基礎科学交流を進めていくことなどが合意された。このほか、海難救助協定への署名も行われた。
日韓間の過去に起因する諸問題のうち、いわゆる在日韓国人「三世」(注)以降の世代の居住の問題については、1965年の在日韓国人の法的地位協定に基づき、88年12月以来両国政府間で協議が行われてきたが、90年4月30日、第5回日韓外相定期協議の結果、その法的地位・待遇に関する問題解決の方向につき決着を見た。在韓被爆者問題については、盧泰愚大統領訪日の際に、海部総理大臣より、医療面で今後総額40億円程度の支援を行う意向を表明した。また、89年7月に日韓両赤十字社により設立された「在サハリン韓国人支援共同事業体」が、サハリン在住韓国人の韓国における親族との再会支援事業を行っている。
日韓両国は相互に、米国に次ぐ第2位の貿易相手国である。日韓両国の貿易収支は構造的要因により日本側の出超で推移しており(89年の黒字幅は、ほぼ前年並みの35億7,000万ドル)、今後、拡大均衡を目指して双方で努力することが求められている。また、最近、韓国内の労使紛争の激化と賃金上昇とにより経営が成り立たなくなった一部日系企業の撤退が続出しており、撤退の条件等が現地の労働組合との間でまとまらず、撤退企業の現地労働組合が操業再開等を求めて来日し、親企業に交渉を求めるトラブルも生じたが、関係者の努力もあり円満な解決を見ている。
89年1月以降、韓国からの海外旅行が完全に自由化されたこともあり、両国間の人的交流はますます活発化しており、89年の日韓間の訪問者総数は、合わせて200万人に達している。こうした動向を踏まえ、盧泰愚大統領の訪日時には、査証手数料の免除及び1年間有効の数次査証の発給を含む「査証簡素化書簡」の署名が行われた。
なお、韓国との間でその帰属につき争いのある竹島は、法的にも歴史的にもわが国の固有の領土であることは明らかであり、韓国に対しては、随時わが方の立場を踏まえて抗議を行ってきた。最近では、89年11月の海上保安庁巡視船の調査結果に基づき抗議を行ったほか、90年4月の外相定期協議等、各種の機会にこの問題を積極的に韓国側に提起している。
3北 朝 鮮
(1) 内 政
北朝鮮では、金日成
また、経済的には、依然として困難な状況にある模様であり、韓国との経済格差は広がるばかりである。1人当たりの国民所得は韓国の4分の1(88年980ドル)程度と見られている。金日成主席の新年の辞では、90年の経済課題として電力、石炭、金属(鉄鋼)工業及び軽工業・消費財分野での増産が挙げられた。これを受けて、1月の党中央委員会では、経済建設の重要課題として「既存の経済を活用し人民経済の全部門において最大限増産し、節約すること」を決定し、「増産・節約闘争」をスローガンとしている。
(2) 外 交
北朝鮮は、中ソ両国と同盟関係を結んでおり、伝統的に双方とのバランスを維持しつつ関係を緊密化することに意を用いてきたが、最近の韓ソ関係の急速な進展を背景に朝ソ関係の今後の動きが注目されている。6月の韓ソ首脳会談の実現が発表された際、北朝鮮外交部スポークスマンは、「わが国の分断の固定化にかかわる重大な政治問題となろう。」と警告を発したが、ソ連を名指しで直接非難することは行っていない。
中国との関係では、北朝鮮は、89年6月の「6.4事件」につき中国の対応を明確に支持し、11月の金日成主席の訪中に続き、90年3月に江沢民総書記の訪朝が行われた際には社会主義の道を堅持する中朝の団結を強調するなど中国寄りの姿勢を示している。
なお、北朝鮮が85年に核不拡散条約に加入しながら、同条約上の義務である国際原子力機関(IAEA)との包括的な保障措置協定を締結していないため、国際社会の強い懸念を呼んでおり、協定の早期締結が強く望まれている。
(3) わが国との関係
わが国は、88年7月以来、日朝関係の改善を進めるべく北朝鮮に対話を呼び掛けるとともに、その実現に努力し、各般の措置をとってきている。わが方の意向は種々のルートを通じて伝達されているが、これまでのところ、北朝鮮側より前向きの反応は得られていない。朝鮮半島をめぐる国際政治の流れは加速されており、わが国としても、今後、学術交流の進展も含め、一層積極的に日朝関係の改善に取り組むこととしている。現下の日朝間の最大懸案である第18富士山丸問題については、6年以上にわたって北朝鮮に抑留されている日本人2名の早期釈放及び帰国へ向けた働きかけが行われている。なお、89年12月、日朝民間漁業暫定合意(2年間有効)が延長された。
1. 中 国
(1) 内 政
89年4月から6月にかけての民主化要求運動と軍による天安門広場の武力制圧(「6.4事件」)は、その後の中国の国内政策、社会情勢等に大きな影響を与えた。この1年、「6.4事件」によって引き起こされた内外の困難な状況の中で打ち出された一連の諸措置や諸政策には、全般的に内向きで引き締めの傾向が顕著であった。例えば、「6.4事件」前後の北京市等における事態は中国国内における共産党指導下の国家運営に対する挑戦と受けとられ、また改革・開放政策の根幹を占める経済建設をも阻むものであるとの危機感から、「安定団結」及び党と大衆の関係強化の重要性が強調された(注)。
また、「6.4事件」が起こった主な原因は、近年、思想・政治教育を怠ったことにあるとの認識に基づき、学校、職場での思想・政治教育の強化や北京大学新入生への1年間の軍事訓練の実施、さらに、党員に対する再登録の実施により、ふるい分けを行う等の措置がとられた。
「6.4事件」は、中国の国際社会におけるイメージを大きく損なったが、90年1月には北京市の戒厳令を解除し、90年5月には89年3月以来施行されていたラサ市の戒厳令も解除した。また、「6.4事件」により拘留されていた者を徐々に釈放し、さらには、「6.4事件」以降米国大使館内に保護されていた方励之夫妻の出国を許可した。これら一連の措置は、対外関係修復への努力の一環と見られている。
なお、トウ小平主席は89年から90年にかけて党と国家の中央軍事委員会主席から退いたことにより、全職務を辞任した形となった。しかし、政治の舞台から全く去ったというわけでは必ずしもなく、今後も改革・開放政策の推進のため一定の役割を果たすことになると見られる。
89年の中国経済は、88年後半からインフレを押えるために進められている経済調整政策の結果、成長率を大幅に低下させつつ(注)、縮小均衡に向かった。しかし、特に89年後半に入り金融、投資等の面で一層の引締めが行われたため、工業生産の減退、市場の停滞が顕著となり、その結果財政赤字の増大、失業者の増大、国民の実質収入の低下といった問題が生じた。これらに対処するため、政府は89年第4四半期から引締めを若干緩和した。さらに、90年3月の第7期全国人民代表大会第3回会議では、今後とも引き続き経済調整を進めるとの前提の下、経済政策の重点を適度な経済成長の維持、「産業政策」に基づく重点産業分野への傾斜及び経済体制改革措置の改善へと徐々に移行するとの方針を明らかにした。
対外経済面においては、貿易では経済調整により輸入が大幅に抑制され、輸出は一定の伸びを保った結果、貿易赤字が縮小した。しかし、89年6月の民主化要求運動に対する軍の武力鎮圧により、中国の国際的信用が低下し、西側諸国からの対中直接投資、借款に大きな影響が生じたほか、観光客も激減し、観光による外貨収入が減少したため国際収支は悪化している。
(2) 外 交
中国は、89年後半からの東欧及びソ連情勢の急展開が自国に波及することに対し警戒心を強めた模様であるが、公式には内政不干渉の立場を維持した。90年4月、李鵬総理が訪ソし、両国関係を平和共存5原則に従って発展させることを改めて確認するとともに、経済・科学技術協力、国境兵力の削減等に関する実務的内容の6文書に署名した。
「6.4事件」以降冷却化した中国と欧米諸国との関係は、未だ修復されるには至っていない。米国、中国ともに関係修復への努力は継続しており、米国側からは、ニクソン元大統領(89年10月)、キッシンジャー元国務長官(11月)、スコウクロフト大統領補佐官(7月及び12月)の訪中、対中制裁法案及びペローシ法案に対する大統領拒否権の行使(11月)、最恵国待遇(MFN)の延長の方針決定(90年5月)等が行われ、中国側からはVOA北京特派員受入れ(89年12月)、北京及びラサの戒厳令解除(90年1月及び5月)、「6.4事件」逮捕者の釈放(1月、5月及び6月)、方励之夫妻の出国(6月)等が行われた。
アジア近隣諸国との関係では、89年10月ラオスのカイソーン首相が訪中して両国党関係が回復され、インドネシアとは、90年8月に国交が正常化された。北朝鮮については、89年11月に金日成主席が訪中し、90年3月に江沢民総書記が訪朝した。
「6.4事件」以降、中国は、第三世界諸国との関係強化に積極姿勢を示しており、楊尚昆国家主席の中東・中南米訪問(89年12月、90年5月)、李鵬総理の南西アジア諸国訪問(89年11月)、銭其シン外文部長の4回にわたるアフリカ、中東諸国訪問(89年7月、9月、90年2月、3月)など活発な訪問外交が行われた。また、90年7月にはサウデイ・アラビアと外交関係を樹立した。他方、グレナダ、リベリア、ベリーズ、レソト、ギニア・ビサオが台湾と「外交関係」を樹立するに至り、中国は直ちにこれら諸国との外交関係を中断する措置をとった(それぞれ89年8月、10月、90年4月、6月)。
7月のヒューストン・サミットの政治宣言では、中国について、最近の進展のいくつかを評価し、一層の政治経済改革、特に人権分野における改革に期待を表明するとともに、アルシュ・サミットでとられた措置を修正された形で維持するとしつつも、中国における更なる前進に呼応して調整を行い得るとの方針を示した。
(3) わが国との関係
日中関係は国交正常化以来、概ね順調に発展してきたが、「6.4事件」により未だ完全には回復していない。
「6.4事件」前後に出された渡航自粛勧告については、情勢の推移を見極めた上で、まず8月北京市を除く中国への渡航自粛勧告が解除され、次いで9月北京市への渡航自粛勧告も解除された。同9月伊東正義衆議院議員(日中友好議連会長)が訪中してトウ小平主席(当時)ら中国要人と会談し、12月には第5回日中文化交流政府間協議が北京で開催された。
90年1月、鄒家華国務委員(兼国家計画委員会主任)が外務省賓客として訪日し、4月には第10回外交当局間協議が北京で開催された。また、6月末には日中友好21世紀委員会第6回会合が新しい委員の構成により北京と天津で開催され、さらに、6月末から7月にかけて、李鉄映国務委員(兼国家教育委員会主任)が、花と緑の博覧会賓客として訪日した。
経済面では、89年の日中貿易は総額196億6,000万ドルと過去最高であったが、近年の中国製品の輸入増加傾向と、主として中国の経済調整の影響による輸出減少等から、日本側の赤字も過去最高の26億2,000万ドルとなった。90年に入ると、中国の調整強化と、人民元レート切下げなどの影響もあり、輸出の落ち込みが更に顕著となり、赤字幅が一層拡大し、1月~6月の輸出入総額は前年に比べ縮小(約21%減)している。89年度の対中直接投資は、件数は減少(前年度比26%減)したものの、金額が大幅に増加(同49%増)しており、投資の大型化傾向が見られている。また、業種別では、前年に引き続き、製造業の比率が上昇している。投資に関しては、民間レベルで3月末に「日中投資促進機構」が発足したほか、政府間でも7月に日中投資保護協定に基づく合同委員会第1回会合が北京で開催された。
中国は82年以来、ほぼ毎年わが国ODAの最大の受取国となっており、89年度の対中経済協力実績(技術協力を除く)は、約1,023億円となっている。なお、第3次円借款については、中国の民生向上、経済発展のため、徐々に実施していく方針である。
2 モンゴル
変革・刷新を進めるモンゴルでは、89年12月、民主化運動が発生し、当局側は対話路線で対応した。首脳人事が一新されたのを始め、政党法の施行により複数政党制に移行し人民革命党の指導的地位の排除、恒常的議会(小議会)設置と大統領制の採用を決定するなど、民主化を進めた。90年7月には野党参加の総選挙により新議員が選出された。また、モンゴルは対外開放を進め、3月には外国投資法を採択するとともに、同月、韓国と外交関係を樹立した。5月にはP.オチルバト人民大会議幹部会議長は訪中し、またG.オチルバト人民革命党中央委議長と共に訪ソもして、対ソ関係上の懸案の解決が図られた。8月にはベーカー米国務長官が初めてモンゴルを訪問した。
わが国との関係では、90年2月末、ソドノム首相(当時)がモンゴルの首相として初めて訪日し(西側諸国の中でも最初の訪問)、海部総理大臣との首脳会談を行った。訪問中、日本・モンゴル貿易協定が署名された。
3. 香港、台湾
香港「基本法」は90年4月、中国の全国人民代表大会において可決され成立した。他方、香港政庁は、89年10月、第2国際空港の建設を含む、97年以降へ向けての大規模なインフラ・プロジェクト(総額約163億米ドル)を発表した。これは香港政庁が「6.4事件」以降高まっている香港住民の将来に対する不安を解消するためにとった施策の一環でもあり、91年に着工が予定されている。
台湾との関係では、89年の来日者数は約50万人(前年比27.8%増)となり、訪台日本人数は約101万人(同7.7%増)となった。同年の日台間輸出入総額は、244億ドル(同5.6%増)となり、わが国の出超額は64億ドル(同14.3%増)となった。
1 概 観
ASEAN(東南アジア諸国連合)の設立後20余年を経て、ASEAN各国は比較的順調な経済発展を成し遂げ、東アジア地域における平和と安定を維持する上において重要な地位を占めるようになってきている。また、日本とASEANの関係についても、政治、経済、文化等、種々の分野において進展が見られ、幅と厚みが加わってきている。
ASEANは従来アジア・太平洋協力に消極的であったが、89年11月~12月に開催された第21回ASEAN経済閣僚会議において、従来の方針を変更し、ASEANの団結と連帯を維持しつつAPECに積極的に関与していくことで一致し、その姿勢を転換させた。また、ASEAN各国はソ連・東欧情勢の変化が、わが国を始めとする欧米各国の関心を引き付け、その結果、各国の関心が東南アジア地域から薄れるのではないかとの懸念を有しており、リー・シンガポール首相等が端的にこのような懸念を表明している。わが国は、90年1月の中山外務大臣のタイ、マレイシア訪問、5月の海部総理大臣のインドネシア訪問等の機会をとらえ、東欧支援を行うにしても、ASEANに対する支援に何ら影響が及ばない旨表明し、このような懸念の払拭に努めてきた。
90年8月李鵬中国総理がインドネシアを訪問し、インドネシアと中国との外交関係が23年ぶりに正常化されたことは、同じく中国との外交関係を閉ざしてきた一部のASEAN諸国にも直接影響を及ぼし、ひいては東アジア地域の政治環境にも影響を与えるものと思われる。
域内の不安定要因であるカンボディア問題については、89年夏のパリ国際会議以降もタイによる対インドシナ積極政策、インドネシアによる非公式協議の開催に代表される仲介等、様々な動きが見られたが、その過程で各国の置かれた立場の違いを反映した対応の差が徐々に顕著になってきている。
90年7月、インドネシアにおいてASEAN外相会議、ASEAN拡大外相会議が開催され、拡大外相会議ではカンボディア問題、インドシナ難民問題、アジア・太平洋の安全保障等につき活発な意見交換が行われた。同会議にはわが国より中山外務大臣が出席し、わが国のASEAN重視の姿勢を改めて強調した。
2 タ イ
内政面では、2年目を迎えるチャチャイ政権と軍部との良好な関係及び経済の好調を背景として、引き続き安定的に推移した。89年後半に入り主要閣僚の辞任、汚職問題等の顕在化に対し、チャチャイ首相は、90年3月チャワリット国軍最高司令官代行兼陸軍司令官を副首相兼国防相として閣内に迎え入れ、政権基盤の強化を図った。しかし、その後6月に入り、チャワリット将軍が閣僚ポストを辞任し、また、野党より内閣不信任案が提出され審議される等、同政権に動揺が見られたが、同不信任案も結局否決され、チャチャイ内閣は当面の難局をとにかく乗り切った。
89年のタイ経済は、輸出の拡大、観光ブーム等の好条件に恵まれ、88年に引き続き2けた成長を達成した。他方、経済好調による資本財及び原材料等の輸入の増加を反映し、貿易赤字が拡大し、物価も徐々に上昇率を高めている。
外交面では、タイは従来より引き続きASEANの結束、先進民主主義諸国との協調を重視している。カンボディア問題に関し、タイは89年7月のパリにおけるカンボディア国際会議に他のASEAN諸国とともに参加したほか、90年に入ってからも2月のシハヌークとフン・センの会談、6月の「カンボディアに関する東京会議」の実現に当たり積極的なイニシアティヴを発揮した。
わが国との関係では、89年10月にガラヤニ王女及びシティ外相、12月にチュラポーン王女がそれぞれ非公式に訪日したほか、90年4月にチャチャイ首相が公賓として、6月にシリントーン王女が花博賓客として訪日した。わが国よりは、90年1月、中山外務大臣がタイを訪問した。「カンボディアに関する東京会議」も、4月のチャチャイ首相の訪日の際の日本・タイ首脳会談に端を発し、両国の共同作業としてとり進められたが、その意味でも画期的な出来事であった。
貿易面では、89年においても資本財を中心とするわが国の対タイ輸出が増加しており、タイの対日貿易赤字は約33億ドルに上った。また投資面では、わが国よりの対タイ投資は一応のピークを迎えつつある模様である。
3 インドネシア
内政面では、大統領後継問題についての議論が活発化し、また土地収用問題をめぐり学生運動などの動きは見られたものの、基本的には安定的に推移した。90年に入り大統領後継問題が再燃したほか、貧富格差の是正や民主化の要求などの動きが見られる。
経済面では、82年以降非石油・ガス輸出を促進するためにとられた一連の規制緩和措置等による成果が徐々に現れており、89年の経済成長率(GDP成長率)は、88年の5.7%を上回る7.4%となった。また、89年の輸出額は224億ドル(うち非石油・ガス輸出額は88年を20億ドル上回る142億ドル)、輸入額は171億ドルであった。インドネシアに対する海外からの投資は47億ドルと前年比7%の伸びを示した。また、90年6月の対インドネシア援助国会議(IGGI)では参加各国、各機関より総額45億ドルに上る援助の意図表明があった。
外交面では、スハルト大統領は、積極的な活動を行い、第9回非同盟首脳会議出席のためのユーゴー訪問(89年9月)、ソ連訪問(9月)等の外遊を行った。また、カンボディア問題解決に向けてジャカルタ非公式会合(90年2月)を開催するなどの活動を行った。
90年には6月マレイシアにて開催された南々協議・協力に関する15か国グループ会合(G-15)に出席した。中国との国交正常化についても、7月にアラタス外相がわが国訪問後訪中し、8月8日正式に正常化が達成された。
わが国との関係では、引き続き要人の往来が頻繁に行われ、90年5月には、海部総理大臣がインドネシアを訪問し、スハルト大統領と首脳会談を行ったほか、6月にアラタス外務大臣がわが国を訪問するなど両国関係の一層の進展がみられた。
わが国の対インドネシア貿易については、インドネシア政府の非石油・ガス輸出振興政策に呼応する形でわが国の製品輸入は順調な伸びを示し、89年には22億ドル(前年比約60%増)となった。また、インドネシアへの投資は89年には前年の3倍増の約7億7,000万ドルとなり、インドネシアに対する最大の投資国となった。
4 フィリピン
内政面では、87年以降、新憲法制定、二院制議会の復活等を通じ一連の民主的政治体制の整備を完了させたアキノ政権は、89年に入っても当面の最大課題たる経済再建に努力を払ってきていたが、12月に至り大規模なクーデター未遂事件により同政権発足以来最大の危機に見舞われた。アキノ政権は、米軍の支援も受け、危機を乗り切る一方、国家非常事態宣言(12月6日発出)、議会の協力で制定した大統領非常大権法(12月21日発効、ただし、時限立法であったため90年6月失効)に基づき89年12月以降クーデター再発防止及び経済再建に向け努力を継続中である。
経済面では、製造業及び建設業の両部門の高成長等を背景に、88年に引き続き89年も5.7%という比較的高率な実質成長率を達成した。こうした高成長に伴い、輸出入及び海外からの投資の大幅増が見られた。アキノ政権は経済再建の面で着実な成果を収めつつあるが、一方でインフラ整備の遅れ、電力不足による停電等の問題を抱え、巨額の累積債務、外貨不足、高失業率、極端な貧富の格差等の経済困難に依然直面している。
なお、89年12月のクーデター未遂事件はアキノ政権成立後6回目であり、かつ最大規模なものであったため、外国投資家に心理的影響を与えたとも言われているが、その影響が顕在化するのは90年後半以降と見られている。また、90年7月の大地震による被害からの復旧には多大な時間と資金が必要と見込まれており、同国の経済状況をますます困難なものとしている。
外交面では、目下、米国との間で最大の懸案となっている91年以降の在比米軍基地存続問題につき話し合うための予備協議が90年5月にマニラで開催され、一応の決着を見たため、本交渉への道が開がれることとなった。このほか、89年中はアキノ大統領のブルネイ訪問(8月)及び米国、カナダ両国訪問(11月)、また、クウェール米副大統領の訪比(9月)等、比較的活発な動きが見られたが、同年12月以降は、クーデター未遂事件に起因する国内政情の不安定により政府要人の外遊が中止されたこともあり、外交活動も低調となった。
わが国との関係では、わが国はアキノ政権の新たな国造り努力を可能な限り支援するとの姿勢を引き続き堅持した。89年12月のクーデター未遂事件の際には、同事件発生の当日(12月1日)いちはやくアキノ政権支持を表明し、さらに、同事件が概ね収拾された12月7日には海部総理大臣よりアキノ大統領に対し、わが国のこれまでと変わらぬ支援の継続を伝達した。なお、わが国は89年7月の対比援助国会合(東京)の際、対比多数国間援助構想(MAI)実現のため89年度分として総額1,350億円程度のODAを供与する用意がある旨意図表明し、これを履行している。
また、民間レヴェルにおいても、両国間の貿易、投資額はともに順調な増加を示しており、特に89年のわが国対比投資額は、前年比70%強(フィリピン側統計)の大幅増をみせ、外国からの対比投資では第1位の地位を占めた。
5 マレイシア
内政面では与党連合第一党の統一マレイ国民組織(UMNO)存続の危機(注)は、89年にはマハディール首相(UMNO総裁)の指導の下に克服され、内政は安定的に推移した。
マラヤ共産党は、独立前よりゲリラ活動を続け、最近ではその活動地域がタイ国境周辺に限定されてはいたものの依然として治安上の問題であったが、89年12月にはマレイシア、タイ両国政府との間で武力闘争の終結に合意した。
また、マレイシアは、90年を「マレイシア観光年」と定め、各種催しを行うことにより外国人観光客の誘致を図っている。
経済面では、輸入の大幅増により貿易黒字を縮小したが、外国投資の伸び(89年は前年比69%増)及び内需の伸びにより、89年実質GDP成長率は8.5%と引き続き堅調な拡大を示した。90年は、貧困の撲滅、社会の再編成を2大目標とする新経済政策の終了年にあたるため、現在91年以降の経済政策につき、各界・各人種代表によりなる経済諮問委員会において政府への報告書を作成中である。
外交面では、国連安保理非常任理事国(任期89年、90年)として、また、英連邦首脳会議(89年10月)及びG-15首脳会議(90年6月)の開催国として活発な活動を推進した。
わが国との関係では、90年1月には中山外務大臣がマレイシアを訪問した。「東方政策」(注)に対しても、わが国は留学生及び産業技術研修生等の受入れを民間企業等関係方面の協力を得て行い、引き続き積極的に協力している。
また、わが国はマレイシアにとって最大の貿易相手国、投資国であり、特にマレイシア政府の熱心な投資誘致政策もあり、わが国のマレイシアへの投資は大幅な増大を示している(マレイシア側資料によれば、89年は前年比90%増)。
6 シンガポール
内政面では、リー・クアン・ユー首相は、90年末までに首相職を退き、ゴー・チョク・トン第一副首相に譲る旨表明しており、今後、政権交代に係わる国内政治の動向が注目される。
経済面では、89年に入り先進諸国経済の成長鈍化の影響から外需が低下し、製造業部門の伸び悩みもあったが、他方で金融、サービス部門の好調もあり、通年では9.2%の経済成長を記録した。
外交面では、シンガポールは89年8月、在比米軍基地の存続に寄与するのであれば米軍事施設を受け入れる用意がある旨意思表明したところ、近隣諸国をはじめ関係各国より賛否両論にわたる反応を招くところとなった。その後10月、シンガポール政府は声明をもって米軍による国内軍事施設の従来以上の使用につき米国との間で合意に達した旨発表したが、この合意の内容は、従来行われてきた施設使用を拡大する範囲のものであり、ASEAN各国もこれを容認するとの見方が有力である。
わが国との関係では、90年5月のオン・テン・チョン第二副首相の訪日及び7月の中山外務大臣のシンガポール訪問(第2回APEC出席のため)を始め、ハイレヴェルで間断ない対話が行われ、両国関係は引き続き順調に推移した。
7 ブルネイ
内政は高い経済水準を背景に安定的に推移した。しかしブルネイ経済は、石油、天然ガス資源のみに依存するものであり、政府もその危険性を認識して、資源の有効利用と各種産業の育成につき真剣な検討を行っている。
対外的にはASEAN中心の外交を展開しており、89年8月には第一王子の成人式の機会にASEAN各国首脳を招待するなど、ASEAN各国との連帯強化に努めた。
わが国との関係では、89年8月にはボルキア国王が非公式に訪日するなど、人的交流も活発化する傾向を示しており、総じて両国間関係は良好に推移した。
8 ヴィエトナム
内政面では、経済を中心とする「刷新」政策を継続し、社会主義経済下における補助金制度の撤廃を断行して大幅な財政赤字の削減に努め、金利政策、変動為替相場制の採用などにより大幅なインフレを鎮静化させた。経済自由化、開放政策により私営部門など一部の活動は活性化しているが、技術的に立ち遅れた国営企業は操業停止になっているところもあり、軍隊削減に伴う除隊者も加わり、大規模な失業が問題化している。ソ連・東欧の変革に対しては、「刷新」政策は不変であるが、共産党一党支配は堅持、政治的多元主義は導入しないとの方針をとった。これにより、90年3月の党中央委員総会において、東欧諸国の民主化以降、ヴィエトナムへの政治的多元主義導入を主張してきたチャン・スアン・バック党政治局員兼書記を解任するという処分を行った。
外交面では、89年9月末、在カンボディア越軍が完全撤退した旨発表したが、国際的検証は実施されていない。90年に入り、中国は対越関係改善により積極的な姿勢を見せ、5月には北京において第3回外務次官級会談が開催され、6月には79年以来初めて中国高官(外交部長助理)が訪越し、第4回会談が行われた。中越関係改善の鍵はカンボディア問題の解決であるが、未だ積極的な進展は見られない。また、ソ連・東欧諸国の変革により、これらの社会主義諸国との党・国家関係は調整が必要となっている。
わが国との関係では、78年末のヴィエトナム軍のカンボディア侵攻以来、日越関係は停滞している。ただし、他方、種々の政治対話、政治関係者の相互往来、文化、学術の交流は進んでいる。貿易も近年、高いレヴェルではないが、着実に伸びており、対日輸出が増大し、輸入の2倍の規模に達している。
9 ラオス
内政面では引き続き「経済建設」が最優先課題とされ、経済諸改革が推進された。89年6月に総選挙後初の最高人民議会総会が開催され、11月には刑事法、刑事訴訟法、人民裁判法、司法組織法の4法が成立した。新憲法についても90年内の公布に向け起草作業が本格化した。90年1月に開催された人民革命党第4期第9回中央委員会総会においては、ソ連・東欧情勢の急変に驚きを示しつつも、人民革命党の指導下で諸改革の推進を継続することが確認された。
外交面では、ヴィエトナム、カンボディア(「ヘン・サムリン政権」)、ソ連等の社会主義諸国との関係を強化するとの基本政策に変化はなかったが、タイ、中国との関係が改善され、89年10月、カイソーン首相が訪中し、90年3月、タイのシリントン王女がラオスを訪問した。同時にわが国を始めとする先進民主主義諸国との関係増進にも努力を払い、対米関係にも改善傾向が見られた。
わが国との関係では、経済協力を中心に良好な関係が継続されてきた。特に89年11月のカイソーン首相訪日は75年のラオス新政権成立以来初めてのことであるのみならず、同首相にとり最初の先進民主主義国訪問でもあった。また、90年8月、ラオス人民民主共和国成立以来、わが国の閣僚として初めて中山外務大臣がラオスを訪問した。
10. ミャンマー
内政面では、ソー・マウン政権は88年9月に軍事クーデターにより全権を掌握して以来、複数政党制による総選挙の実施を公約し、選挙法の制定等、準備を進めてきていたが、90年5月27日、公約通り総選挙が実施された。
総選挙には93の政党、2,296名の候補者が立候補し、活発な選挙活動を行ったが、アウン・サン・スー・チー女史(注)の率いる国民民主連盟(NLD)が、同女史に対する国民の圧倒的人気を背景として総議席数(492議席)の3分の2をはるかに超える392議席を獲得して圧勝した。これに対し、ネ・ウイン政権下で唯一の政党であったビルマ社会主義計画党の後身である国民統一党(NUP)は惨敗した。
今後の政権委譲については、現政権は新憲法が制定され、この憲法に基づき新政府が樹立されれば政権を委譲するとしているものの、新政府樹立の時期、具体的態様について明確な説明を行っておらず、依然不透明な状況である。なお、わが国は7月2日、総選挙の実施を歓迎し、今後早期に円滑な政権委譲が行われることを希望する旨表明した。
わが国は、89年2月、ソー・マウン政権を承認し、経済協力については、88年の騒動以降事実上停止していた継続案件を実施可能なものから徐々に再開しているが、新規案件については当面情勢を見守っていくこととしている。
1 概 観
この1年間の動きの中で、東西関係の変化という大きな国際社会の変革の流れが南西アジア諸国にも波及し、これら諸国が対応を迫られつつあることが注目される。例えば、最近のカシミール情勢やネパールの民主化運動の高揚の背景に、東西関係の進展及びこれに伴う東欧諸国における民主化運動の展開、ソ連を構成する共和国内の民主主義の高揚の影響が見られる。西には92年に向けたEC統合の進展、東にはアジア・太平洋協力の展開、ASEANの発展が見られる中で、南西アジア諸国は、新しい国際的な流れから取り残されるのではないかとの危惧を抱き、その進むべき道を模索している。
このような南西アジア諸国を取り巻く情勢の変化は、従来一般的に言われできたインド・ソ連対パキスタン・中国・米国という南西アジア固有の対立構造に変化をもたらしている。88年12月のガンジー・インド首相(当時)の訪中(インド首相として34年ぶり)は、上述の変化の一つの現れである。インド、パキスタン両国とも米国、中国、ソ連との関係を微妙に変化させつつある。また、89年2月にソ連軍がアフガニスタンから撤退を完了したことから、それまでパキスタンが有していた西側の前線国家という意味が薄らいでいる。90年に入って、インド・パキスタン独立以来の両国間の最大の懸案であるカシミール問題をめぐって緊張が高まり、両国の核開発能力に対する懸念とも相まって国際社会の関心を集めた。現在両国間で対話が行われており、今後の動向が注目される。
(カシミール問題については第2章第1節第3項参照)
90年4月28日から5月6日にかけて、海部総理大臣は、インド、バングラデシュ、パキスタン、スリ・ランカの南西アジア4か国を歴訪し(前後にタイ、インドネシアも訪問)、各国首脳と幅広い分野につき意見交換を行って、大きな成果を挙げた。南西アジア地域へのわが国の総理大臣の訪問としては、インド、パキスタンへは6年ぶり、スリ・ランカヘは33年ぶり、バングラデシュへは同国独立以来初めてであった。海部総理大臣は、インド国会で政策演説を行い、南西アジアについては、対話と協力を通じて政治的安定と経済的発展を引き続き支援するとともに、「国際協力構想」をこの地域で具体的に促進していくことなどを通じ、アジアの一員としてこれら諸国との間で幅と深みのある関係の構築を目指すことを明らかにした。
また、インド及びパキスタン両国首脳との会談においては、カシミール問題につき自制と話合いにより問題の平和的解決を図るよう強く呼び掛け、両国とも基本的に関係改善のための努力を約束した。海部総理大臣はまた、インド、パキスタン両国首脳に対して核不拡散条約への加盟を訴えた。
2. インド
インドでは、89年11月下院総選挙が行われ、ガンジー首相の率いる与党国民会議(インディラ派)政権が敗北し、シン現首相率いる野党連合の「国民戦線」が政権を担当することとなった。与党の敗北の背景として、野党間の候補者調整の成功と、国防調達をめぐる政府側の汚職の疑惑、バーブリ・マスジット問題(注)をめぐるイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立への対応の不手際、消費物資の価格騰貴等によって国民の支持を失ったことが挙げられる。
シン政権は外交面では近隣諸国との関係改善を、経済面では前政権以来の経済自由化政策の維持と農業・中小企業重視を掲げており、これまで、ネパール、スリ・ランカとの関係改善には成功したものの、具体的経済政策の多くは今後の展開を待つ必要がある。なお、「国民戦線」の中心政党ジャナタ・ダルの内部で時折権力抗争が顕在化している上、「国民戦線」単独では過半数を得ることができず、右派のインド人民党(ヒンドゥー至上主義政党)及び左派の共産党(統制経済政策等を主張)の閣外協力を得ており、「国民戦線」政権の基盤は盤石であるとは言い難い。また、カシミール問題に加え、バンジャブ州の分離独立を唱えるシーク教徒過激派の動きもあり、困難な課題を抱えている。
3. パキスタン
88年12月成立したブットー政権は、当初は国民の期待を集め、また、対外的にも従来つながりの深かった中国、米国との友好関係を確固としたものにした。核保有についての疑惑により困難が予想されていた89年度の米国からの援助も確保することに成功した。インドとの関係についても、ガンジー・インド首相との個人的信頼関係の醸成により両国関係改善の機運をもたらした。さらに、89年10月には悲願の英連邦加盟がインドの賛成を得て達成された。
しかし、ブットー首相率いるパキスタン人民党(PPP)は連邦議会で過半数を制しておらず、また、パキスタンの人口及び基幹産業たる農業の生産力の約半分を占める有力州であるバンジャブ州の政府及び議会は野党イスラム民主同盟(IDA)が押えており、内政運営上の困難が常につきまとっていた。また、経済政策面で財政、貿易赤字の拡大、失業の増大等に対し有効な政策を打ち出せなかった。89年11月の野党によるブットー首相の不信任案はかろうじて否決されたものの、バンジャブ州等野党政権の州政府との対立、シンド州の騒擾の激化に伴う軍への権限委譲問題をめぐる軍部との対立、カシミール問題をめぐるインドとの緊張の激化等により政治的基盤が一層不安定化していると言われ、加えて首相周辺や政府及び党の要人の汚職や私利私欲の追求の嫌疑等により、政治不信が高まっているとの評価も見られた。
このような状況の下、8月6日、カーン大統領は憲法上の手続きに従い国民会議(下院)を解散し、ブットー首相及びその閣僚の地位を失わしめるとともに、総選挙を10月24日に実施する旨発表し、それまでの暫定内閣の首相にジャトイ野党連合(COP)を任命した。
暫定政権はブットー前政権のこれまでの汚職等の不正行為を追求するとしているが、ブットー前首相は今回の大統領の措置を違憲として裁判所に提訴する旨、及び総選挙が実施されればPPPが勝利することを確信する旨表明している。
4. ネパール
ネパールは1961年以来政党なきパンチャーヤット制度と呼ばれる国王親政を採用してきたが、90年1月以降、ネパール・コングレス党、共産党等が民主化要求運動を活発化させ、4月6日に首都カトマンズで10万人以上とも言われる大規模なデモが行われたことを受けて、ビレンドラ国王が憲法より政党活動を禁止する条項を削除した旨発表した。この結果、パンチャーヤット制度下の内閣に代わり、ネパール・コングレス党、共産党等からなるバッタライ内閣が発足した。同内閣は、新憲法の起草、総選挙の実施を主たる任務とする暫定政権である。政党政治の導入はネパールにおける政治的大転換であり、新しい憲法体制下の王室のあり方を含め、今後の民主主義の具体的進展が注目される。
なお、89年3月、インド・ネパール通商・通過条約の改訂交渉が暗礁に乗り上げ、同条約が失効したため、ネパールにおいて必要物資の確保に困難が生じる等の影響が出た。バッタライ政権が発足した後の90年6月、両国は暫定的ながら通商・通過問題を含む二国間関係を従前の状態に復することで合意し、関係は改善されてきている。
5 スリ・ランカ
スリ・ランカにおいては、89年5月、政府とタミル過激派(LTTE)の間に和解が成立した。これを背景として、スリ・ランカ政府は治安維持やタミル過激派鎮圧のため派遣されたインド軍の撤退を要求し、インドはこれに応じて90年3月末撤退を完了した。しかし、6月スリ・ラン力北部・東部において、話合いを続けてきた政府とタミル過激派の間に武力衝突が再発し、現在も戦闘は継続中である。今後は事態の早期解決と北部・東部情勢の悪化に伴う対インド関係の調整、インドとの関係の枠組みを規定する平和友好条約の締結が課題となっている。また、シンハラ過激派(JVP)の取締りが適正手続きをとらずに行われているのではないかといった人権問題についての懸念が国際的に指摘されており、改善状況が注目される。
6 バングラデシュ
内政面では、主要野党に団結の兆しもなく、エルシャド政権に挑戦する勢力はないと見られている。90年3月の郡評議会議長選挙に非公式ながら全野党が参加したため、比較的自由、公正な選挙であったとの国内外の評価を得ている。今後、91年5月に実施される見通しである大統領選挙、93年3月に任期が切れる国会議員選挙という政治スケジュールをにらみ、野党の動きを含めた内政の動きが注目される。
1. 豪 州
88年から89年にかけては、堅調な一次産品市場等に助けられ、豪州経済は順調な伸びを示したものの、これが内需主導型の経済成長であるため、大幅な経常収支赤字、対外債務の増大などの経済問題が深刻化した。さらに、89年8月に始まった国内パイロット組合ストの長期化は、88年度外貨獲得の第1位を占めた観光収入を大幅に減少させ、豪州経済に大きな打撃を与えた。ホーク政権は、これら経済問題に対し高金利緊縮財政による内需抑制、為替安定、労働コストの引下げなど、経済の効率を高め、輸出産業及び輸入代替産業の競争力強化政策を推進してきたが、このような政策は国民の犠牲を強いるものであり、実質生活水準低下に対する国民の不満が高まり、伝統的な労働党支持層の労働党離れにつながった。
連邦総選挙の前哨戦として、89年11月に南オーストラリア州総選挙、12月にクイーンズランド州総選挙が実施され、両州において労働党が勝利を収めた。しかし、南オーストラリア州総選挙では、連邦政府の経済済政策問題及び高金利問題が持ち込まれ、労働党が大苦戦を強いられる結果となった。
ホーク首相は、このような国内状況を踏まえつつ、保健政策等の主要政策分野における野党内部での意見対立、人事面での混乱、ピーコック野党連合党首の急激な支持率低下等の状況をとらえ、連邦総選挙に打って出た。選挙戦においては、野党側の有効な代替政策の欠如、党首の指導力の欠如に助けられ、3月24日の総選挙では、結局、ホーク首相が率いる労働党が勝利し、ホーク政権は豪州政治史上第2の長期政権となることとなった。
ホーク首相は、政権第4期目の主要課題はこれまで継続してきた経済構造改革の一層の推進にあるとして、産業再編成、労働市場の弾力化等を図り、究極的には豪州経済の国際競争力を強化するために漸進的な経済構造改革に取り組んでいる。
外交面では、ホーク政権は、ANZUS条約を軸とする対米関係を堅持し、最大の貿易相手国たる日本を含むアジア・太平洋諸国との関係を伸長させるとともに、太平洋島嶼国への経済、防衛面での支援による南太平洋地域の安定維持に努力している。
最近、豪州はアジア諸国との関係強化に努力しており、89年11月には、ホーク首相の諮問により、豪州と北東アジア諸国との関係強化の方策を提案した「ガーノー報告」が発表された。
豪州は89年9月、約70か国の参加を得て、化学兵器軍縮分野における初の官民合同国際会議である化学兵器禁止官民合同国際会議を主催した。また、ホーク首相が同年1月に提唱したアジア・太平洋政府間協議構想が具体化し、日本、韓国、ASEAN諸国、米国、カナダ、ニュー・ジーランドの参加を得て、11月にキャンベラにおいて第1回アジア・太平洋経済協力(APEC)閣僚会議が開催された。また、カンボディア問題に関しても、89年11月、和平に向けての新たな提案を提出するなど、極めて積極的に外交イニシアティヴを発揮してきている。
わが国との関係については、89年1月開催された第10回日豪閣僚委員会において建設的パートナーシップの構築が合意されたが、以来、太平洋島嶼国に対する援助等に関する協力、カンボディア和平に向けての協力等に加え、化学兵器官民合同会議及びAPEC閣僚会議へのわが国の参加など、両国間の協力の枠組みは拡大の一途をたどっている。また、89年秋、わが国において日豪生活文化交流が実施され、両国間の草の根レヴェルにおいての関係が急速に深まりつつある。
このほか、人的交流面においても、豪州を訪問する日本人観光客数の顕著な伸びに加え、活発な政府要人等の往来が見られるなど、日豪のパートナーシップは着実に厚みを増しつつある。
2 ニュー・ジーランド
89年8月、ロンギ首相は、経済政策をめぐる与党労働党内の不和から辞任し、パーマー副首相が首相に選出された。パーマー首相は、分裂した与党の結束を図りつつ、経済改革政策を踏襲しているが、高い失業率等、経済状況に改善は見られていない。与党労働党は、90年2月に内閣改造を行ったものの、世論調査では首相交代直後のわずかな時期を除き、野党国民党に常に大きくリードされており、10月に予定されている総選挙が注目されている。
外交面では、豪州との間の経済緊密化協定に基づき、全生産部門における製品貿易の完全自由化を95年までに実現することが予定されていたが、これを90年7月に繰り上げて実施するなど、両国間の自由貿易化を推進した。また、豪州からフリゲート艦2隻を購入することを決定し、安全保障面での両国の関係の強化に努めた。
パーマー首相は就任後、ロンギ前政権の非核政策の継承を明確にしているが、冷却している対米関係の改善に努力し、90年3月には4年ぶりにムーア外務貿易相とベーカー国務長官との会談が実現した。しかし、米国はANZUS条約に基づくニュー・ジーランドに対する安全保障面の義務を停止したままである。
さらに、ニュー・ジーランドは農産品貿易の自由化を貿易面での最大の関心事項としており、ウルグァイ・ラウンド交渉においても、農産品輸出国の集まりであるケアンズ・グループの一員として農業補助金の削減等、農業貿易の自由化を積極的に推進する立場をとっている。
また、90年6月に対太平洋島嶼国政策の見直しのためのタスク・フォース報告を踏まえ、今後の島嶼国との関係のあり方につき検討を行った。
わが国との関係では、89年後半、流し網漁業問題を起因としてマスコミでの対日批判がみられたが、90年7月、パーマー首相の訪日が同国首相の訪日としては9年ぶりに実現し、人物交流や環境分野での協力等今後の両国の友好協力関係の一層の促進につき意見の一致を見た。
3. 太平洋島嶼国
太平洋島嶼国地域は、基本的には平静を保っているが、島嶼国の抱えている経済的、社会的脆弱性等の問題には基本的には変わりはない。パプア・ニューギニアのブーゲンヴイル島での騒擾や新憲法成立後のフィジーにおける内政問題等、依然流動化の素地は残されている。
島嶼国は、地域主義の下に域内結束を強化し、漁業問題についても統一的な態度をとっている。特に、南太平洋公海でのビンナガマグロ流し網漁業問題について島嶼国は、豪州、ニュー・ジーランドと共に南太平洋流し網漁業禁止条約を作成し(90年7月時点で未発効)、また、わが国及び台湾の流し網漁業に対する非難に積極的に加わった島嶼国もあった。わが国は、科学的根拠に基づきビンナガマグロ資源の保存・管理及び有効利用について関係国が協力していくべきとの立場がら、わが国の流し網漁業に対する太洋州諸国の理解を得るよう努力するとともに、域内関係国とのビンナガマグロ資源管理体制協議(89年11月第1回協議、90年3月第2回協議)に積極的に参加した。なお、90年7月わが国は、89年末の流し網漁業に関する国連決議によれば91年7月1日以前となっている南太平洋における大規模流し網漁業の停止時期を1年早め、90/91年漁期(90年11月頃~91年4月頃)以降、南太平洋における流し網操業を停止することとした(注)。
この決定は、南太平洋の開発途上島嶼国がその経済基盤を水産資源に大きく依存し、今後ビンナガマグロ漁業を自国の経済振興のために発展させたいとの強い希望を有し、このため南太平洋の流し網漁業に対して依然として重大な懸念を抱いていることに特別に配慮し、また、南太平洋諸国との良好な関係を維持、発展させるとの観点から行ったものである。
南太平洋フォーラム(SPF)及び南太平洋委員会(SPC)等、国際機関を通じた地域協力は地域の平和と発展に大きく寄与しており、わが国も89年より始まったSPFと域外国の対話に積極的に参加している。
1971年1月17日以降に日本で出生した在日韓国人で、いわゆる在日韓国人の法的地位協定第1条第2項の規定に基づき永住を許可された者の子孫。 |
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90年3月の中国共産党第13期中央委員会第6回全体会議では「党と大衆との関係強化に関する決定」が採択され、また、第7期全国人民代表大会第3回会議(3月~4月)における李鵬総理の政府活動報告でも安定が強調された。 |
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GNP成長率は88年10.8%から89年3.9%に低下。 |
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87年のUMNOの役員選挙をめぐる訴訟で、88年2月、裁判所が同党の法的地位を否定した。 |
81年、マハディール首相が提唱。日本及び韓国の発展、特に労働倫理を学ぼうとする人造り政策。 |
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独立の父として国民的英雄であるアウン・サン将軍の娘。同女史は、89年7月以降、国内法違反の理由により自宅軟禁中。今回の総選挙では立候補資格の取消し処分を受け出馬は認められなかった。 |
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イスラム教寺院の脇にヒンドゥー教寺院を建設する問題。 |
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この措置は、国連決議にいうビンナガマグロ資源管理体制が確立し、その下で関係諸国の流し網漁業の取扱いについての合意が得られるまで、当分の間継続される。 |